坂下門外の変
東京會舘に寄り道したせいで、「山の上ホテル」への距離は少し遠くなってしまった。
重いキャスターバッグを引きながら皇居のお堀沿いを歩いていると空を覆う厚い雲間から、ひらひらと白いものが落ちてきた。
「アッツ! エムくん見て! 雪よ、雪! 東京で雪なんて滅多に降らないのでしょ? これは幸先が良いかも」
さっきまで寒さに縮こまっていた彼女が、急に声を弾ませる。
こんなに寒いのに、雪が降ってきたことが「幸先良い」わけ?
僕が眉をひそめて『?』を浮かべると、それを察知した彼女が胸を張って解説を始めた。
「エムくんは選択科目が世界史だから、あんまりピンとこないかもしれないけど、皇居は旧江戸城でしょう? 明治維新前に、二重橋門から坂下門にかけて、血生臭い事件があったのを知ってる?」
「坂下門外の変とか?」
「さすが受験生! 受験科目でなくても知ってるのね。私は日本史選択だからしっかり覚えたわ。1862年2月13日、坂下門外で尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正を襲撃したけど、警備が厳重で襲撃した6人は討死するの。でもこの事件で老中は隠居させられ、1860年の桜田門外の変に続く襲撃事件で幕府の権威失墜が加速したの」
「ふーん、そうなんだ」
試験直前とは言え、彼女が披露する日本史の知識は驚くほど充実している。この分だと試験本番も大丈夫そう。
「って、ちょっと待って。今日はその事件があった日じゃない⁉︎ 1862年もこんなに雪が降ったのかなぁ」
「さすがに、当時の天気までは記録に残っていないのでは?」
「記録は良いの。やっぱりエムくんは堅いなぁ。雰囲気よ、雰囲気。『雪降るお堀端、百年の時を超えた怨念、歴史の亡霊、そして江戸の中心』これだけで、プロットが一本出来そうだわ」
なるほど、彼女はそんな風にして物語を考えているのか。物書きとしての着眼点には感心するけど、今は新しい小説のプロットよりも、この寒さと、ますます勢いを増している吹雪をどうにかしないと。
「ねぇ、エムくん。歩いている方向はコレで合ってる?」
彼女も新しい小説のプロットより、吹き荒ぶ吹雪と行き先に不安を覚えたらしい。
スマートフォンで現在地を確認してみた。
「アレ? 圏外になってる。GPSも変だけど」
「エムくん、大丈夫? ここは東京ど真ん中よ 。ポツンと一軒家じゃないんだから。目の前に皇居があるのよ」
それは分かっているけど表示されないものは仕方がない、バッテリーは十分あるし、スマートフォンそのものが故障したわけでもなさそうだ。僕が困惑の表情を浮かべると、彼女は肩に掛けた小さなバッグからスマートフォンを引っ張り出した。
「エッ? なにこれ、嘘……。地磁気のブレ? それとも『変なもの』がいるの?」
彼女の顔から血の気が引いていく。
彼女のスマホも同じように圏外で、コンパスの針がグルグルと回っていた。
何かがおかしいのは確かだけど、激しくなる吹雪の中、お堀端で突っ立っているわけにもいかず、僕たちはキャスターバッグを引きずりながら、前へ進むしかなかった。
日本の中心、東京駅の目と鼻の先で遭難したなんてニュースになったら、みんなに一生弄られそうだからね。
(つづく)




