表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

第2話 村にて

村の中へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった気がした。

山道に漂っていた湿った土の匂いに、人の暮らしの匂いが混ざっていた。


煙。濡れた藁。木を燃やした香り。どこか酸味のある、発酵したような匂い。

それらが混じり合い、静かに村全体へ広がっていた。


青年は思わず辺りを見回した。

茅で厚く葺かれた屋根は雨を吸って暗く沈み、軒先から落ちる雫が地面の土をさらに黒く濡らしていた。家はどれも低く、柱と板、土で作られている。壁際には割った薪や農具、背負籠が無造作に置かれ、濡れた藁と煙の匂いが混じって漂っていた。


どの家も似ている。


だが同じではない。

使い込まれた痕跡が、それぞれ違っていた。


弥作は何も言わず歩いていく。

青年はその少し後ろをついていった。村人たちは皆、こちらを見ていた。

露骨だった。手は動いている。鍬を握る手も、薪を割る腕も止まってはいない。だが、その目だけが青年を追っていた。初めて見る獣でも見るような、静かな警戒だった。


家の前で籠を編んでいた老人が手を止める。井戸の近くで話していた女たちが口を閉ざす。

走っていた子供は立ち止まり、青年を見つめる。そのどれもが、好奇心ではなかった。


知らないものへの警戒だった。


青年は目を伏せた。自分の格好が目立つことは理解していた。


だが、どうしろというのだろう。


着替えもなければ、事情を説明する言葉もない。そもそも、自分自身が何者なのか説明できない。

歩いていると、ふと荷車から塩のような匂いがした。


青年は目を向けた。藁で巻かれた荷の隙間から、白い粒が少し見える。


「これは……何ですか」


思わず尋ねた。

弥作は少し黙ってから答えた。


「塩だ」


青年は荷を見た。



改めて言われると、確かにそんな気がした。

藁で包まれた俵の横には、細く割られた薪が積まれている。


「売るんですか」


「売ることもある」


弥作は荷を顎で示した。


「薪は出す。塩は入れる」


それだけだった。青年は少し考えた。山で取れた薪を売って、必要なものを持ち帰る。


当たり前のことだ。


なのに、妙に新鮮だった。普段、自分はどこで塩を買っていたのだろう。

考えようとして、止まった。


思い出せない。


弥作は続けた。


「塩は高い」


短い言葉だった。


青年は黙った。


その言葉の重みが分からない。だが、軽くないことだけは分かった。少し歩くと、家々の並びから少し外れた場所へ出た。そこにある建物を見て、青年は足を止めた。


他より大きい。屋根が広い。門のような木戸があり、敷地の境界が明確だった。

庭には馬屋があり、納屋も見える。家というより、村の中心だった。


弥作はそこで止まった。


「ここだ」


青年は建物を見上げた。


「…ここは?」


弥作は縄を柱へ結びながら答えた。


「星野様の家だ」


青年はその名を聞いた。何者かは分からない。だが、弥作の言い方だけで十分だった。

説明する必要もないほど、この村では当たり前に通じる名なのだろう。


弥作は青年を見た。


「お前を勝手に村へ置くわけにはいかん」


「…どうしてですか」


弥作は少し考え、


「知らん者は面倒を連れて来る」


その言葉に、青年は返せなかった。


確かにそうだ。名前もない。家もない。どこから来たかも分からない。

自分が村人なら、こんな人間は怖い。


弥作は木戸の前に立った。


「弥作だ」


声をかける。少しして、中から若い男が出てきた。


年は二十代半ばほどだろうか。日と風に晒された顔をしていた。腰には短い刀を差している。

青年はその刀に目を留めた。不自然だとは思わなかったが、近くで見るのは初めてのような気もした。

その感覚の理由までは、分からなかった。


若い男は青年を見る。眉をわずかに寄せた。


「誰だ…?」


弥作は答える。


「山で拾った」


若い男は青年を上から下まで見た。


服。


靴。


泥。


顔。


しばらく黙ったあと、


「星野様に通すのか」


と聞いた。弥作は頷いた。


「そうせんと後が困る」


若い男はため息をついた。


「待っていろ」


そう言って屋敷の中へ消えた。青年は黙って立っていた。

風が吹いた。濡れた服の冷たさが、止まっている間に少しずつ肌へ戻ってくる。雲の隙間から、弱い夕日が落ちていた。弥作は何も言わない。青年もまた、何を話せばよいのか分からなかった。

やがて若い男が戻ってきた。


「入れ」


その短い言葉だけだった。


青年は木戸を見た。


ここを越えれば、何かが変わる気がした。


だが、何が変わるのかは分からない。


青年は小さく息を吸い、屋敷へ足を踏み入れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ