第5話 もし、片方が先にいなくなったら
湯気の立つ茶をカップに注いだ瞬間、視界がふわりと揺れた。
床が遠い。指先の力が抜ける。
「リディア」
呼ばれるより早く、手首を掴まれた。セルジュさんの手は冷たくて、硬い。
「ちょっと目が回っただけです」
「座ってください。『大丈夫』は、診断が終わってから言う言葉です」
真顔で言い切られて、私は素直に椅子へ落ちた。
たった数秒の眩暈なのに、空気が変わる。
「倒れる予定、入れてません」
「予定は入らないものです」
冗談の逃げ道が塞がれる。
セルジュさんは私の手からカップを取り上げ、台へ置いた。割れ物を扱うみたいに。
その手順の速さが、怖い。
机の端に、昨夜の草案が見えた。
白紙に近い「老後契約」。余白だらけの未来が、今日は穴みたいに口を開けている。
「……神殿へ行きましょう」
「はい」
返事は短いのに、彼の目は私から離れない。
上着を掛け、首元を整え、歩幅を合わせる。護衛みたいで、伴侶みたいで、どちらにしても逃げられない。
大神殿の医務室は白い薬草の匂いがした。
神殿医は淡々と私の脈を取り、結論だけを投げる。
「疲れです。年相応のもの。数日休めば問題ありません」
年相応。
その言葉が胸に小さく刺さった。私は笑って受け流す癖がある。
「ほら、大丈夫でした」
「『数日』の定義を確認させてください」
セルジュさんが、まっすぐに医師へ向き直る。
神殿医は一拍も置かずに言った。
「定義は、睡眠です」
その瞬間、セルジュさんの指が診断書を握りしめた。
紙1枚が折れそうなほど白くなる。私はそこでやっと気づいた。
眩暈が怖いんじゃない。私がいなくなる可能性が怖いのだ。
夕方、官舎に戻る。
机の白紙は、まだ開かれたままだった。
「夜、話しましょう」
「……はい」
返事が少し遅い。
遅れた分だけ、彼は一人で抱えてきた。
夜。灯りを落とした寝室で、私たちは同じベッドに紙束を広げた。
余白の端に、薄い罫線が見える。昨日より1本増えた気がした。見間違いだろうか。
「『もし、片方が先にいなくなったら』」
セルジュさんが見出しを読み上げる。会議より小さな声。
「言い方」
「正確です」
「……容赦ないですね」
「容赦があると、現実が遅れます」
彼は条項案を口にした。短く、怖い言葉だけを残して。
「残された側は、自分を責めてはならない」
「禁止条項?」
「ええ。あなたが違反しそうなので」
思わず笑いかけて、喉が乾いた。
笑いは、逃げ道にもなる。私は逃げたくない。
「次。一定期間、公務を休む義務」
「義務って言い切るの、私に刺さります」
「刺さるように書きます。あなたは休むのが下手だから」
胸がきゅっとした。
守られるのは、弱いことじゃない。分かっているのに、まだ怖い。
「……ねえ。怖いんですね」
言った瞬間、部屋が静かになった。
セルジュさんは否定しない。
「家族契約を書き換える前の私なら」
彼は息を吐く。
「こういうとき、『働き続ける』条文を書いていました。悲しむ暇を禁止するような」
私は余白を見つめた。
禁止するのは、ブラックだけでいい。悲しみまで禁止したら、私たちはまた戻る。
「今は?」
「休む。泣く。戻る。戻れるように、道を確保する」
その揺れた声を聞いてしまったから、私は軽口で誤魔化せなかった。
「残される未来も、一緒に考える権利をください」
「権利は、最初からあなたにあります」
「じゃあ使います。あなたが一人で抱えないように」
指先が触れた。指輪のない薬指を確かめるみたいに。
そのとき、いないはずの羽ペンの音がした。
「夜に条文会議とか、あなたたちもブラックですね」
女神さまが、眠そうな顔で現れた。
私は反射で背筋を伸ばしてから、自分で自分を叱った。もうブラック部署じゃない。
女神さまは草案を覗き込み、余白に指を滑らせる。
白が、ほんの少しだけ光った。
「死別条項。うん、分かる。分かるけど」
女神さまは肩をすくめた。
「寿命そのものには手出しできません。そこは世界の基本設計。触ると壊れます」
セルジュさんの背筋がさらに伸びる。
「では、あなたは何ができます」
「残された側が壊れないように、悲しみを通過させる加護。あと、夢経由の見守り。節目だけ、会えるみたいな」
優しい提案ほど、現実は冷える。
私は息を吸って、吐いた。
「条文にしますか?」女神さまが軽く言う。
軽いのに、慎重だ。万能じゃないのだ。
セルジュさんがペンを取る。
取ってしまった手を、私は止めない。止めたら、また一人で抱える。
「……女神さま。書きすぎたら、余白がなくなりますよね」
「そう。余白は、まだ願ってもいい未来のスペース」
私はセルジュさんの手の上に自分の手を重ねた。
震えが伝わる。彼の震えで、私の震えだ。
「死別の条文は、1つだけにしましょう」
「提案を」
彼の声が、いつもの会議の声に戻る。それが今は救いだった。
「残された側は、休んでいい。……それだけ」
「短いですね」
「短いほうが、逃げずに読めます」
女神さまが小さく笑った。
「いい。短い条文は強いです。……でも、見守りの話は今夜は書かない。余白にしておきましょう」
「なぜです」
「書いた瞬間、あなたたちは『その未来』を前提に生き始めるから」
胸が冷えた。
それでも私は言う。
「なら余白にします。……でも約束してください。その余白が必要になったとき、来てくれる」
女神さまは一瞬だけ目を逸らし、羽ペンをくるりと回した。
「契約にはできません。でも、あなたたちが願う限り、ここにいます。願いがなくなるまで」
その言い方が、妙に胸に残った。
セルジュさんが、たった1行を紙に落とす。
白紙が白紙じゃなくなる。
怖い未来が、共同案件になる。
そして私は、罫線が確かに1本増えたのを見た。
余白が減るのに、安心が増える。矛盾みたいな、私たちの老後。
女神さまが眠たげに言った。
「次は……『戻る場所』の条文ですね」
セルジュさんの腕が私の背に回る。
言葉より先に、体温が契約を結んだ。
ここまでお読みいただきありがとうございます。『もし、片方が先にいなくなったら』を一行に落とす夜でした。次話は、女神様の『退職願い』が現実味を帯びてきます。面白かった、続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】で評価&ブックマークで応援いただけると励みになります。




