第114話 旧い署名の名
将軍が回してくれた記録の中に、それはあった。
私の追放を正式な裁定として整えた、その手続きの綴り。
署名の多くは、例によって塗り潰されていた。
だが、一枚だけ。
塗り忘れなのか、当時は塗る必要がないと思われたのか。一つの署名が、消されずに残っていた。
カイル。
私は、その三文字を長いあいだ見つめた。
インクは、少し褪せていた。けれど、確かにあの人の筆跡だった。右上がりの、性急な癖。かつて、手紙の終わりにいつもそう書かれていた名。
あの頃は、この名を見て胸を高鳴らせたことも、あった。遠い、遠い昔の話だ。
かつて、毎日のように呼んでいた名だった。私の、隣に立つはずだった人の名。
彼が――カイルとして、ここに署名していた。
私を潰す裁定に。
心変わりの勢いで書いたのではない。日付を見れば分かる。これは、感情の紙ではない。手続きの紙だ。冷静に、事務的に整えられた紙。彼は、その一部として名を書いた。
そして。
私は、気づいた。
この「カイル」という名は今、この国のどこにもない。
彼はレオンハルトになった。カイルという名は、静かに使われなくなった。
――黒く塗り潰された署名と、同じだ。
塗り潰さなくても、名は消せる。
名を変えてしまえばいい。
新しい名は、新しい人を作る。過去を知らない人々は、レオンハルトを最初から善良な王太子だと信じる。カイルという男は、どこにもいない。いないことにされた。
――私と、同じように。
カイルとして私を切り捨てた人は、レオンハルトとして、国を真剣に考える善良な人になった。
その変化は、本物だと思う。彼は変わった。
でも――変わることと、清算することは、違う。
カイルのしたことは、レオンハルトになっても消えない。
名を変えることは、たぶんこの国でいちばん上品な黒塗りだった。
私は、その残った三文字を指でそっとなぞった。
名を変えることは、いちばん上品な、黒塗り。
けれど、変わることと、清算することは、違う。
次回、レティシアは、名を変えた人と、向き合います。




