閉鎖する心
辛いことも
悲しいことも
嫌なことも
心を閉ざしてしまえば、
何も感じなくて済むよね?
..
その日は夢を見なかったからよかった。
楽しい夢は起きた時の落胆が多くて、悲しい夢は気が滅入るし、あの事故の夢なんて見ようものなら、枕は涙に沈んでる。
朝がきて、自然に目が覚めて、あたしが起きたのが分かったみたいに、タイミングよくドアがノックされた。
「朝メシできてるぞ。歯ブラシとかタオルは、洗面所のものを使え。安心しろ、新品だ」
声だけが部屋の中に届き「わかったわ」と返事した。
備え付けの鏡の前で包帯を解く。
病院にいる時からいつも思っていた――これが夢だったらよかったのに。
醜く変貌した顔を、光のない瞳が見つめていた。その瞳は、月の無い夜みたいに真っ暗だった。
リビングに向かうと、パンの焼ける匂いとコーヒーの香りが漂っていた。
なんとなく、音を立てず部屋に入ると、
「おはよう。コーヒーと紅茶どっちがいい?」
背中を向けたままの氷室に訊かれた。
気配でも読めるのかしら。
「コーヒー」
本当は紅茶のほうが好きだけど、匂いにつられた。病院では自動販売機のコーヒーしか飲めなかったから。
「今まで朝はちゃんと食ってたか?」
「まあね」
そうでも無かったけど、病院での生活は規則正しい三食が続いていたから、もう慣れた。
閉め切ったカーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいた。あたしに気をつかってくれているのかな。けど特にお礼も言わなかった。
学校まで車で20分。ちょっと余裕をもって出てきたおかけで、生徒の数もまばらだった。
「ありがとう」
半ば義務的にお礼を言って、まずは職員室に行こうと考えて車を降りる。
「一人で平気か?」
保護者ってことで、一緒に行ったほうがいいか? と氷室は訪ねてきたけど、
「子供扱いしなくてもいいわよ。独りには慣れているから」
そういって校舎に入った。
自分の下駄箱はまだあった。早朝から登校している生徒や、朝の部活で来ている生徒たち何人かとすれ違ったけど、そのいずれもが一度は目を伏せてすれ違い、通り過ぎたあたしの背中を、振り返って見つめていた。
好奇と嘲笑の混じった視線。それは、ここでも――
「……な、なんだ君は。うちの生徒か?」
職員室に入ると一番近くにいた男の先生が椅子から立ち上がった。
「3年B組の、香坂綾です」
教科書を読み上げるように、淡々と伝える。
「香坂?」
「ホラ、あの例の事故の……」
「生きてた……」
「やめたんじゃないのか?」
「半年の休学届けを申請したくて。それと復学の意思を伝えにきました」
ただ登校したのでは、出席日数の関係で卒業できなくなってしまう。本当だったら入院する時に親族が休学届けを申請することになっている。
あたしには親族がいないから、後出しになった。電話で言ってあったのに。
「しかし、君は……本当に香坂綾か?」
後ろの席に控えていた別の男性教師が尋ねてきた。校則違反などを取り締まる体育教師だ。
無遠慮にあたしをジロジロと眺めると、人差し指を向けてきた。
「包帯の下の顔が見えないと、香坂綾本人かも分からんじゃないか。ん?」
「替え玉を使っているといいたいんですか?」
「いや、そういうわけじゃないが……佐々木先生、B組の名簿、ありますか?」
女性教師から顔写真入りの名簿を受け取ると、そこにはクラス全員の名前と顔写真があった。
出席番号女子12番。香坂綾。【こうなる前】のあたしの顔が、写っていた。
「怪我してますので……あまり解きたくないのですが」
「しかし部外者かも知れない生徒を学校に入れるワケにはいかんよ」
教師の顔には、興味本位が半分。怪我なんて大したことないくせに大袈裟な包帯してきたな。と言わんばかりの、見下す態度が滲んでいた。
あたしは唇の端を吊り上げて、目元と顔の包帯を少しずらした。
恐らく教師にとって想像を超える傷跡だったのだろう。
教師は驚きに身を震わせて後ずさり、キャスター付の椅子に足を引っ掛けてしりもちをついた。
「分かっていただけました?」
「ああ、わ、悪かった」
震える声で教師が身を起こし、元の席に戻った。
職員室の中は、シン……と静まり返る。事務的に休学届けを申請すると、職員室を後にした。
3年B組には、何人かの生徒が早朝から登校していた。
みんながあたしの顔を見るなり、驚きと戸惑いが混じったものになったが、誰もが読んでいた文庫に目を落とすなり、外を眺めるフリをするなりして、静かな時間が流れた。
あたしの席には、花が置かれていた。
死んだことにされている。おかげで、自分の席はどこだかすぐに分かった。
やがてホームルームの時間が近づき、生徒が集まってきた。
楽しそうな笑い声に混じって、昨日のドラマが、主題歌が、新しいスイーツがなどと気楽な会話が聞こえる。
いずれもがあたしという、異様な存在に気付いて息を呑む。
耳を塞いでも聞こえる、お約束のヒソヒソ話。
「あんたさ、香坂綾じゃん?」
髪を茶色に染めて派手なアイラインを引いた女子生徒が一人、話しかけてきた。
「…………」
答えなかった。
すると気に入らなかったのか、彼女はあたしの髪を掴んで顔を覗きこんできた。
「聞いてんじゃん。あんた、香坂綾でしょ?」
「……そうだけど?」
短く答えた。
「やっぱりそうなんだー」
「マジマジ? 死んだんじゃなかったの?」
一人の生徒をキッカケに、今まで牽制していた生徒たちが一斉に集まってくる。
「あの事故テレビでやってたけど、すっげえ事故だったらしいな?」
「マジで~? 見たかったな。お笑い番組なんて見ている場合じゃなかったし~」
「奇跡の生還者って言われているじゃん。マスコミの取材はもう受けたの?」
「噂じゃ彼氏と一緒だったらしいよ? でも彼氏死んじゃったんだって」
「うそー。小説とかドラマである、悲劇のヒロインだよね?」
「”悲劇のヒロイン”って、古っ!」
あははー、と笑いが起こる。握り締めたこぶしが、ぶるぶると震える。
「パシャパシャって写真撮られた? 香坂さんっ今の心境は?」
女子生徒の一人が空になったペットボトルをマイクに見立てて差し出してきた。
あたしはそれを掴んで床に叩き付けた。
一瞬、シン……と静まり返る教室内だったが、
「なんだよアンタ、せっかく半年ぶりの復活ですぐクラスに溶け込めるようにみんなで話かけてやってんのに、何よその態度は?」
最初に話しかけてきた茶髪の女だ。乱暴にあたしの髪を掴むと、強く引っ張った。
「包帯なんかグルグル巻きにしてきて、同情誘おうってわけ?」
「……別に同情を誘おうなんて思ってない」
「だったらシカトしてんじゃねえよっ」
椅子から蹴落とされたあたしは、床を転がった。
襟首を捕まれてなおも執拗に、茶髪の女は言った。
「何よその反抗的な目は」
「…………」
「なんとか言いなさいよっ」
平手打ちをされた。傷口に焼けた鉄棒を当てられたような痛みが走る。
「うあああああああっ!」
「何大袈裟に痛がってるの? 馬鹿じゃんコイツ」
湧き上がる嘲笑。
面白半分に携帯電話で写真や動画をとる生徒までいた。
「改めて見るとすげえな。包帯女。これ魔除けになるんじゃね?」
「のたうちまわってる姿が面白かった。後で鑑賞会するか」
「うわっ、ちょっと血が滲んできてんじゃん。気持ちわるっ!」
口々に告げるクラスメイト。あたしはやっぱり、学校にくるべきではなかったのだろうか。
それでも――香坂夫妻が、パパとママが残してくれたものを、無駄にはしたくなかった。
騒ぎを聞いてやってきた担任は、軽い注意だけするとすぐにホームルームを始めた。
あたしが復学したことを皆に、簡単に説明した。
それでよかった。無駄に「仲良くしてやってくれ」だの「気を遣え」なんて言われるのは、こっちから願い下げだわ。
休み時間の度に何かと聞かれるのが面倒だったから、トイレにこもるなり目立たない場所で休み時間を過ごした。
放課後。早々に校舎を出ると、車の外でタバコを吸っている氷室が待っていた。
「おかえり。時間ピッタリ四時だな」
本当に来てくれて、待っててくれたんだ。
最初は単なるお節介な人だって思ったけれど、今はちょっと嬉しかった。
「……顔、どうした?」
氷室はタバコを消すと、包帯に沁み込んだ赤いものに気付いた。
「ちょっと動いたときに、傷が開いただけよ。大したことはないわ」
そう言って誤魔化した。
「そうか」
氷室は腑に落ちないといった面持ちだったが、それ以上の追求はしてこなかった。
意外に優しいところがあるのね。こういうときに根掘り葉掘り聞かれるのは、単純に迷惑なだけだから。
ネクタイを直して、ハンドルを握る。スーツは手入れこそされているが、動き回っていたのだろう、ところどころシワが目立つ。
「現場上がりでな。白馬の王子様のお迎えとはいかねえが……まあこの際だ、贅沢は言うな」
無言で首を横に振った。
まだ彼が信用できる人じゃないけど、少なくとも今はあたしのことを助けてくれている。
壊れてしまったはずの心に、少しだけ温かいものが沁みた。帰りの車の中で押し黙っていると、頭の上に手が置かれた。
「辛かったか?」
誰かの手があたしに触れることは、今はとてもわずらわしくて、手の甲で叩き落とすと、氷室は少し寂しそうな顔をした。
「……そんなことないわよ」
一言だけ返事をする。
「それならいいが、何かの時にはすぐ呼べよ。ピンチの時は助けにくる――こりゃ王子様じゃなくて、騎士にしかできないことだ」
「そういう台詞、言ってて恥ずかしくないの? 第一、あなたが騎士?」
呆れるフリをして窓から景色を眺める。
大丈夫。あと五ヶ月で卒業なんだから。心を閉ざしてしまっていれば、月日なんて景色みたいに――すぐに流れていくはずよ。
自宅につくなり氷室は「仕事に行ってくる」と言って、車で走り去り、あたしは手の中にある合鍵を使って家に入った。
家の中はシンと静まり返っていて、まだ五時過ぎなのに真っ暗だ。よく見ればどの部屋のカーテンも締め切ってあった。
リビングに行くと、テーブルの上にはスープとパスタ。電子レンジで温めろということらしい。
ポケットに入っていた携帯電話が鳴った。
「……もしもし?」
「俺だ。代えの包帯は部屋に置いてあるからな」
すぐ電話が切れた。そのお節介態度に苛立ちさえ感じて、自分の家に戻ろうかと思った。
けど昨日送ってもらった計算だと、車で二十分かかる距離を歩いて戻るのは無理だしタクシーやバスを使おうにも、この顔では目立ちすぎる。
大人しく席に座り、食事を始めた。
氷室が何の目的であたしを助けたかは知らないけれど、これ以上の最低な生活はない。
ううん――今は最低より、少しマシな生活をしているわ。
特にすることもないのでテレビをつけた。
チャンネルを変えてみると、『あの少女は今』なんて見出してあたしのことがちらっと語られていたけれど、それだけだった。
そのうち放っておけば、世間は忘れてくれる。
放っておいて欲しかった。
人の不幸を根掘り葉掘り聞き出して、何が楽しいんだろう。悪趣味な人たち。
そして氷室もまた――そんなジャーナリストの一員だということを、忘れてない。
夜中。風の音で目が覚めた。正確には玄関を開ける音。時計の針は二時を回っていた。
氷室が帰ってきたみたい。遠慮がちなノックの音が聞こえると、ドアが開いた。
あたしは面倒だったので寝たフリをしていると、テーブルの上に紙切れと何か柔らかいものが置かれた。
部屋を出ていく気配を見届けてから、こっそりそれを見ると、生理用品と代えの包帯だった。
紙には『違ったら×を書いてリビングのテーブルへ』と書かれていた。
生理用品のことだろう。変な気遣いをしてくれなくてもいいのに。ベッドに潜り込み、眠りについた。
翌朝。
昨日と同じく、テーブルの上にはトーストとサラダ。目玉焼きにコーヒーが乗っていた。
「おはよう。勝手にコーヒーを淹れたが、紅茶が飲みたきゃ勝手に淹れろ」
「……なんだっていいわよ、別に」
座ってトーストをかじると、ちょうどいい焼き加減。
「アレは、アレでよかったのか?」
「何が?」
「アレってのは、その、ナニだよ」
「アレとかナニとか分からないんだけど」
「つ、机の上においてあっただろうがっ! アレと言ったらソレに決まってんだろうがっ!」
「……ああ、生理用品のこと? 気遣いなくても、ちゃんと持ってきているから」
「そ、そうか」
氷室は思わず立ち上がった姿勢から、また椅子に座っコーヒーを口にした。
「あちっ!」
ドジな一面も見せたりしている。あたしがクスっと笑うと、恥ずかしかったのか「食ったら出るぞ」と、促した。
登校二日目。何事も初めてより二回目となると慣れもあるけれど、教室に入ると一瞬空気が凍る。
「…………」
また机の上には花が置いてあった。それをどけると、席につく。机の中から何かがはみ出しているのが見えた。
習字紙くらいの大きさの紙に「死ね」と書かれていた。
何て幼稚。嫌悪感より先に、何より呆れた。
握って丸めていると、例の茶髪の女――高松夏美が机の上に座ってきた。
「せっかくさあ? あたしが習字の時間に書いた課題を、あんたにプレゼントしてんのに、丸めて捨てるなんてシンジランナイ」
クチャクチャとガムを噛みながら、あたしの顔を覗きこんでくる。
「それ新しい包帯なんだ? 下着みたいに何着も持ってるの?」
もう一人のキツネに似た顔の女子、河野沙希がニヤニヤ笑いを浮かべている。
何個も持っているの? ではなく何着も、と聞く辺りに嫌味がこもっていた。その他数人の男女が集まって、昨日と同じく野次を飛ばしてくる。
けど空っぽ、どころか壊れた心には、辛いとか苦しいとか悲しいとか怖いとか、そういうものは感じなかった。
ただ隣で誰かが喋っている。まるで機械仕掛けのネジ人形が、勝手に話しているような――どこか現実味のない曖昧な世界。
「ナントカ イイナサイヨ」
肩に激痛が走る。だけど、痛みさえもジンと痺れた、麻痺に似た感覚で覆ってくれる。心を閉ざしてしまえばいい。
そうすれば何も感じないし、聞こえない。周りでは機械仕掛けのネジ人形たちが、何かを口々に喋っている。
でも聞こえないフリをする。ああでもこれって、あたしのほうが、人形みたいだ。
食堂に行けないから屋上に上がることにした。十月。まだ雪は降ってないけど、風か少し冷たくなってきて、しかも今日は小雨が降っていた。おかげで誰もいなかった。好都合。
朝に氷室が渡してくれたパンとコーヒー牛乳を口にする。
フェンス越しに見える町は、孝治と見た坂の上からの景色。その一部がそこにあった。
大きな時計塔。二人で見た思い出のオブジェを、今はあたし一人で見ている。
フェンスに寄りかかって下を見る。四階建ての校舎から地面までの距離は相当なものだった。
そう。打ち所がゆくても確実に死ぬことができるだけの、距離があった。
「…………」
何となく空を眺め、何の味も感じないパンを口に入れてコーヒ牛乳で流し込んだ。
五時間目も六時間目も、担当の先生はあたしに気を遣ってか絶対に問題を当ててこない。それどころか、目も合わせようといない。
きっと包帯の隙間から覗くあたしの目線が鋭すぎるせいだろう。その日も早々にホームルームが終わり、校舎を出ると氷室が待っていた。
「おかえり」
少し眠そうだった。
「……何時からいたの?」
「いや、今ついたところだ。もうちょっと早く来たかったんだが、先約でもたついてな」
腕時計に目をやると、助手席のドアを開けてくれた。
「それより早く乗れ。何人かのマスコミがそろそろ嗅ぎ付けてきているみたいだからなっ」
氷室はすぐに運転席に回ると、すぐに車を発進させた。
あたしは走行中、ニット帽を目深に被り、極力目立たないようにしている。
車は昨日とは違う道を走っていた。これなら、尾行がいたらすぐに気付く。とのことだった。
「……ねえ、一つ聞きたいんだけど」
「なんだ?」
こちらには顔は向けず、正面を向いたまま氷室は応えた。
「初日を入れると今日で三日目だけど、やっぱり助けられる理由が分からないわ」
氷室は答えず、ちらりとあたしのほうを見た。
「恩を売っておけばそのうち大きなニュースを語ってくれる? それとも、別の目的があってのこと?」
「変な下心はねえよ。色んな意味でな」
「じゃあなんで?」
「なあに、お前にとっちゃ何でもない理由さ」
それ以降、氷室は何も答えてくれそうになかったので、訊かないことにした。
それからの数日間。
氷室は学校が終わると迎えに来てくれていて、家に到着するとあたしを置いて仕事に出ていく。
帰ってくるのは夜中らしく、あたしに気を遣ってくれているのだろう。物音はほとんどしない。
毎朝、朝食の時間と送迎のわずかな時間で会話をする。
氷室が他愛も無い話や質問をしてきては、それに素っ気無く答える。そんな毎日が続いたある日。
月曜日から始まった一週間が土曜日を迎え、週末の連休。
習慣で起きてくると、氷室は珍しくご飯を炊いていた。
「おはよう。いつもパンだと飽きるだろ。今日は米を炊いてみたぞ」
妙に嬉しそうなのがちょっと可笑しい。
「やっぱり日本人は米だろ。パンも悪くねえが、パンと味噌汁ってのはどうもなあ」
たまに言うことが年寄りっぽい。顔は今まであんまり意識していなかったけど、かなり……ううん、とてもカッコイイと思う。
送迎に来てくれていたときも、他の女子生徒たちが物珍しい――というより、うっとりする視線で氷室を見ていたのも分かる。
「……前々から聞きたかったんだけど」
「ん?」
「あなたいくつ?」
「言ってなかったか? 二十八だ」
「ちょうど一回り違うんだ……」
あたしが十八だから、ちようど十歳離れていることになる。
差し出されたお茶碗を受け取ると、
「ありがとう……」
あたしは初めて、お礼らしいお礼を言った。
氷室はちらりとこちらを見ると、小さく微笑んだ。
平穏な土曜日。あたしと氷室はしばらく向かい合って、他愛も無い、本当に他愛も無い話をしばらくしていた。
氷室にはこの一週間、ずっとお世話になっていた。
生活費は自宅から持ち出した通帳からいつでも払うと言っているのに、一度も受け取ってもらってない。
ふとカレンダーを見た氷室は「ああ、そうか……」と独り言をつぶやいた。
「明日は日曜日か。ずっと籠の中の鳥も辛いだろ。どこか出かけるか? 服も靴も同じものばっかりじゃなんだしな。俺はお前さんの好みもわからねえ」
「でも、あたし……」
顔の包帯を押さえて、言葉を無くした。
この顔じゃあ、車で外に出られても町を歩くなんて、ままならない。
何より、せっかくマスコミ関係者からかくまってもらっているのに、自分から姿を見せたんじゃ意味がない。
「……うまくいくかは分からなかったから黙っていたんだが、明日は客を呼んである。期待はするなよ、何しろ――俺自身も経験がねえことなんだからな」
と、意味不明なことを言うと、ちょっと出てくる。と氷室は出かけた。
当初はあれほどわずらわしさを感じていたはずなのに、いざ一人で残されると寂しい気持ちになる。
寂しい……?
何を馬鹿な。
あたしの心の中では、孝治は今も生き続けているし、あたしはこれから先もずっと一人で生きていく
いつまでも氷室……さんを頼っててはいけないし、先のことも考えないといけない。
その日は落ち着かなくて、自分の使っている部屋の掃除をした。
本棚には相変わらず、いっぱい本が並んでいる。
子供の頃読んだ本のタイトルが目に入る。中でも好きだったのは、白雪姫。
家族が居なかったあたしには、七人の小人に囲まれている白雪姫が、とても羨ましかった。
手に取ったのはシンデレラ。
不幸な境遇の女の子が、魔法使いのおかげでキレイになって、舞踏会へ行き王子様と出合う話。その絵本をめくりながら考える。
もしもシンデレラが化粧もぜず汚い衣装で舞踏会に行ったとしても、二人が運命の人だとしたら、灰被り姫のままでも結ばれていたのかな。
十二時で魔法は解けたのに、なんでガラスの靴だけは残っていたんだろう。
色んなことを考えていて、時間が過ぎていく。
氷室さんが帰ってきたのは夜の七時を回ったところだった。
両手にスーパーの袋を抱えて、どさどさっ。とそれを置いた。
「おかえ……何この量?」
「なかなか買出しに行く暇がねえからよ、買いだめだよ。娘にわびしい食事はさせられねえからな」
娘って……まだ言うか、この人は。
「一つ持つわよ」
「無理するんなって。腕の筋だってまだ痛むんだろ?」
「だからってずっと使わないと、リハビリにもならないじゃない」
半ば引きずるように袋をリビングに運ぶあたしを、氷室さんは黙って見守っていてくれた。
今日の夕食はステーキだった。
週末だから。
そんな子供みたいな理由で嬉しそうにお皿を並べる氷室さんに、
「かわいいところあるのね」
ちょっと意地悪っぽく言った。
「なっ、なに言ってんだ。お前がたまには肉が食いたいかと思ってだなっ」
男の子じゃないんだから。
あたしは特別、肉が好きなわけじゃない。
けどせっかくだから、微笑んでみた。
待っている間、手持ち無沙汰だったので、何となく氷室さんを眺めた。
グレーの長袖のシャツを着て、肘の辺りまで捲り上げている。
リズムのいい包丁音と、慣れた手つき。あたしの視線に気づく。
「ん? 部屋でテレビでも見ていろ。こんなもん見てても退屈だろ」
「ううん、そんなことないよ」
「そうか? ならいいが……」
台所で料理をする人の後ろ姿。
普通の家庭じゃ、当たり前に見える光景かもしれない。
あたしが孝治に見せてあげたかった、後ろ姿。
「ねえ氷室さん、あたしにも料理、教えてくれない?」
「教えるほど上等な腕じゃねえぞ?」
謙遜ね。
この一週間の食事は、どれもプロレベルだった。
「あたしはこの料理、好きよ」
フライパンを持つ手が止まり、氷室さんは顔をこちらに向けた。
「そうか? なら、かまわねえが……」
その目はあたしの手に向けられていた。
「平気よ」
肩より上に上げると、ちょっとだけ痛む。
けど包丁を握る重さくらいなら、むしろ適度な刺激になる。
「いや、そっちじゃなくてな……持ち方からして、そもそもなってねぇ」
後ろに回った氷室さんの手が、あたしの手に重ねられた。
長く伸びて少しひんやりとした白い指が、あたしの指に絡まる。
「親指に力が入りすぎているんだ。人差し指は自然な感じで……」
間近で見る氷室さんの顔は、透き通るように白くて、端正な顔立ちだった。
耳に吐息がかかるくらいの距離で、ささやかれる。
――普通の女の子なら。
きっと卒倒しそうな場面でさえ、あたしの心音は高鳴ることはなかった。
「ありがとう」
一通りのコツを教えてもらい、お礼を言ってその場を離れた。
「なあ」
あたしの背中に、氷室さんの声が届く。
振り返らずに「なに?」って訊いた。
「綾ちゃん。今初めて俺のこと、名前で呼んでくれたな」
嬉しそうだったのは、声の様子で分かった。
そして――
『それはあなたもでしょ?』
喉まで出ていた言葉をあえて口にしなかった。
部屋に戻ると、包帯を代える為に鏡と向き合った。
一日で最も辛い時間。今のあたしがこうなってしまった瞬間を、嫌でも目の当たりにしなきゃいけないから。
鏡に映る醜いあたしを指でなぞり、自嘲気味につぶやいた。
「綾ちゃん、か」
明日は日曜日。
一日中寝ていたい。
せめて夢の中だけは、現実を忘れて幸せな夢が見られるといいのに。




