ドレス・アップ
あたしは普通でいい。
でも普通って何?
キレイになることは女の特権
「どうせ服を買いに行くんなら、このままでもよかったのに」
着る服が無いわけじゃないんだから。と続けようとすると、氷室さんは首を横に振った。
「服を買ったらその場で着替えるつもりか? ショッピングを楽しむこと自体、オシャレして行きたいだろ」
「あっそっか」
そんなことにも気付かなかった。
案内されたのは、フロア内の一室で『企画室』という場所だった。
氷室さんがノックをすると、どうぞ。と声が返ってきた。女性の声だ。
「失礼します」
「あ、お邪魔します……」
中に入ってまず鼻をついたのはタバコの匂い。
でも、孝治が吸っていたものやたまに街ですれ違う人が吸っていたタバコの匂いとは違う、甘い香り。
ところ狭しと積み上げられたダンボールと染料、それにパソコンと、それを乗せるデスク。
物凄い速さでキーボードを叩いていた女性が椅子を回転させ体を向けた。
「よく来たね、氷室坊や。そっちのおじょうちゃんが、綾ちゃんかい?」
「坊やはよしてください。ええ、この子が香坂綾です」
「ふうん」
椅子に座ったまま、あたしの顔から体から足の先までジロジロと眺める。
年齢は多分四十歳を過ぎているだろうけど、とてもきれいな人だった。
髪は栗色で無造作に結ばれていて、その髪の色と結び方が、黒と白をほどよく調和させた服装にとてもよく合っていた。
手には真っ黒なタバコ? を持っていた。
「は、初めまして、香坂綾です」
「野上悦子よ。宜しくね、綾ちゃん」
灰皿に押し付けてタバコを消すと、今度は氷室さんの方を見た。
「服だけでいいのかい?」
「できれば靴もお願いできますか」
「ウチにはガラスの靴はないよ?」
「は?」
「シンデレラとかけた冗談じゃないかい。いまどき若い子に服を揃えてあげたいなんて、魔法使いみたいさね」
「すいません。俺は、女の子の服装とか詳しくないもので」
氷室さんは苦笑している。
「そうだったね。野暮なこと言ったよ」
新しいタバコに火をつけて、野上さんはふぅっと吹き出した。
「じゃあ服のサイズと見立てをするから、外で待ってなよ」
「ハイ。それじゃあ綾。後で」
氷室さんが出ていって、あたしと野上さんが二人っきりになる。
何だかとても緊張する。いつもリーダーシップをとっていた氷室さんが、あんなにかしこまっている姿は始めてだったから。
「いつから氷室と居るんだい?」
「あ、えっと……二ヶ月くらい前からです」
「そう。あいつ、ちゃんと料理とかしているかい?」
野上さんはくわえタバコのまま、ハンガーにつるしてある服をあれこれ調べている。
ちょっと危ないと思った。
「ええ。結構上手ですよ」
「そう。料理はするようになったんだねぇ」
しばらくの沈黙が流れた。
今までの人たちとは確かに違って、独特の雰囲気がある。年も離れているせいもあるかも。
「氷室さんとは、長いんですか?」
あたしの方から話を振ってみた。
「氷室坊やとは長い付き合いだね。あの子がこの業界に入った頃からの付き合いだよ」
この業界っていうのは、どの業界だろう。そういえば氷室さんは、こっちのほうが本職だと言ってたけど。
「あの、この業界って…」
「表の看板みなかったのかい? ここは『アートスタジオ』。美術関係のレクチャーとか芸能関係に卸す衣装、メイクアップの講座から、ケーキの装飾の講座まで何でもやってるさね」
「メイクアップに、ケーキの装飾……」
「聞いてないのかい? 氷室はこのビルの顧問講師なんだよ」
初めて聞いた。
「顧問講師? 最初は氷室さんが、フリーのジャーナリストだって話を聞いてたもので、ずっとそうだと思っていました」
野上さんは「ああ」とつぶやいて言葉を続けた。
「そういう時期も、確かにあったかね。とにかくアイツはお金が必要で、当時は給料の高かったジャーナリストの仕事に没頭していたこともあったさね」
「お金が?」
「余計なこと話したね。当時の話さ、今は大丈夫さね」
野上さんはタバコの煙と共に、ふぅっとため息をつくと、改めてあたしを見た。
「当時は、何があったんですか?」
「プライベートな話さね。わたしが勝手に話していいことじゃないよ。いずれあいつが話してくれるさね」
話を進めながらも、野上さんはしっかりと服を選んできてくれた。
「寒色系の方が時間が経つのがゆっくり感じられるんだけど、今は肌寒い季節だから暖色系のほうがいいかもね。何か好きな色はあるのかい?」
「えっと、青です」
「寒色系だけど爽やかな感じがいいね。綾ちゃんはオシャレの基本、知ってる? 色は三色以内に収めること。それと、暖色系でまとめると、時間が経つのが早く感じられるのさね。暖色系は、紫、赤、橙、黄色。寒色系は、緑、青、紫、青紫ね。メイクでも同じことが言えるのよ」
あたしは、ぽかーんと聞き入っていた。
氷室さんと親しい方は、みんな何かの分野に詳しい方ばかりで、何かと色々と教えてもらっている。
それだけではなくて、服のバランス、あわせ方、アクセサリーの使い方とか、実に丁寧に教えてくれた。
「じゃあこれに着替えてごらん」
「あ、ハイ」
服に手をかけて、あたしはちょっと躊躇した。
「安心おしよ、この部屋にはわたしと綾ちゃんの二人だけだから」
「いや、えっとその…」
そうじゃない。不思議そうにこちらを見る野上さんは、服を持ったまま首を傾げている。
「あの、ちょっとあたしの体、見苦しいかもしれないですけど……」
そう断ってシャツを脱いだ。
腕や腹部、背中、足に痛々しい跡が残っている。
人前で見せるのは初めてで、今でもお風呂に入ると、たまにしみることがある。
「見苦しいなんてあるもんかね」
野上さんはタバコの灰を落としつつ、目をそらさずにあたしを見た。
「事故にあったんです」
「知ってるよ。ずいぶん痛い目にあったみたいさね。けど、あんたを一目見たときから分かっていた。傷だらけなのは、体だけじゃなくて心もだろう?」
「……」
「雄介には会ったかい?」
城戸さんのことだ。
「はい。このメイク、城戸さんにしてもらったんです」
「徹と桜にも会ったかい?」
「お二人には素敵な料理とケーキをいただきました」
「みんなホントにいい子だけど、心に傷を負った子たちばかりだよ。勿論氷室もね。軽い怪我はいずれ治る。けれど、心の傷は治らないさね。だからこそ――他人の痛みが分かる。いい子たちだよ、ホント」
「野上さんも……」
「ん?」
「野上さんもです。最初は結構、とっつきにくい感じがしたんですけど、そんなこと無かったです。凄くいい人です」
「……厄介者にされているわたしに、優しい言葉をかけてくれるのはあなたと氷室たちくらいさね」
野上さんはふふっ。と笑うと、続けて靴も選んでくれた。
あんまりヒールの高くない初心者向けの靴だというけれど、スニーカーしか履いたことのなかったあたしには、新鮮だった。
「坊や、お姫様の衣装はこれでいいのかい?」
野上さんが氷室さんを呼んでくれるまで、あたしはずっと立ち鏡の前で何度も何度も見直していた。
これがあたしなんて。嘘みたい。
「こりゃ凄い。まるで別人だな」
氷室さんはやや大袈裟なリアクションで驚いてくれた。
あたしは大きく頭を下げて、野上さんの部屋を出た。
「氷室。あの子にはまだ、伝えてないのかい? 睦月のこと」
「……ええ」
「どんな結論を出すのかはあんたが決めることさね。ただ、あの子はとてもいい子だよ。体にも心にも大きな傷を持っているのに、今は、ああやって無理にでも笑っていられるのが、奇跡と思えるくらいさね。これ以上あの子を、泣かすんじゃないよ」
「ええ。俺もこれ以上、大切な人を失うのはごめんですから」
一足先に部屋を出たあたしには、二人の会話は聞こえていなかった。
もしもこの会話が耳に届いていたら、冬のコートだのショッピングだなんてきっと、浮かれていられなかったと思う。
そもそも”浮かれる”なんて感情はあたしの中には存在していなくて、どこか冷めている自分も、確かに感じていた。




