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「完結済」白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました  〜婚約破棄してきた王子より、契約書を持ってきた宰相様の方がよほど誠実なんですが〜  作者: 夢見叶
第4部:後日譚&一生分の契約書編

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番外編② 白い結婚のその後に、春は来る

 相談所の予約帳に、その名前を見つけたとき、私は一瞬だけ呼吸を止めた。


 ミレーヌ・フォルシア。


 インクの色は他の予約と変わらない。

 けれど、その1行だけが、昔の痛みの輪郭をうっすら連れてきた。


《案件名:元・本命令嬢による将来契約見直し相談》

(女神様、そういうラベルの付け方やめてください)

《では訂正します。自己犠牲文化の被害者案件》

(それはそれで重い)


 私は予約帳を閉じて、小さく息を吐いた。

 驚きはした。でも、嫌ではなかった。

 嫌ではないことに気づいて、少しだけ、自分でも驚いた。


 約束の時間ぴったりに、扉が控えめに叩かれる。


「どうぞ」


 入ってきたミレーヌは、前に見たときよりずっと静かな服装をしていた。華やかな飾りは最低限で、栗色の髪もきちんとまとめられている。けれど、背筋だけは相変わらず綺麗だった。良家の令嬢として叩き込まれた形なのだろう。


「お久しぶりです、聖女……いえ、リディア様」

「お久しぶりです、ミレーヌ様。お掛けください」


 彼女は1礼して座った。

 膝の上に封筒を置く手が、ほんの少しだけ強張っている。


 私は茶を1つ、彼女の前に置いた。

 昔の私なら、ここで何をどう言えばいいのか分からなかったと思う。

 でも今は、まず当事者を座らせて、温かいものを渡して、紙より先に息を整えてもらう。それが大事だと知っている。


「本日は、どのようなご相談でしょうか」

「……婚約の、打診です」


 彼女は封筒を差し出した。

 家紋入りの上質な紙。中から出てきた契約書案は、美しい字で整えられていた。さすがに体裁は完璧だ。完璧すぎて、嫌な予感がする。


 私は1行目から読んで、すぐに眉の奥が重くなるのを感じた。


「『婚姻後、妻は夫家の信仰と家名のため、必要に応じて社交・奉仕・親族補佐に従事する』」

「はい」

「『必要に応じて』」

「……ええ」

「『家名のため』」

「はい」

「『従事する』」

「はい」


 私はそっと紙を置いた。

 言葉は柔らかい。だが、柔らかい言葉ほど、時々よく締まる。


「かなり広く解釈できますね」

「そう思いました」


 ミレーヌは苦く笑った。

 その笑い方を見て、私はやっと腑に落ちる。

 ああ、この人も、上手に微笑むことで場を通過してきた人なのだ。


「家が勧めてきた縁談です。相手はルミナリア寄りの価値観を持つ家で、慎ましく、尊く、家のために尽くせる女性を望んでいるそうです」

「なるほど」

「以前の私なら、受けたかもしれません。むしろ、受けるべきだと思っていたでしょうね」


 彼女は自嘲気味に視線を落とした。


「誰かのために、自分が少し我慢すればいいのだと。そういうふうに教えられてきましたから」

「……はい」

「でも、あの日からずっと考えていたんです。私が正しいと思ってきたものは、本当に誰かを守っていたのか、と」


 あの日。

 神前確認式の日のことを、わざわざ言い換えなくても分かった。


「私は、あなたに謝る資格はないのかもしれません」

「ミレーヌ様」

「それでも、あのとき私は、見えていながら見ないふりをしました。自分が傷つかなければいい、ではなく、自分が傷つくことで済むならそれでいい、と考えていたんです。……けれど、それでは駄目なのだと、ようやく分かりました」


 静かな声だった。

 泣いてはいない。でも、泣くよりよほど切実だった。


 私は契約書をもう1度開く。

 今度は、傷としてではなく、案件として読む。


「確認させていただいても、よろしいでしょうか」

「はい」

「この婚約について、ミレーヌ様ご自身は、望んでおられますか」


 彼女はすぐには答えなかった。

 沈黙のあいだ、湯気だけがゆっくり昇る。


 やがて彼女は、はっきりと首を横に振った。


「いいえ」

「では、話は早いです」


 私はペンを取った。

 ミレーヌの瞳がわずかに見開かれる。


「まず、必要に応じては範囲が曖昧です。義務内容を限定しましょう。次に、家名のためでは本人の利益がどこにもありません。ここは削るか、少なくとも双方の生活維持に関わる範囲に狭めます」

「そんなことが……」

「できます。少なくとも、案の段階なら」


 私は余白に線を引き、追記欄をつくる。


「それから最重要事項として、本人の同意なき義務拡大は無効」

「……」

「さらに信仰・奉仕活動への参加は、当事者本人の意思による」

「……はい」

「あと、婚約破棄または解消を申し出たこと自体を不名誉と見なさない」

「そこまで、書けるんですか」

「書けます。書かなければ、また同じことが起きますから」


 ミレーヌは、紙ではなく私を見ていた。

 その目にあるのは、敵意でも嫉妬でもなく、ひどくまっすぐな驚きだった。


《いいですねえ》

(何がですか)

《昔なら刺さっていた相手に、今は条文を渡せているところが》

(……実況しないでください)

《でも、誇っていいところですよ》


 少しだけ、胸の奥が熱くなる。


「リディア様」

「はい」

「私は、以前のことを……」

「過去の感情は、消さなくていいと思います」


 私は先に言った。

 たぶん、彼女が何を言おうとしているのか分かったからだ。


「痛かったことは、痛かったです。嫌だったことも、たくさんありました」

「……はい」

「でも、それと、今ここでミレーヌ様が困っていることは、別です」

「別」

「はい。別件です。だから、今日は今日の契約として扱います」


 彼女の睫毛が、小さく震えた。

 それから、ようやく息を吐く。


「あなたは、本当に変わられましたね」

「ええ。かなり」

「……私も、変わりたいんです」


 その1言は、謝罪よりもずっと深く届いた。


 私は頷いて、契約書を彼女の方へ向ける。


「では、ここからは実務です」

「はい」

「望まない婚約を断る権利。途中で撤回する権利。家のために、を理由に本人の時間と身体を無制限に使わせない条文。最低限、この3つは入れましょう」

「……はい」

「それと」

「それと?」

「ミレーヌ様ご自身の望みも、1行でいいので入れてください」

「私の、望み」

「ええ。守る条文は、その人が何を守りたいかを知らないと、あまり長持ちしません」


 彼女はしばらく考えた。

 窓の外では、春の光が石畳をやわらかく照らしている。


「……穏やかな家で、呼吸を浅くしないで生きたいです」

「はい」


 私は、そのまま書いた。

 飾らず、削らず、ほとんど言葉を変えずに。


『当事者は、婚姻生活において、常に過度な緊張を強いられず、穏やかに生活する権利を有する。』


 ペン先が止まる。

 その1文は、法務の言葉に直したはずなのに、ちゃんと彼女の息の形をしていた。


 ミレーヌが、ほんの少し笑った。

 今度の笑みは、仮面に見えなかった。


「ありがとうございます、リディア様」

「いえ。署名はまだです。ここから先が本番ですから」

「……そうですね」

「でも、大丈夫です。確認しながら進めましょう」


 扉の向こうで、次の予約客の気配がする。

 相談所は今日も静かに忙しい。


 ミレーヌが立ち上がり、帰り際に1度だけ振り返った。


「昔の私は、白い結婚という言葉が綺麗だと思っていました」

「はい」

「今は、白いのは、何も書かれていない紙だけで十分だと思えます」


 その言い方があまりにも正確で、私は思わず笑ってしまった。


「ええ。本当に」

「では、また」

「また」


 扉が閉まる。

 私は机の上の控えを見下ろした。

 白い余白に、新しい線が入っている。

 誰かを黙らせるための線ではなく、誰かが息をしやすくなるための線だ。


《ログ更新。

旧・白い結婚陣営、春の再契約へ》

(まとめ方が雑です)

《でも間違ってはいないでしょう?》


 私は苦笑して、次の予約票をめくる。


 白かったのは、たぶん結婚じゃない。

 願いを書かせてもらえなかった紙の方だ。


 けれど今は、その紙に、少しずつ誰かの本音が書き足されていく。

 その春は、思っていたよりずっと静かで、でも確かにあたたかかった。

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