2人の生活
あたしのイメージはハリネズミ
近づくと刺さるから。
「で、ここで何をしろって? 炊事掃除に洗濯? それとも、夜のお相手?」
「……別に何も手伝ってくれなくていい。男の一人暮らしだ。一通り問題ない」
「あ、そう」
「マスコミがお前の家をかぎつけて、待ち伏せしてる。だからここで身を隠せ。それと、夜のご奉仕だ?馬鹿言うんじゃねえ。俺は色香のある大人の女にしか興味がねえんだよ」
「……見返りもなしに、何でそこまでしてくれるわけ?」
あたしには氷室と面識がない。
理由が知りたかった。
「乗りかかった船だ。事情を知ってハイサヨナラってわけにもいかねえだろ」
「お人よしなのね。あなたも一人身? 寂しいだけじゃないの?」
少しの嫌味を込めて、そう告げた。
「……娘に手え出すわけねえだろ。馬鹿かっ」
氷室はあたしに背を向けてそう言った。
娘? ああ最初に報道陣から守ってくれたとき、この人あたしのこと、俺の娘だ。と言ったんだ。
「ありがとう。パパ」
「その呼び名はやめろ。そんな大きな娘をもつほどフケてもねえよ」
さっきは娘と言ったくせに。なによコイツ。
リビングを通り、六畳間程の部屋に通された。キレイに片付いている。
フローリングの床にベッドとタンス。窓にはちゃんとカーテンもついていた。
普段から使っていない部屋みたいで、何の匂いもしない。
「風呂は奥の扉だ。自由に使え。覗いたりしねえから安心しろ」
「覗いても、欲情しないでしょ? こんな体」
皮肉を込めて、言い放った。
歩くたびに、手を伸ばすたびに、ズキンズキンと痛む。
ただ歩くことが辛い。ただ扉を開けるだけで、こんなに辛い。
「家の鍵を渡しておく。スペアだが無くすなよ」
鍵の束から一つを外して、あたしに渡してくれた。
「…………」
「ほとぼり冷めるまで、ここで身を隠しているか?」
「一度家に戻りたいんだけど」
「記者が張ってるかもしれねえぞ?」
「夜中ならいいでしょ? 着替えも必要だし」
「……仕方ねえな。後で出発する。それまで休んでろ」
氷室は用があったら呼べよ、と自分の部屋に入っていった。
あたしはベッドに横になってみたけれど、ずっと寝ている生活だったから、今更眠くはない。
本棚を覗いた。
絵本ばっかり置いてあった。
白雪姫、シンデレラ、人魚姫、赤ずきんちゃん……子供の読むような童話ばかりだ。
なんとなく手に取ったのは赤ずきんちゃんだった。
パラパラと本をめくると、赤ずきんちゃんを食べようとお婆さんに化けている狼と少女のやりとりが描かれている。
あの氷室という男は、狼かしら。
「お婆ちゃんの口はなんでそんなに大きいの? それはお前を食べるためだ……」
なんてね。別にどうだっていいけれど。
本を放り、ベッドに座る。4時を回ったばかりなのに、もう外は暗くなっていた。
夜が来るたびに、心が潰されそうになる。
しん……と静まり返った部屋の中。目を閉じると思い出す、短かったけれど楽しかった家族との思い出。
入院中の三ヶ月は、毎日孝治の夢を見た。
夢の中で、彼はいつも笑顔であたしの手を引いてくれて――
急に駆け出した彼に追いつこうと、あたしも走る。
待って、待って。置いていかないで――
そして夜中に目が覚める。毎晩毎晩。
その度に涙が頬を伝い、あたしはまた、一人ぼっちになってしまったのだと気付いてしまう。
部屋がノックされた。
扉越しに声が聞こえる。
「俺だ。今日のメシは何が食いたい? と訊きたいところだが、外食はさすがに出来ないから、男の料理で我慢してくれ」
「……いらない」
「食え。食料難でもねえのにくわねえのは餓死するぞ。餓死も立派な自殺だ」
「立派じゃないでしょ。自殺なんだから」
下らない冗談で笑わせようとしているのかしら。あたしは呆れていたが、それだけは言いたかった。
「自殺が立派じゃねえって気付いているんなら、俺も安心した」
足音が遠ざかっていく。
……何よあいつ。一人になった途端、自殺するとでも思ったのかしら。
それからほどなく、もう一度扉がノックされて「メシだぞ」と言われた。
食事は簡単なものだった。フランスパンとスープ。海草サラダみたいなもの。それだけだった。
「まあ、生憎と食材を仕入れてる時間がなくてな」
氷室はちょっと言い訳っぽく言いつつも「病院の食事はうまくねえだろ。それよりはマシだと思うんだがな」とぼやいた。
確かに。病院の食事に慣れきってたせいか、美味しく感じる。
そもそも病院にいる間、食事を美味しいと思ったことなんてない。ろくに喉を通らなかったことばかりだった。
「……まだ痛むのか?」
「足は歩くたびに間接が痛いわ。腕は持ち上げて何かを掴もうとすると痛いし、顔は最悪。日焼けした肌にレモン水を塗った感じ」
それでもだいぶんマシになったほうだけど。
と説明した。
「体の傷が痛むのは、歩き方とか見てりゃわかる。俺は心のことを訊いたんだ」
氷室は苦笑しつつ、申し訳なさそうに目を伏せた。
「心は……痛むというより、もう何も感じていないわ。前は空っぽのだったけど――」
あたしはガラスのコップを手に取った。
「今はその入れ物でさえ、無くしちゃったから」
パッ。と手放すと、ガラスのコップは地面に落ちて粉々に割れた。足に小さな痛みが走った。
「入れ物がないもの。何をしても満たされない感じ」
氷室は割れたコップをしばらく見ていたが、視線をずらして立ち上がった。
あたしに近づいてくると、ちょうど触れ合えるくらいの距離で手を伸ばしてきた。ビンタ?
「足。ガラスの破片で切ってるぞ」
差し出されたのは、絆創膏だった。
「…………」
「心は空っぽ、あるいは空洞になっていると感じるかもしれないが、お前さんが生きている以上、心臓は動いているし血が通ってる。痛いと感じるのは体が危機を訴えてるからだ。あんまり自分を苛めるなよ」
それだけを言うと、氷室は早々に食事を済ませて、ほうきとちりとりで砕けたガラスコップを処分した。
(ごめんなさい……)
その一言が、言えずにいた。
「出発は今夜11時でいいな。その時間なら張りこんでる記者もいねえだろ」
「分かったわ」
部屋に戻りベッドに寝転んで、天井を眺めていた。
静かだ……。
病院のベッドほど白くはなかった。茶色ベースの板に、光量の足りない蛍光灯。雨漏りや亀裂、ところどころ広がる染み。
まるであたしの心みたいだ。と思った。
ドアがノックされた。
「そろそろ行くぞ」
時計も携帯電話も持っていないあたしには、時間が分からなかった。
「もうそんな時間?」
「さっきお前さんの家を見てきた。記者は一人も居ないみたいだ」
静かだなと思っていたら、出かけていたらしい。
「あたしが逃げるとか、そういうこと考えなかったの?」
氷室に尋ねた。
「別に誘拐したわけじゃねえからな。そうしたいなら好きにすりゃいい。止める権利は俺にはねえよ」
「そう」
移動中の車内で、特に話すことはなかったのであたしは黙っていた。
事故のこととか、今の心境とか、根掘り葉掘り聞かれたりするんじゃないかと構えていたけど、氷室が聞いてきたのは、
「音楽は何か聴くか?」
それだけだった。
収納ボックスを開けると、たくさんのMDが入っていた。
「いまどきMD?」
「CD-Rは一回書き込むとそれっきりだろ。俺はMD派なんだよ。不便はしてねえし」
手書きのタイトルシールを見てもよく分からない。適当に選んでそれを入れた。
女性ボーカルが失恋を歌った曲だということが、歌詞をきけば分かった。
この曲が流されるたびに、この曲の主人公は繰り返し失恋するのだと思うと、少し切なくなる。
「タバコを吸ってもいいか?」
氷室が胸ポケットからタバコの箱を取り出した。メンソールの、孝治がよく吸ってたのと一緒。
『タバコ吸ってもいいかな?』
あの日の夜と、ダブって見えた。
「タバコ……嫌いなの」
「そっか」
抗議の声を上げるでもなく、氷室はそれをしまった。
ほどなくして、あたしの自宅に到着し、氷室は車で待っていると言った。
鍵は植木鉢の下においてある。まだちゃんと、あった。
十ヶ月ぶりの自宅。
ポストには案の定、テレビだの編集部だのの名刺が差し込まれていたので、全て抜き取り、まとめてゴミ箱に入れた。
光熱費は口座から自動引き落としになっているので、電気は止まっていなかった。タンスから服を出し、引き出しから通帳を出し、適当なバッグに詰めた。
家を出る前にカレンダーを確認する。
今日は十月七日で、明日は十月八日。
あたしの荷物を見て、氷室が念を押す。
「ずいぶん荷物が少ないんだな。それで全部か?」
「ええ」
化粧とか遊び道具なんて、あたしには必要ないから。帰り道にも、氷室は何も聞いてこなかったので、あたしの方から言った。
「明日から学校に行く」
「――は!?」
驚いた氷室は、思わず急ブレーキをかけた。
ガクンと車体が揺れて、車は横に滑ったけれどその先に人や車はいなかった。
「正気か?」
「あと半年だけど、学校は卒業しておきたいから」
「お前、分かっているのか? 今学校に行ったらどんなことになるのか。悲劇のヒロインだってチヤホヤされるとでも思っているのか?」
「そんなわけないてしょ!」
多分このときが、初めてあたしの感情を出しちゃったときだと思う。
悲劇のヒロイン? チヤホヤされる? バカバカしい。もしそうだとしてもそんな同情はごめんよ。
しかし氷室は続ける。
「お前の学校、休学届けは半年間まで有効だったな? だがな、客観的に言わせてもらえば、好奇の目で見られるのは間違いない。中退するのが最良だ」
中退ですって?冗談じゃない。
あたしはため息混じりに切り出した。
「私の学費を、今の育ての親であるパパとママが払ってくれたの。自分たちだって全然っお金とかなくて、いつも借金取りの人が家に来て、日々頑張っていたパパは過労で倒れた。
その半年後ママだって病気で倒れたわ。でもねっ、パパの生命保険のお金で借金は無くなって、ママがこっそり貯め続けていたお金があたしの為に残されてたの。あたしを高校に行かせてあげたいって、卒業までさせてあげたいって、先に三年分の学費を払っておいてくれたのよ。
施設で育った赤の他人のあたしの為に、そんな大きなお金を使わなければ、パパもママも死なずにすんだかもしれない。
パパだって過労で倒れることは無かったし、ママだってもっと大きな病院に移ってちゃんとした手術も受けられた。だから……」
無意識にタバコに手を伸ばしていた氷室は、その手をハンドルに持っていった。
「そうか。まあ俺には元々、止める権利も権限もないが……なら、一つだけいいか?」
「何? この話を含めて記事にするつもり?」
「違う。送迎は俺がさせてもらう。マスコミもさすがに校舎の中までは踏み込んでこれやしねえから、狙うのは帰り道だろう。だから俺が迎えに行く。学校は何時に終わるんだ?」
「四時」
「遅くなりそうなときは連絡入れろよ……って、ケータイはねえのか」
「ええ」
大破した携帯なら引き取ってきた。
どう修理しても使えそうにないと言われたけど、あたしはその携帯を手放すことはできなかった。
「じゃあこれ使え。仕事の関係上、いくつか持っているんだが、それは予備だ」
差し出されたのは古い型の携帯電話だった。
「俺の番号は名前で入ってる」
「……そう」
「気をつけろよ」
「……大丈夫よ。もし何か聞かれても、答えることなんてないわ」
「そっちじゃねえよ。興味本位で群れてくるのはマスコミだけじゃねえ。学校で一番身近な生徒たちだ」
もう一回タバコに手を伸ばした氷室は、それを握り潰してゴミ箱に捨てた。
あたしは車内のミラーに写る自分の顔を見て、改めて実感する。
包帯でぐるぐる巻きにされた顔の隙間から覗く目に、我ながらゾッとした。
風が強く吹いてきた――
ザアっ……。と葉の揺れる音が耳に届き、もう平穏な日常は訪れないのだと、あたしは実感した。




