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婚約破棄された悪役令嬢は、役割を与えられない場所で静かに生きる 〜尽くしても報われなかった私を、理由も聞かずに受け入れてくれる領がありました〜  作者: 水無月カレン


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114/130

第114話 旧い署名の名

 将軍が回してくれた記録の中に、それはあった。


 私の追放を正式な裁定として整えた、その手続きの綴り。


 署名の多くは、例によって塗り潰されていた。


 だが、一枚だけ。


 塗り忘れなのか、当時は塗る必要がないと思われたのか。一つの署名が、消されずに残っていた。


 カイル。


 私は、その三文字を長いあいだ見つめた。


 インクは、少し褪せていた。けれど、確かにあの人の筆跡だった。右上がりの、性急な癖。かつて、手紙の終わりにいつもそう書かれていた名。


 あの頃は、この名を見て胸を高鳴らせたことも、あった。遠い、遠い昔の話だ。


 かつて、毎日のように呼んでいた名だった。私の、隣に立つはずだった人の名。


 彼が――カイルとして、ここに署名していた。


 私を潰す裁定に。


 心変わりの勢いで書いたのではない。日付を見れば分かる。これは、感情の紙ではない。手続きの紙だ。冷静に、事務的に整えられた紙。彼は、その一部として名を書いた。


 そして。


 私は、気づいた。


 この「カイル」という名は今、この国のどこにもない。


 彼はレオンハルトになった。カイルという名は、静かに使われなくなった。


 ――黒く塗り潰された署名と、同じだ。


 塗り潰さなくても、名は消せる。


 名を変えてしまえばいい。


 新しい名は、新しい人を作る。過去を知らない人々は、レオンハルトを最初から善良な王太子だと信じる。カイルという男は、どこにもいない。いないことにされた。


 ――私と、同じように。


 カイルとして私を切り捨てた人は、レオンハルトとして、国を真剣に考える善良な人になった。


 その変化は、本物だと思う。彼は変わった。


 でも――変わることと、清算することは、違う。


 カイルのしたことは、レオンハルトになっても消えない。


 名を変えることは、たぶんこの国でいちばん上品な黒塗りだった。


 私は、その残った三文字を指でそっとなぞった。

名を変えることは、いちばん上品な、黒塗り。

けれど、変わることと、清算することは、違う。

次回、レティシアは、名を変えた人と、向き合います。

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