同心番所
歩いても歩いても先が見えず、『まさか日本の中心で遭難する?』と思い始めた頃、吹雪の向こうから黒い人影が近づいて来た。
「エム君、あの人がコスプレイヤーじゃなかったら、ちょっとヤバいかも」
吹雪で目を細めていた彼女が、思わず目を見開いていた。
「危ない人?」
東京には、いろいろな人がいるからね。
「あの装束は、黒御紋付の道中羽織よ」
私立大学の入試で日本史を選択すると、そんなマニアックな衣装まで出題されるの?
世界史は覚える範囲が広いけれど、中身がそこまで深くなくて良かったな、と現実逃避している間に、黒い人影との距離は縮まり、僕たちの目の前でピタリと止まった。
「其方どもは、いずれの藩の者じゃ!」
低くて威圧的な声。
紋の入った陣笠を被ったお侍さんが、腰に差した二本の刀のうち、長い方の柄付近に左手を置いている。コスプレにしては気合いが入り過ぎだけど。
「エム君、彼は本物かも知れないわ。左手を刀の柄に添えているのは寒さで刀身や鞘が冷え切っているから、いつでも抜刀できるように準備していると思うの」
「それって、僕たちを斬ろうとしているの?」
「うぬら、何をがやがやと抜かすか。怪しき奴ばらじゃ、番所まで同行いたせ!」
今の日本語とは言葉が異なる怒声にフリーズする。固まる僕の横で、彼女はバケットハットとマフラーを脱ぎ、姿勢を正して頭を下げた。
「承知つかまつりました。では、ご案内願います。」
とりあえず僕も彼女に倣い、背筋を伸ばして一礼する。
そういえば彼女は、模試の古文はいつもトップを取っていたっけ。
彼女の卒のない対応に毒気を抜かれたのか、お侍さんはフンと鼻を鳴らすと、顔をクイっと進行方向に向け、彼女と僕を促しながら吹雪の中を歩き始めた。
お侍さんの背中を追ってキャスターバッグを引きずりながら、小さな声で彼女に耳打ちする。
「今の、なんて言ったの?」
「お侍さんは、私たちのことを江戸城の周りをうろつく不審者だと思ってるみたい。この先にある大手門の『同心番所』で取り調べを受けることになるわ」
「それって、僕たちが江戸時代にタイムスリップしたってこと?」
「エムくんは、自分が書いてるSF小説の設定で、そういうの得意でしょう? こういう時、どうやったら元の世界に戻れるの?」
「そう言われても、あれは創作だし…。 物語の中なら『世界の隙間』を見つければ戻れるけど」
「それは無理ね。そんなもの、見当たらないし」
物語のプロットを江戸時代で突っ込まれても、コメントしようがないけど。
あたりが真っ白になった景色の中、お堀沿いを歩いていると、左手に大きな門のシルエットが浮かび上がってきた。
「大手門よ。前に東京観光したときに見た門と同じ。ここを真っ直ぐ歩いていけば山の上ホテルに着くはずだから、道筋は間違ってなかったわ」
「真っ直ぐ歩いて行ければね…」
「ここを渡れば大手門の桝形じゃ。うぬら、神妙にいたせよ」
前を行くお侍さんが振り返り、重々しく告げる。どうやら真っ直ぐ山の上ホテルへ向かう道は閉ざされたようだ。
「しかとご案内、痛み入りまする」
彼女は江戸時代の住人になりきって演技をしている。小説家になるより、時代劇の女優を目指した方が大成するんじゃないかな。
お侍さんに付いて大手門橋を渡り、桝形門をくぐり、『同心番所』と呼ばれている木造平屋建ての建物へ連行された。
交番とは違い、暖房器具のない取調室は足元から寒さが上ってくる。
彼女と僕は、お侍さんたちに囲まれて、怪しげな鞄の中身を調べられ始めた。
その時だった。
——ドンッ! ドドォンッ!
外から、地響きのような怒号と銃声が鳴り響く。
「なにごとじゃ!?」
「坂下門の方角からにございます! 浪士どもが老中様を襲撃した模様!」
「出陣じゃ! 賊を討て!」
番所内はハチの巣をつついたような大騒ぎ。
取調室にいたお侍さんたちも、抜刀しながら部屋を飛び出していく。
彼女と僕の二人だけが取り残され、番所内は静まり返っていた。
「『坂下門外の変』が始まった?」
「そうみたい… ねえ、エムくん。なんだか、すごく、眠くない?」
彼女の声が子守唄のように聞こえてくる。
寒さと緊張の糸が切れて疲労感が全身を覆い、僕の瞼も重くなってきた。
お互いに身を寄せ合うようにして、彼女と僕は、いつの間にか眠りに落ちていた。
(つづく)




