第103話 黒塗りの署名
ガルドが持ってきたのは、古い決裁記録の写しだった。
「北方港が最初に“弱められた”ときのものです。倉にありました」
中央集権政策の時代。辺境の港と独自の外交を、王都が段階的に縮小していったころの記録。
私は、一枚ずつ繰った。
紙は、古かった。端が茶色く変色している。倉の湿気の匂いが指に移る。
何年も、誰の目にも触れずに眠っていた記録。
――眠らせておきたかった記録、と言うべきかもしれない。
関税の見直し。管理権の移管。人員の削減。どれも、辺境の自立の手足を静かに一本ずつ外していく決裁だった。
そして、最後の一枚。
港の管理権を実質的に王都直轄へ近づける決裁。もっとも重い一枚。
その署名欄が、黒く塗り潰されていた。
私は、指を止めた。
「これは」
「元から、こうです。写しではなく、原本がこうなっている、と」
誰が、この港を弱めると決めたのか。
記録の上には、それがない。
決裁は、確かに下された。港は、確かに弱められた。辺境は、確かにそのぶん不利になり、後の危機で薬草も塩も足りなくなった。
結果は、すべて残っている。
なのに、それを決めた者の名だけがそこにない。
私は、その黒い四角を指の腹でそっとなでた。
インクは乾ききって、わずかに盛り上がっている。何度も塗り重ねられた跡。
急いで隠したのではない。丁寧に、時間をかけて消していた。その丁寧さが、かえってぞっとした。
私は、黒い四角を見つめた。
塗り潰したのは、隠すためだ。だが、隠すという行為そのものがひとつのことを語っていた。
――この決裁を下した者は、自分の名が残ることを望まなかった。
正しい政策だと信じているなら、名を残せばいい。国のためだと言うなら、堂々と署名すればいい。
名を消したのは、いつか誰かがこの結果を遡ったとき、責を負う者を見つけられないようにするためだ。
私は、古い記録をそっと閉じた。
胸の奥が、静かに冷たくなっていた。
結果は残る。名前だけが消える。
それが、いちばん、たちが悪い。




