第2話 村にて
村の中へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった気がした。
山道に漂っていた湿った土の匂いに、人の暮らしの匂いが混ざっていた。
煙。濡れた藁。木を燃やした香り。どこか酸味のある、発酵したような匂い。
それらが混じり合い、静かに村全体へ広がっていた。
青年は思わず辺りを見回した。
茅で厚く葺かれた屋根は雨を吸って暗く沈み、軒先から落ちる雫が地面の土をさらに黒く濡らしていた。家はどれも低く、柱と板、土で作られている。壁際には割った薪や農具、背負籠が無造作に置かれ、濡れた藁と煙の匂いが混じって漂っていた。
どの家も似ている。
だが同じではない。
使い込まれた痕跡が、それぞれ違っていた。
弥作は何も言わず歩いていく。
青年はその少し後ろをついていった。村人たちは皆、こちらを見ていた。
露骨だった。手は動いている。鍬を握る手も、薪を割る腕も止まってはいない。だが、その目だけが青年を追っていた。初めて見る獣でも見るような、静かな警戒だった。
家の前で籠を編んでいた老人が手を止める。井戸の近くで話していた女たちが口を閉ざす。
走っていた子供は立ち止まり、青年を見つめる。そのどれもが、好奇心ではなかった。
知らないものへの警戒だった。
青年は目を伏せた。自分の格好が目立つことは理解していた。
だが、どうしろというのだろう。
着替えもなければ、事情を説明する言葉もない。そもそも、自分自身が何者なのか説明できない。
歩いていると、ふと荷車から塩のような匂いがした。
青年は目を向けた。藁で巻かれた荷の隙間から、白い粒が少し見える。
「これは……何ですか」
思わず尋ねた。
弥作は少し黙ってから答えた。
「塩だ」
青年は荷を見た。
塩
改めて言われると、確かにそんな気がした。
藁で包まれた俵の横には、細く割られた薪が積まれている。
「売るんですか」
「売ることもある」
弥作は荷を顎で示した。
「薪は出す。塩は入れる」
それだけだった。青年は少し考えた。山で取れた薪を売って、必要なものを持ち帰る。
当たり前のことだ。
なのに、妙に新鮮だった。普段、自分はどこで塩を買っていたのだろう。
考えようとして、止まった。
思い出せない。
弥作は続けた。
「塩は高い」
短い言葉だった。
青年は黙った。
その言葉の重みが分からない。だが、軽くないことだけは分かった。少し歩くと、家々の並びから少し外れた場所へ出た。そこにある建物を見て、青年は足を止めた。
他より大きい。屋根が広い。門のような木戸があり、敷地の境界が明確だった。
庭には馬屋があり、納屋も見える。家というより、村の中心だった。
弥作はそこで止まった。
「ここだ」
青年は建物を見上げた。
「…ここは?」
弥作は縄を柱へ結びながら答えた。
「星野様の家だ」
青年はその名を聞いた。何者かは分からない。だが、弥作の言い方だけで十分だった。
説明する必要もないほど、この村では当たり前に通じる名なのだろう。
弥作は青年を見た。
「お前を勝手に村へ置くわけにはいかん」
「…どうしてですか」
弥作は少し考え、
「知らん者は面倒を連れて来る」
その言葉に、青年は返せなかった。
確かにそうだ。名前もない。家もない。どこから来たかも分からない。
自分が村人なら、こんな人間は怖い。
弥作は木戸の前に立った。
「弥作だ」
声をかける。少しして、中から若い男が出てきた。
年は二十代半ばほどだろうか。日と風に晒された顔をしていた。腰には短い刀を差している。
青年はその刀に目を留めた。不自然だとは思わなかったが、近くで見るのは初めてのような気もした。
その感覚の理由までは、分からなかった。
若い男は青年を見る。眉をわずかに寄せた。
「誰だ…?」
弥作は答える。
「山で拾った」
若い男は青年を上から下まで見た。
服。
靴。
泥。
顔。
しばらく黙ったあと、
「星野様に通すのか」
と聞いた。弥作は頷いた。
「そうせんと後が困る」
若い男はため息をついた。
「待っていろ」
そう言って屋敷の中へ消えた。青年は黙って立っていた。
風が吹いた。濡れた服の冷たさが、止まっている間に少しずつ肌へ戻ってくる。雲の隙間から、弱い夕日が落ちていた。弥作は何も言わない。青年もまた、何を話せばよいのか分からなかった。
やがて若い男が戻ってきた。
「入れ」
その短い言葉だけだった。
青年は木戸を見た。
ここを越えれば、何かが変わる気がした。
だが、何が変わるのかは分からない。
青年は小さく息を吸い、屋敷へ足を踏み入れた。




