番外編① 相談所の鍵を閉めたあとで
相談所の最後の客を見送って、私はようやく扉の札を裏返した。
「本日の受付は終了しました」
小さな木札が、かたん、と乾いた音を立てる。
その音だけで、肩の力が少し抜けた。
机の上には、今日使った相談票の束。
夫婦間の家計分担、親との同居、店を継ぐかどうか、子どもに神殿奉仕を強いる古い約束の見直し。昔なら「家のことですから」で終わらされていた話が、今はちゃんと条文になって、ちゃんと誰かの口から「困っています」と言葉にされる。
それが、なんだかまだ不思議だった。
「お疲れさまでした、リディア様」
向かいで帳簿を閉じていたティオが、ぺこりと頭を下げた。
この子も、最初の頃に比べるとだいぶ板についてきた。前なら、最後の客が帰ったあとも「まだやれることが」とそわそわしていたのに、今はきちんと砂時計を見て、閉所の時間を守る。
「ティオも、お疲れさま。今日はもう帰っていいわ」
「で、ですが、清書がまだ半束ほど……」
「それは明日です」
「明日」
「明日」
「……はい」
しょんぼりしながらも頷くあたり、えらい。
昔の私なら、ここで「大丈夫、私がやるから」と言っていた気がする。実際、言っていた。言って、そのまま夜を越えていた。
《成長を感じますねえ》
頭の奥で、女神様がしみじみ言った。
(他人事みたいに言わないでください。誰が何年かけて矯正されたと思ってるんですか)
《ええ、存じております。世界規模で大変有意義な矯正でした》
(言い方)
ティオが荷物を抱えて帰っていくのを見送ってから、私は机に突っ伏した。
木の匂いがする。
紙とインクと、少しだけ残った薬草茶の匂い。
相談所の1日は、神前確認式よりは平和だ。
でも、平和なだけに、じわじわ疲れる。
「終わりましたか」
低い声がして、顔を上げた。
戸口にセルジュさんが立っていた。いつもの地味な礼服なのに、閉所後の相談所にいると、それだけで少し場違いなほど整って見える。
「今ちょうど、机と一体化していたところです」
「引きはがします」
即答だった。
「ひどい」
「休ませる義務がありますので」
真顔でそう言いながら、彼は私の前に紙袋を置いた。
まだ温かい。
「……何ですか、これ」
「市場の角の店です。あなたが先日、2度見していた菓子」
「2度見」
「3度見でした」
「見すぎですね、私」
「疲れているときほど、視線が分かりやすい」
紙袋を開けると、小さな焼き菓子が2つ入っていた。表面に薄く砂糖がかかっていて、灯りの下できらきらして見える。
《本日のアジェンダ更新。
1、閉所確認。
2、糖分補給。
3、当事者の顔を緩める義務》
(勝手に追加しないでください)
《でも達成率は高そうですよ》
悔しいけれど、その通りだった。
私は1つ摘んで、ひとくちかじる。ほろりと崩れて、思っていたよりやさしい甘さが広がった。
「……おいしい」
「それはよかった」
セルジュさんは、私が2口目を食べるのを確認してから、机の上の相談票をざっと見た。
視線は速いのに雑ではない。必要なところだけ拾って、でも置いていかない人の見方だ。
「今日は高齢夫婦の再契約が3件、親族間の扶養見直しが2件、口約束の神殿奉仕が1件」
「はい。あと、喧嘩になりそうだから先に紙にしておきたい、という若いご夫婦が1組」
「健全です」
「ですよね。最近、あれです。別れ話より、仲良く続けるための条文の相談が増えてきました」
「世界標準の副作用でしょう」
副作用。
その言い方が可笑しくて、私は少し笑った。
「可愛い副作用ですね」
「ええ。かなり望ましい」
彼は当然のように言って、私の前の椅子を引いた。
向かい合って座る。
仕事の話をするときの距離に似ているのに、仕事が終わったあとの沈黙は、少しだけ違う温度をしていた。
「リディア」
「はい」
「今月の休日ですが」
その1言で、私はぴたりと止まる。
「……休日」
「はい。契約上、最低月1回」
「覚えてます」
「実施率が今月まだ0です」
私は視線を逸らした。
実施率という言い方をされると、途端に逃げ場がなくなる。
「相談所の準備が立て込んでいたので……」
「理由の正当性は認めます。継続的な不履行は認めません」
「厳しい」
「モデルケースですから」
さらりと言うのがずるい。
世界標準候補の夫婦契約に、自分たちが振り回されているのは、どう考えても少しおかしいのに。
《でも、こういうのが1番広まりやすいんですよねえ。
偉そうな理念より、ちゃんと休まされた聖女の実例》
(やめてください、急に資料価値を出さないでください)
私は焼き菓子をもう1口かじって、観念した。
「……では、候補日を確認させていただいても、よろしいでしょうか」
「もちろん」
彼が懐から手帳を出す。
公的会議の予定、神殿との調整、相談所の試験運用日。その合間に、1日だけ、ぽつんと空いている日があった。
「ここ」
「そこですね」
「何をしますか」
聞かれて、私は少し困った。
契約で守ることは覚えた。逃げ道をつくることも、休む権利を言葉にすることも。
でも、守られた先で何をしたいかを口にするのは、今でも少しだけ下手だ。
セルジュさんは急かさない。
ただ、待っている。
私が言葉にするまで、ちゃんと待てる人だ。
「……橋を、歩きたいです」
「橋」
「はい。行きと帰りで意味が変わった、あの橋です」
「ええ」
「今度は、急がない日に。誰かに見せるためじゃなくて、ただ歩きたい」
言ってしまってから、胸の奥が少し熱くなった。
こんな、条文にもならないような願いを、口にしてしまったことが。
けれどセルジュさんは、驚かなかった。
むしろ、とても静かな顔で頷いた。
「承知しました。では追記を」
「追記」
「覚書です」
彼は手帳の余白に、さらさらと書きつける。
『休日運用覚書
1、契約大橋を、急がずに歩くこと。
2、目的は視察ではなく散策とする。
3、途中で疲れた場合は、直ちに茶を飲むこと。』
「3」
「重要です」
「……はい、重要ですね」
私は笑ってしまった。
たぶん、こういうのだ。
義務じゃなくて、願いから始まる契約というのは。
灯りの下で、彼の指先が少しだけ止まる。
「もう1つ、確認を」
「何でしょう」
「あなたは、今日、ちゃんと休めそうですか」
「今日は……」
言いかけて、私は机の上の書類ではなく、目の前の人を見た。
昔なら、「大丈夫です」と反射で言っていた。
でも今は、それだけじゃ足りないことを知っている。
「少しだけ、一緒にいてください」
「承知しました」
返答が早すぎて、また笑ってしまう。
この人は本当に、そういうところだけ即決だ。
《ログ更新。願いの明文化、本日も良好です》
(締めないでください、まだ終わってません)
《大丈夫ですよ。終わってないから、良いんです》
窓の外は、もうすっかり夜だった。
けれど相談所の小さな机の上だけは、まだ書ける余白みたいに明るい。
休ませる義務。
逃げ道保証。
怖かったこと申告義務。
いろんな条文を書いてきたけれど、今日いちばん効いたのは、たぶん紙の上にない1行だった。
――少しだけ、一緒にいてください。
それを言えた私は、たぶん、前よりずっと自由だった。




