第3話 屋敷にて
木戸を越えた瞬間、外の村とは空気が違っていた。
足元は土だが、村の道より乾いていて、踏み固められている。正面には大きい家があり、低いが広い。深く張り出した軒の下は暗く、中の様子はよく見えなかった。
静かだった。
人がいないわけではない。見渡すと、若い男が薪を割っていた。斧を振るうたび木が割れ、湿った土へ落ちる。反対側では、女が藁束を解いている。その向こうから、水を汲む音だけが聞こえていた。
だが、皆、声を出さない。必要なこと以外、口にしないような静けさだった。
若い男は先に歩いた。青年と弥作はその後ろについていく。若い男は母屋へ向かわなかった。軒の外れにある板敷の縁へ青年を立たせる。
「ここで待て」
若い男がそう言って止まった。案内されたというより、これ以上先へ行くなと言われたような言い方だった。青年は立ち止まり、改めて家の方をよく見た。
縁は地面より少し高く、雨を避けるためだろう、軒が深く張り出している。その下は薄暗く、外から中の様子はよく見えない。奥の方に小さな火が揺れていた。
囲炉裏だろうか。
赤い光だけが暗がりの中で時々動いて見えた。
そのとき、若い男の視線が下へ落ちる。青年もつられて足元を見た。
靴は泥で色が変わっていた。歩くたびに乾きかけた土が端から剥がれ、底にはまだ湿った泥が残っている。
若い男は、何も言わない。
何も言わず、そのまま家の奥へ消えていった。
青年は縁から離れた場所へと腰を下ろした。
動いている間は気づかなかったが、止まると身体の重さが一気に戻ってくる。脇腹の鈍い痛み、擦れた膝、雨を吸った服が肌に張りついている感覚。全部が急に現実になった。
風が吹いた。
軒先から落ちる雫が、黒い土へ静かに染みていく。
青年は空を見た。
雲の厚い灰色の奥に、消え残った明るさが滲んでいる。夕方なのだと、そこで初めて分かった。
弥作は馬の横に立ち、荷を下ろしていた。
塩の俵。
割った薪。
迷いのない手つきだった。
積む時も、下ろす時も、順番が決まっているように見える。青年はぼんやりそれを眺めていた。
時間の流れが分からなかった。何分か、もっと長かったのかもしれない。
やがて、家の奥から足音がした。
ゆっくりだった。
若い男ではない。一人の男が出てくる。
五十を過ぎた頃だろうか。身体は細く、背も高くない。着ているものも村人たちと大きく変わらない。
だが、その男が縁へ現れると、薪を割っていた男が一度だけ斧を止めた。藁を束ねていた女も顔を上げる。誰も言葉を発しない。すぐに手は動き始めた。
それでも、この家では誰が出てきたのか、皆知っているようだった。
男は縁へ出ると、その場へ腰を下ろした。近すぎず、遠すぎもしない位置だった。
青年は反射的に立ち上がった。立った方がよい気がしただけで、作法を知っているわけではなかった。
泥のついた足を少し引き、頭を下げる。
男は何も言わない。しばらく、そのまま青年を見ていた。視線は強くも弱くもなかった。
服を見て……顔を見て……手を見る。
まるで言葉より先に、目の前の人間そのものを確かめているようだった。
青年は顔を上げなかった。
風が吹く。
軒先から落ちる雫の音だけが聞こえた。
やがて男が口を開いた。
「名は」
青年は少し黙った。
答えようとして、自分が何を答えればいいのか分からないことに気づく。
「…分かりません」
男は表情を変えない。
「どこの生まれだ…?」
「分かりません」
「誰の家だ…?」
青年は少し考えた。
『 家 』
住む場所のことか、それとも家族か。
判断できなかった。
「……分かりません」
男は黙った。
責める様子はなかった。ただ、言葉を並べて確かめているようだった。
横から若い男が言った。
「星野様」
男は視線だけ向ける。
若い男は言った。
「素性も分からぬ者です」
「村へ置くのは危ういかと」
男は答えなかった。
青年は少し顔を上げた。
この人か。
弥作が名前だけ口にした相手。
男は続けた。
「主は」
青年は少し迷う。その言葉は、仕事とも家族とも違う響きだった。
「……いません」
男は青年の服を見た。
「変わった身なりだな」
青年も服を見る。確かにここでは違う。
男は言った。
「だが、盗人にも兵にも見えん」
少し間があった。
「だから困る」
青年は返せなかった。
男は続けた。
「置く理由は無い」
青年は頷いた。当然だった。
男は言った。
「山へ戻すこともできる」
青年は黙った。
山へ戻る。何もない。食べるものもない。身体も痛い。
今なら分かる。
たぶん、自分は死ぬ。
男は青年を見る。
「死ぬかもしれんな」
声は静かだった。脅しているわけではなかった。
青年は頷いた。
「はい」
男は少しだけ目を細めた。
「だが、まだ死んでおらん」
男は弥作を見る。
「拾ったなら面倒を見ろ」
弥作は小さく鼻を鳴らした。男は青年へ戻る。
「働けるか」
青年は少し考えた。
できるかは分からない。だが、他に言えることはなかった。
「……やります」
男は少し空を見る。
雨は止み、空気だけがまだ湿っていた。
「名が要るな」
男は言った。
「呼ぶにも困る」
少し考える。
「今日は雨だったな」
弥作が頷いた。
男は青年を見る。
「雨助」
青年はその音を聞いた。意味は分からない。自分の名前ではない。
だが、ここへ来て初めて、自分へ向けられた言葉だった。
「嫌か」
青年は首を振った。
男は頷いた。
「では、雨助だ」
そう言って立ち上がる。少しだけ止まり、
「飯を出してやれ」
と言って家の奥へ戻っていった。
雨助は、その背中を見ていた。受け入れられたわけではない。
追い返されなかっただけだ。
それでも、自分を呼ぶ言葉ができたということだけが、不思議と少し身体を軽くした。




