番外編② 白い結婚のその後に、春は来る
相談所の予約帳に、その名前を見つけたとき、私は一瞬だけ呼吸を止めた。
ミレーヌ・フォルシア。
インクの色は他の予約と変わらない。
けれど、その1行だけが、昔の痛みの輪郭をうっすら連れてきた。
《案件名:元・本命令嬢による将来契約見直し相談》
(女神様、そういうラベルの付け方やめてください)
《では訂正します。自己犠牲文化の被害者案件》
(それはそれで重い)
私は予約帳を閉じて、小さく息を吐いた。
驚きはした。でも、嫌ではなかった。
嫌ではないことに気づいて、少しだけ、自分でも驚いた。
約束の時間ぴったりに、扉が控えめに叩かれる。
「どうぞ」
入ってきたミレーヌは、前に見たときよりずっと静かな服装をしていた。華やかな飾りは最低限で、栗色の髪もきちんとまとめられている。けれど、背筋だけは相変わらず綺麗だった。良家の令嬢として叩き込まれた形なのだろう。
「お久しぶりです、聖女……いえ、リディア様」
「お久しぶりです、ミレーヌ様。お掛けください」
彼女は1礼して座った。
膝の上に封筒を置く手が、ほんの少しだけ強張っている。
私は茶を1つ、彼女の前に置いた。
昔の私なら、ここで何をどう言えばいいのか分からなかったと思う。
でも今は、まず当事者を座らせて、温かいものを渡して、紙より先に息を整えてもらう。それが大事だと知っている。
「本日は、どのようなご相談でしょうか」
「……婚約の、打診です」
彼女は封筒を差し出した。
家紋入りの上質な紙。中から出てきた契約書案は、美しい字で整えられていた。さすがに体裁は完璧だ。完璧すぎて、嫌な予感がする。
私は1行目から読んで、すぐに眉の奥が重くなるのを感じた。
「『婚姻後、妻は夫家の信仰と家名のため、必要に応じて社交・奉仕・親族補佐に従事する』」
「はい」
「『必要に応じて』」
「……ええ」
「『家名のため』」
「はい」
「『従事する』」
「はい」
私はそっと紙を置いた。
言葉は柔らかい。だが、柔らかい言葉ほど、時々よく締まる。
「かなり広く解釈できますね」
「そう思いました」
ミレーヌは苦く笑った。
その笑い方を見て、私はやっと腑に落ちる。
ああ、この人も、上手に微笑むことで場を通過してきた人なのだ。
「家が勧めてきた縁談です。相手はルミナリア寄りの価値観を持つ家で、慎ましく、尊く、家のために尽くせる女性を望んでいるそうです」
「なるほど」
「以前の私なら、受けたかもしれません。むしろ、受けるべきだと思っていたでしょうね」
彼女は自嘲気味に視線を落とした。
「誰かのために、自分が少し我慢すればいいのだと。そういうふうに教えられてきましたから」
「……はい」
「でも、あの日からずっと考えていたんです。私が正しいと思ってきたものは、本当に誰かを守っていたのか、と」
あの日。
神前確認式の日のことを、わざわざ言い換えなくても分かった。
「私は、あなたに謝る資格はないのかもしれません」
「ミレーヌ様」
「それでも、あのとき私は、見えていながら見ないふりをしました。自分が傷つかなければいい、ではなく、自分が傷つくことで済むならそれでいい、と考えていたんです。……けれど、それでは駄目なのだと、ようやく分かりました」
静かな声だった。
泣いてはいない。でも、泣くよりよほど切実だった。
私は契約書をもう1度開く。
今度は、傷としてではなく、案件として読む。
「確認させていただいても、よろしいでしょうか」
「はい」
「この婚約について、ミレーヌ様ご自身は、望んでおられますか」
彼女はすぐには答えなかった。
沈黙のあいだ、湯気だけがゆっくり昇る。
やがて彼女は、はっきりと首を横に振った。
「いいえ」
「では、話は早いです」
私はペンを取った。
ミレーヌの瞳がわずかに見開かれる。
「まず、必要に応じては範囲が曖昧です。義務内容を限定しましょう。次に、家名のためでは本人の利益がどこにもありません。ここは削るか、少なくとも双方の生活維持に関わる範囲に狭めます」
「そんなことが……」
「できます。少なくとも、案の段階なら」
私は余白に線を引き、追記欄をつくる。
「それから最重要事項として、本人の同意なき義務拡大は無効」
「……」
「さらに信仰・奉仕活動への参加は、当事者本人の意思による」
「……はい」
「あと、婚約破棄または解消を申し出たこと自体を不名誉と見なさない」
「そこまで、書けるんですか」
「書けます。書かなければ、また同じことが起きますから」
ミレーヌは、紙ではなく私を見ていた。
その目にあるのは、敵意でも嫉妬でもなく、ひどくまっすぐな驚きだった。
《いいですねえ》
(何がですか)
《昔なら刺さっていた相手に、今は条文を渡せているところが》
(……実況しないでください)
《でも、誇っていいところですよ》
少しだけ、胸の奥が熱くなる。
「リディア様」
「はい」
「私は、以前のことを……」
「過去の感情は、消さなくていいと思います」
私は先に言った。
たぶん、彼女が何を言おうとしているのか分かったからだ。
「痛かったことは、痛かったです。嫌だったことも、たくさんありました」
「……はい」
「でも、それと、今ここでミレーヌ様が困っていることは、別です」
「別」
「はい。別件です。だから、今日は今日の契約として扱います」
彼女の睫毛が、小さく震えた。
それから、ようやく息を吐く。
「あなたは、本当に変わられましたね」
「ええ。かなり」
「……私も、変わりたいんです」
その1言は、謝罪よりもずっと深く届いた。
私は頷いて、契約書を彼女の方へ向ける。
「では、ここからは実務です」
「はい」
「望まない婚約を断る権利。途中で撤回する権利。家のために、を理由に本人の時間と身体を無制限に使わせない条文。最低限、この3つは入れましょう」
「……はい」
「それと」
「それと?」
「ミレーヌ様ご自身の望みも、1行でいいので入れてください」
「私の、望み」
「ええ。守る条文は、その人が何を守りたいかを知らないと、あまり長持ちしません」
彼女はしばらく考えた。
窓の外では、春の光が石畳をやわらかく照らしている。
「……穏やかな家で、呼吸を浅くしないで生きたいです」
「はい」
私は、そのまま書いた。
飾らず、削らず、ほとんど言葉を変えずに。
『当事者は、婚姻生活において、常に過度な緊張を強いられず、穏やかに生活する権利を有する。』
ペン先が止まる。
その1文は、法務の言葉に直したはずなのに、ちゃんと彼女の息の形をしていた。
ミレーヌが、ほんの少し笑った。
今度の笑みは、仮面に見えなかった。
「ありがとうございます、リディア様」
「いえ。署名はまだです。ここから先が本番ですから」
「……そうですね」
「でも、大丈夫です。確認しながら進めましょう」
扉の向こうで、次の予約客の気配がする。
相談所は今日も静かに忙しい。
ミレーヌが立ち上がり、帰り際に1度だけ振り返った。
「昔の私は、白い結婚という言葉が綺麗だと思っていました」
「はい」
「今は、白いのは、何も書かれていない紙だけで十分だと思えます」
その言い方があまりにも正確で、私は思わず笑ってしまった。
「ええ。本当に」
「では、また」
「また」
扉が閉まる。
私は机の上の控えを見下ろした。
白い余白に、新しい線が入っている。
誰かを黙らせるための線ではなく、誰かが息をしやすくなるための線だ。
《ログ更新。
旧・白い結婚陣営、春の再契約へ》
(まとめ方が雑です)
《でも間違ってはいないでしょう?》
私は苦笑して、次の予約票をめくる。
白かったのは、たぶん結婚じゃない。
願いを書かせてもらえなかった紙の方だ。
けれど今は、その紙に、少しずつ誰かの本音が書き足されていく。
その春は、思っていたよりずっと静かで、でも確かにあたたかかった。




