第106話 役割を求められない場所で
私は、迷っていた。
ここは、役割を求められない場所だ。誰も私に何かを期待しない。だから、私は静かに生きられる。それは、長いあいだ私が欲しくて手に入らなかったものだった。
この静けさを手に入れるまでに、私は多くを失った。婚約者を。地位を。名誉を。かつて当たり前だと思っていた、すべてを。
失って、削られて、それでも辿り着いた場所だ。
それを、また自分から手放すのか。
王都の骨抜きの手続きも、黒く塗られた署名も、私が首を突っ込む謂れはない。私はもう、あそこの人間ではない。
放っておけばいい。
そう思おうとして、思えなかった。
骨を抜かれた枠は、いずれ動きだす。再統合が通れば、辺境の二本目の経路は王都の手に戻る。保険は、消える。
そして、そのツケを払うのは決めた誰かではない。
薬草が足りなくなって困るのは、辺境の村の名前も知らない誰かだ。塩が高くなって困るのは、遠い港町の顔も知らない誰かだ。
私は、その顔も知らない誰かを想像した。
冬の朝、薬が足りずに咳をする子ども。値の上がった塩を前に、ため息をつく老いた漁師。
誰も彼らの名を知らない。決めた者も、彼らの名を知らないまま決める。知らないから、平気で削れる。
決める者は、名を残さない。
払う者は、名を持たない。
――それが、私の見たこの国のいちばん深い綻びだった。
私は窓辺に立った。
森が揺れている。ここでは、誰も急かさない。ここにいれば、私は静かでいられる。
でも、と私は思った。
静かでいることと、目を逸らすことは、違う。
役割を求められない場所にいることと、役割から逃げることは、違う。
私はそれを混同しかけていた。
整えることが私の一部になっている、と私はこの朝、思った。
なら――整えるべきものが、まだ残っている。
たとえそれが、私を追い出したあの場所にあるのだとしても。
静かでいることと、目を逸らすこと。
似ているようで、違う。
次回、レティシアは、ひとつの決断をします。
そして辺境伯は、初めて――送り出す側になります。




