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第1話 泥の道にて

はじめに感じたのは、冷たさだった。


頬に触れているものが、土であることを理解するまでに、少し時間がかかった。

湿った土。雨を吸い、踏まれ、崩れ、草の根と混じった柔らかい泥。その泥が頬に張りつき、口元にまで入り込んでいた。


青年がゆっくりと目を開けると、視界はひどく暗かった。

夜ではない…雲が厚く、空全体が灰色に沈んでいるのだ。頭上には木々の枝が重なり合い、葉の先から雨の名残が一滴、また一滴と落ちていた。その雫が額に当たった瞬間、青年は小さく息を吸った。


身体が重い。

背中も、腕も、脚も、自分のものではないようだった。指を動かそうとすると、泥の中で爪が土を掻いた。手のひらには細かな砂利が食い込み、皮膚が擦れている。


「ここはどこだ。」


しかし、その問いの前に、もっと根本的な問いが浮かんだ。


「自分は、誰だ。」


青年は眉を寄せた。名前を思い出そうとした。だが、そこには何もなかった。紙を一枚めくった先に、あるはずの文字がない。そんな空白だけが、頭の奥に広がっていた。


家族は…? 住んでいた場所は…? 昨日、自分は何をしていた…???


何も出てこない。


ただ、言葉は分かる。考えることもできる。空が曇っていること、土が濡れていること、身体が冷えていることも分かる。なのに、自分というものだけが、すっぽりと抜け落ちていた。


青年は両腕に力を込め、泥の上から上体を起こした。


服が肌に張りついている。

薄い布地の上着。袖口には見慣れた形の縫い目があり、胸元には小さな釦が並んでいた。下は長いズボン。靴も履いている。しかし、その靴は泥を吸い、重く変形していた。自分の服を見ても、安心はなかった。むしろ、周囲から浮いているような気がした。


道は細かった。

舗装などされていない。山肌を削り、人や獣が何度も踏み固めたことで、かろうじて道になっているだけだった。左右には背の高い草が生い茂り、その向こうには暗い杉か檜の林が続いている。風が吹くたび、濡れた葉が擦れ、低い音を立てた。


人の気配はない。

家もない。電柱もない。看板もない。白い線の引かれた道路も、遠くを走る車の音もない。


青年は立ち上がろうとした。

その瞬間、膝が崩れた。身体が前に傾き、再び泥に手をつく。痛みが遅れてやってきた。右の膝が擦りむけているらしい。左の脇腹にも鈍い痛みがある。


何かに落ちたのか。それとも、誰かに襲われたのか…?


答えはなかった。


青年は歯を食いしばり、今度はゆっくりと立ち上がった。視界が揺れる。頭の奥で鈍く響くものがあった。吐き気にも似た感覚をこらえながら、彼は周囲を見回した。


どちらへ行けばよいのか分からない。

道は前後に伸びている。片方は山の奥へ沈むように続き、もう片方はゆるやかに下っているように見えた。人のいる方へ行くべきだ。そう判断したのは、本能に近かった。


青年が足を踏み出したときだった。遠くから、軋む音がした。

木が擦れるような、重いものを引きずるような音。続いて、蹄がぬかるみを踏む湿った音が聞こえた。


「人だ。」


青年は道の脇に寄ろうとした。しかし、身体が思うように動かない。足元の泥に靴が取られ、よろめく。

やがて、曲がり角の向こうから一頭の馬が現れた。馬は大きくはなかった。背には粗末な荷が括りつけられ、後ろには木で組まれた小さな車がついている。車輪は泥を巻き込みながら、ぎしぎしと音を立てていた。馬の横を歩いていたのは、一人の男だった。年は五十に届くか届かぬか、背は低く、腰は少し曲がっている。笠を被り、雨に濡れた粗い衣をまとっていた。脚には草鞋。手には縄を握っている。


男は青年を見つけると、足を止めた。


馬も止まった。

しばらく、二人の間には何の言葉もなかった。


男の目は細く、鋭かった。驚きよりも先に警戒がある。青年の服、靴、泥に汚れた顔、空のように定まらない目。そのすべてを、男は無言で眺めていた。


青年は口を開こうとした。だが、声が出なかった。

喉が乾いていた。唇が泥と血で張りついている。


男が先に言った。


「……どこの者だ」


その言葉は分かった。

だが、少し硬い。聞き慣れているようで、どこか違う。土地の訛りなのか、古い言い方なのか、青年には判断できなかった。青年は答えようとした。


どこの者か。


それを言うには、自分の名を知らねばならない。住んでいた町を知らねばならない。自分がどこから来たのかを知らねばならない。何一つ、答えられなかった。


「……分かりません」


ようやく出た声は、ひどく掠れていた。


男の眉がわずかに動いた。


「分からん、とは…?」


「自分が、どこの者なのか……分からないんです」


言ってから、青年は自分の言葉の異様さに気づいた。

目の前の男からすれば、泥まみれの見知らぬ若者が道端に倒れており、問いかけても素性を答えないのである。怪しまれて当然だった。


男は縄を握る手に力を入れた。


「名は」


青年は黙った。頭の中を探った。だが、やはり何もない。

名とは、人が自分をこの世につなぎとめるための最初の杭のようなものだ。その杭がない。自分というものが、泥の中に溶けてしまったようだった。


「……思い出せません」


男は、しばらく青年を見ていた。

助けようとしている目ではなかった。憐れんでいる目でもなかった。危ないものか、そうでないものかを見極めようとしている目だった。やがて男は、低く息を吐いた。


「追われ者か」


「違います」


青年は即座に答えた。

しかし、何を根拠に違うと言えるのか、自分でも分からなかった。


男もそれを見抜いたのだろう。口元を少し歪めた。


「その身なりで、違うと言われてもな」


青年は自分の服を見下ろした。


泥で汚れてはいるが、男の衣服とは明らかに違う。布の質も、縫い方も、形も違う。靴に至っては、男の目には奇妙なものに映っているはずだった。それでも青年には、その服が異常なものだとは思えなかった。むしろ、この男の姿の方が、まるで遠い時代の絵の中から抜け出してきたように見えた。

だが、その考えはすぐに打ち消した。


そんなはずはない。


ここは、どこかの山村なのだろう。祭りか、古い暮らしを残す土地なのかもしれない。そう考えようとした。けれど、道の匂いがそれを拒んでいた。

排気の匂いがない。油の匂いがない。雨上がりの土と、馬の体温と、濡れた木の匂いだけがある。

男は荷車の方を一度見た。積まれているのは薪と、藁で包まれた何かだった。少し離れたところからでも、湿った藁の匂いがした。


「歩けるか」


男が言った。青年は顔を上げた。


「はい」


そう答えたものの、足元は心もとなかった。

男は疑わしそうに見たが、それ以上は言わなかった。


「なら、ついて来い。ここで倒れられても困る」


その言葉は親切ではなかった。だが、見捨てる言葉でもなかった。

青年は小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


男は返事をしなかった。馬の縄を引き、再び歩き出す。荷車が泥を噛み、ぎしりと鳴った。

青年はその後ろを歩いた。一歩ごとに靴の中で水が音を立てる。濡れた布が肌を擦り、膝の傷が痛んだ。それでも、誰かの後を歩いているというだけで、先ほどまでの空白にわずかな輪郭が生まれた気がした。

道は下っていた。


木々の間から、薄い光が差し込んでいる。谷の方には霧が残り、白く沈んでいた。その向こうに、屋根のようなものがいくつか見えた。


村だろうか。


青年は目を凝らした。瓦ではない。板か、茅か。低い屋根が、斜面に寄り添うように並んでいる。煙が細く上がっていた。


人の住む場所。


その事実に、胸の奥が少しだけ緩んだ。だが同時に、不安も膨らんだ。あの村に行けば、自分が何者か分かるのだろうか。それとも、自分がどれほど異質な存在なのかを、思い知らされるだけなのか。

村の入り口に近づいたとき、畑で鍬を振るっていた女が顔を上げた。


「おや、弥作さん。戻ったのかい」


女の声に、男は短く頷いた。


「ああ」


そして、その視線はすぐに青年へ向けられた。


「……その人は?」


「山で拾った」


弥作と呼ばれた男は、それだけ言った。

女は怪訝そうに青年を見つめたが、それ以上は何も聞かなかった。

青年は、ようやく目の前の男に名前があることを知った。


弥作。


土の匂いのする、短い名だった。


弥作は振り返らずに歩いていく。

青年もまた、何も言わずにその背を追った。


泥の道に、二人と一頭の足音だけが続いていた。

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