第107話 送り出す側
私は執務室の扉を叩いた。開いていたけれど、叩いた。
アレクシスが書類から視線を上げる。
「王都へ、行かせてください」
言ってから、自分の声が思ったより静かだったことに気づいた。
覚悟は、とうに決まっていたのだと思う。決まっていたから、声が震えなかった。
彼はすぐには何も言わなかった。ペンを置き、私を見た。冷えた湖のような目。けれど、その底がわずかに動いた。
「復帰か」
「いいえ」
私は、首を振った。
「戻るためではありません。閉じるために行きます」
「閉じる」
「黒く塗られた署名も、骨を抜かれた枠も。誰も負わずに済むように作られた、その空白を。……数えて、閉じてきます」
誰かを罰しに行くのではない、と私は言い添えた。私は、そういうやり方をいちばん憎んでいる。私がするのは、記録を正しく残すこと。それだけだ。
アレクシスは、私の言葉を遮らなかった。最後まで、聞いた。
この人は、いつもそうだ。人の話を途中で結論づけない。分かったふりを、しない。
アレクシスはしばらく黙っていた。
窓の外で、森が揺れている。
やがて、彼は短く言った。
「行くのか」
それは、止める言葉ではなかった。理由を問う言葉でも、なかった。
ただ、確かめる言葉。
「はい」
彼は頷いた。それ以上は聞かない。出会った日から、変わらない。
――けれど。
彼が口を開きかけて、閉じたのが分かった。何かを聞きかけて、飲み込んだ。
理由を聞かない男が、初めて聞きたそうにしていた。
私は、その飲み込まれた言葉の分だけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
「アレクシス様」
「なんだ」
「帰ってきます」
言ってから、少し驚いた。「戻る」ではなく、「帰る」と自然に口から出たことに。
ここへ帰る。役割のある場所へ戻るのではなく、私の場所へ、帰る。
彼の口の端がほんのわずかに動いた。笑み、と呼ぶには足りない。けれど、確かに動いた。
「ああ」
それだけだった。
それだけで、充分だった。
――だから私は、そのとき気づかなかった。
彼が飲み込んだ言葉が、何だったのかを。
「戻る」ではなく、「帰る」。
言葉は、正直です。




