第108話 理由を聞かない男
馬車が領境へ向かって遠ざかっていく。
俺は屋敷の前でそれを見送っていた。
理由は、聞かなかった。
閉じるために行く、と彼女は言った。それで充分だ。彼女が言った以上、俺はその言葉を信じる。信じることと聞かないことは、俺の中では同じことだった。
――だが。
今日は、初めてその二つが少しだけずれた。
聞きたかった。
危険はないのか。無理をしていないか。あの場所は、お前を追い出した場所だぞ。そこへ、また自分から行くのか。
言葉が喉のところまで来て、止まった。
俺はそれを飲み込んだ。
聞けば、彼女は答えるだろう。律儀な女だ。だが、答えさせることは、彼女の背に俺の不安を荷物として積むことだ。
彼女は、長いあいだ他人の不安を代わりに背負ってきた人間だ。誰にも気づかれず、報われるとも思わずに。
その背に、俺まで荷を積みたくない。
だから、聞かない。
かつて俺を辺境へ送った先代も、理由を聞かなかった。お前がここにいる、それだけだ、と言った。その一言で、俺はここまで来た。
先代は、変わった人だった。多くを語らず、多くを問わず、ただ、必要なものを黙って置いていく人。
俺は、あの人の背中しか知らない。名を呼んだこともほとんどない。
それでも、あの人が置いていったものの上に、俺は立っている。理由を聞かれずに救われた者は、たぶん理由を聞かない者になる。
俺が受け継いだのは、たぶんそういう作法だ。
相手を信じて、問わないこと。相手の速さを急かさないこと。
馬車が森の陰に消える。
出会った日、俺はあの馬車から降りてきた彼女に外套を掛けた。言葉は上手くない。だが、温度は嘘をつかない、と思ったからだ。
あのとき、彼女はひどく痩せていた。強がりだけで立っているような、そんな痩せ方だった。緩め方を忘れた背中を、俺は今も覚えている。
今日は、掛けるものが何もなかった。
彼女はもう、寒さに震えていない。
俺は、それを少しだけ寂しく思い――そして、それでいい、と思った。
用意し続けることだけが、俺にできることだ。
彼女が帰る場所を。急かさず、問わず、ただ、ここに。
「帰ってきます」と、彼女は言った。
俺は、その言葉を雪解けの森のように、静かに抱えておくことにした。
送り出す側にも、飲み込む言葉があります。
次回、舞台は王都へ。第一幕の、幕です。




