第6話 女神の退職願いと、守られる神
『女神業務日記』
世界契約ログ、ピーク時の3分の1。
ブラック案件速報、週に数件。
……ええ、平和ですね。
神域アーカイブの棚は、今日も高い。
封蝋と紙の匂いに紛れて、「約束」が静かに積もっている。
私は棚の間で立ち止まって、束を抱え直した。
仕事が減ると、誰にも気づかれずに減る。
褒められないし、怒られもしない。
空いた時間だけが増えて、慣れない。
羽ペンで業務欄を引く。
「本日の対応:裁定0件。調停1件。相談所からの照会2件」
欄外に、真顔で追記。
「有給:未消化9999日(仮)」
申請先は……自分? 嫌ですねえ。
なので、別紙を用意して題名だけ書いた。
「退職願(下書き)」
書き出しの「私」で、ペンが止まる。
紙に触れていないのに、かすれる音だけ立った。
……冗談です。いつもの冗談。
そういうことにしておかないと、私が困る。
棚の奥で、ログのタグがちり、と鳴った。
地上の机の上。あの夫婦が余白を叩く音がする。
「よし。私も地上の労務を学ぶとしましょうか」
◇◇◇
夜の官舎は静かだった。
昼の市場の歌声は遠く、紙が擦れる音だけが部屋を満たす。
机の上に、老後契約草案。
昨日の『もしも』がまだ喉の奥に残っているのに、今日の紙はやけに真っ白で、腹が立つくらい希望がある。
私はペン先を見つめてから、隣の彼を見る。
「セルジュさん。女神様って……休めるんでしょうか」
「休めます。休ませましょう」
「私、神は疲れないと思ってました」
「あなたは疲れます。だから守る。理屈は同じです」
同じ、と言われた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
守られる側が、守る側にもなれる。そんな世界に、いつの間にかなっていた。
「女神様が休める世界に、したいです」
「義務にします。願いは、条文に落ちる」
「言い方が、プロポーズみたいです」
「事実です」
逃げ場のない即答に、私は笑ってしまった。
笑いながら、彼の指が私の手首に触れるのを感じる。紙より先に、私を固定するみたいに。
「欄を新設します」
セルジュさんが余白に小さく書く。
「女神に関する条項」
「世界契約の定期見直しは人間側監査会が主導すること」
「監査会が……女神様の代わりに」
「すべてではありません。判断材料と議事は人間が整える。最後に裁定が必要なら、女神が来ればいい」
「来ればいい、って……」
「来なくていい日を増やします」
言い切る声が、優しいのに冷たい。
冷たいのは、迷いがないからだ。
「休暇は?」
「ログが一定数を下回った期間、女神に長期休暇を与える義務」
「与える、って誰が」
「世界です。正確には、私たちが世界の手続きを回す」
「……変なら、私が慣れます」
口から出た言葉に、自分で驚いた。
セルジュさんは小さく頷いて、付け足す。
「守るための、手順です」
私はペン先で行を叩いた。
「有給日数」
「まずは年2回」
「少なっ」
「初年度です。急に年12回は無理でしょう」
「そこ、妙に現実的ですね」
「現実に落とすから、続きます」
ランプが一拍遅れて揺れた。
『呼びました? 労務担当さんたち』
紙の上に声が落ちる。
私たちの間の余白に、女神様がいつもの顔で座っていた。
『神に義務を課す条文を、神のほうからお願いするって……変でしょう?』
「変でも、必要です」
『で、誰が執行するの? 私? 嫌ですねえ。私の上司って誰でしたっけ』
女神様が真顔で言う。
セルジュさんは一言も返さず、書類束を指した。あまりに無言の圧で、女神様が咳払いをした。
「監査会です」
セルジュさんが淡々と続ける。
「手順と記録で。条件を満たしたら自動で発動。拒否権は女神に残します」
『休まない自由まで残すの、律儀ですね』
「義務にすると、反動が出ます」
『……嫌な世界になりましたねえ(良い意味で)』
女神様が笑ってみせたあと、一瞬だけ黙った。
その間が、神域の棚みたいに深い。
『平和は、私の仕事を奪います』
冗談の温度じゃない。
私は息を吸って、短く言う。
「だからこそ、休んでください」
「今度は、私たちが回します」
女神様は笑おうとして、途中で視線を落とした。
『じゃあ、サイン欄は?』
「こちらです」
羽ペンが現れる。
女神様が書き出した文は、ひどく静かだった。
必要とされなくなったとき、静かに退く権利を有する。
書き出しで、ペン先が震える。
止めようとして、さらに震える。
『……あれ。変ですね』
私は反射で手を伸ばし、羽ペンを持つ手をそっと支えた。
触れるのが怖い。だから、落ちないように一緒に持つ。
「必要とされているうちは」
息を整えて、言う。
「一緒にいてください」
震えが一瞬だけ止まった。
セルジュさんが机の向こうへ立ち、外から見えない壁みたいに場を守る。
何も言わない。けれど、誰にも邪魔させない。
羽ペンが最後まで走った。
女神様は書き終えると、すぐに軽口へ逃げる。
『……神が人間にこんな顔を見せるの、前代未聞ですよ』
「では有給は前借りで」
『まずは明日から1年分まとめて。あと、昼寝権も欲しい』
女神様が言う。
私は返事をせず、署名欄をトントン叩いた。
「サイン、まだです」
『はいはい。上司の許可はいらないんでしたっけ』
そして彼女は署名をした。
紙の端が、ほんの少しだけ温かくなる。
セルジュさんが、封蝋付きの予約状を机に置いた。
赤い封がランプの光を吸う。
「明日、指輪工房です」
「……指輪、ですか」
『ええ。一生分の条文なら、持ち歩ける場所に刻みなさい』
女神様が、いつもの調子で言った。
『ほら。契約印欄、まだ空白でしょう?』
私は紙の下の空欄を見る。
避けてきた場所だった。けれど、避けない。
セルジュさんの指が、私の指輪に触れる。冷たくない。
「埋めましょう」
彼が言った。
「一緒に」
ここまでお読みいただきありがとうございます。ミレーヌと彼の「契約」は、守るほどに心が縛られ、ほどくほどに本音が溢れていきます。次話は約束の代償が表に出て、二人の距離が一気に動く予定です。続きが気になったら、ブクマ&評価で応援して頂けると励みになります。




