東部解放の激
ヴァルダーンが倒れたあと。
僕はしばらく、机の前から動けなかった。
紙は目の前にある。
筆もある。
墨もある。
書き出しまで、ヴァルダーンが残してくれていた。
――カルバーブ東部の諸侯、領民、兵らへ。
その先がない。
僕は筆を持ったまま、紙を見つめた。
何を書けばいい。
僕は生きている。
王位へ戻る。
父を殺したナジャールの政権を認めない。
東部を解放する。
言葉にすれば、それだけだ。
だけど。
それを僕が書くとなると、急に分からなくなる。
「王って、こういうのも自分で書くものなんですか」
僕が言うと、入口にいたスリフォンが答えた。
「知らん」
「領主でしょう」
「王ではない」
「じゃあ、領主は?」
「俺なら文官に書かせる」
「じゃあ僕もそうしようかな」
「それでいいんじゃないか」
あっさり言われて、僕は少し困った。
ヴァルダーンなら、何と言うだろう。
たぶん。
自分で全部書けとは言わない。
けれど。
何を書くかは自分で決めろと言う気がした。
僕は筆を置いた。
「神官を呼んでください」
しばらくして、文書を扱う神官が三人やってきた。
年配の神官が一人。
若い書記が二人。
僕の前に座る。
「陛下。東部への檄と伺いました」
「はい」
「文面はすでに?」
「まだです」
神官たちが一瞬だけ顔を見合わせた。
僕はそれを見逃さなかった。
「何です?」
「いえ」
「言ってください」
年配の神官が少し困った顔をした。
「ヴァルダーン公が用意されているものかと思っておりました」
やっぱり。
みんな同じことを考えていた。
僕もそう思っていた。
「途中までです」
僕は書きかけの紙を見せた。
「ここから僕が決めます」
「承知しました」
神官は紙を受け取った。
「では、陛下のお言葉を」
僕は息を吸った。
「まず」
言葉が止まった。
三人が僕を見る。
スリフォンもいる。
急に恥ずかしくなった。
「……まず、僕が生きていること」
「はい」
若い神官が書き始めた。
「それから、王位へ戻ること」
筆が走る。
「父上を殺した者たちを、正しい王の政府とは認めない」
そこで僕は止まった。
「いや」
神官の筆が止まる。
「父上を殺したのはナジャールだ」
「はい」
「だから、そこは曖昧にしない」
「では、ナジャールの名を?」
「入れてください」
年配の神官が確認する。
「ナジャールによるラシャン王弑逆を明記する、と」
「はい」
言葉にすると重かった。
父が殺された。
それを国じゅうへ向けて、僕自身の名で書く。
けれど。
もう避けてはいけない。
「続けます」
僕は言った。
「北門は開いた」
筆が動く。
「パトナは僕たちの側にある。天空騎士団も合流した。ダルシャン大王堰も取り返した」
スリフォンが腕を組んだ。
「ずいぶん並べるな」
「事実だから」
「脅しか?」
僕は少し考えた。
「違うと思う」
「なら、なぜ書く」
僕は答えた。
「僕たちが本当にいるって、分かってもらうためです」
スリフォンが黙った。
僕は続けた。
「王が生きている、だけじゃ駄目だと思う」
噂だけなら、いくらでも作れる。
偽物だと言われるかもしれない。
神官に担がれた子供だと言われるかもしれない。
だから。
僕たちが何をしてきたかを書く。
北門を開いた。
天空騎士団が来た。
大王堰を奪い返した。
それは全部、本当に起きたことだ。
「それから」
僕は東部の地図を見た。
東には領主が何人もいる。
ナジャール側へついた者もいる。
まだ決めていない者もいる。
怖くて動けない者もいる。
家族を人質に取られている者だっているかもしれない。
「今すぐ兵を出せ、とは書かないでください」
年配の神官が顔を上げた。
「参陣を求めないのですか」
「求めません」
若い神官も驚いた顔をした。
「ですが、これは解放の檄です」
「だからです」
自分でも、少しずつ考えがまとまってきた。
「僕のところに兵を連れて来いって書いたら、領地は誰が守るんです?」
神官たちが黙る。
「東部にも敵はいるでしょう。盗賊もいる。食べ物も必要だし、水路だって守らなきゃいけない」
それに。
僕はまだ東部へ行っていない。
王都も取り戻していない。
国じゅうに命令できるほど、僕はまだ強くない。
「書いてください」
僕はゆっくり言った。
「自分の領地を守れ」
筆が走る。
「道を塞ぐな」
また筆が走る。
「王軍が来たとき、兵糧を隠さないでほしい」
若い神官が顔を上げる。
「命令ではなく?」
「命令でいいです」
僕は答えた。
「そこは王として言います」
少し変な感じがした。
けれど、言わなければならない。
「それから」
僕は迷った。
「僕につけ、とは書かない」
「では、何と?」
「自分で決めろ、と」
部屋が静かになった。
スリフォンがこちらを見る。
「敵にも選ばせるのか」
「はい」
「昨日までナジャール側だった者も?」
「はい」
「お前の父を殺した側にいた者もいるぞ」
僕は少しだけ言葉に詰まった。
「それでも」
父のことを考える。
許せるかと言われれば。
まだ分からない。
でも。
「全員を最初から敵にしたら、ずっと戦うことになります」
それは、僕でも分かった。
ナジャール一人と戦うのではない。
南部全体と戦う。
東部全体と戦う。
昨日まで敵だった者を、今日も明日も敵にする。
それでは国がなくなる。
「王軍が来たときに」
僕は言った。
「自分で決めろ、と書いてください」
「何を?」
「誰の王を認めるのか」
神官の筆が止まった。
僕自身も、その言葉に少し驚いた。
でも。
たぶん、それでいい。
僕は星環を持っている。
王家の血も引いている。
父の息子だ。
だけど、それだけで全員が僕に従うわけじゃない。
なら。
見てもらえばいい。
僕が何をするのか。
ナジャールが何をするのか。
それから選んでもらえばいい。
「陛下」
年配の神官が静かに言った。
「それでは、東部諸侯にかなり大きな裁量を認めることになります」
「はい」
「反対側につく者も出ます」
「出ると思います」
「それでも?」
「はい」
僕は答えた。
「最初から僕につく人だけを民だとは思いたくないです」
自分で言ってから、少し恥ずかしくなった。
立派なことを言いすぎた気もする。
でも。
スリフォンは笑わなかった。
神官たちも笑わなかった。
年配の神官が頭を下げる。
「承知しました」
清書が始まった。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
同じ内容が次々と書き写されていく。
その間に、僕はヴァルダーンのところへ行った。
部屋に入ると、ヴァルダーンは寝台に横になっていた。
起きていた。
「陛下」
「寝ていてください」
「寝ております」
「話さなくていいです」
「それでは退屈で死にますな」
まだそんなことを言う。
僕は寝台の横に座った。
「檄を書きました」
「もう?」
「僕が考えて、神官たちに文章にしてもらいました」
「そうですか」
ヴァルダーンは目を閉じた。
怒られるかと思った。
「見ますか」
「見ません」
僕は驚いた。
「見ないんですか?」
「陛下が出すのでしょう」
「でも、間違ってるかもしれない」
「ならば間違えばよろしい」
僕は黙った。
ヴァルダーンは目を開けた。
「王が出す文を、いつまでも老人が直していては困ります」
「でも」
「それに」
少しだけ笑う。
「もう書いたのでしょう?」
「はい」
「ならば出しなさい」
僕はしばらくヴァルダーンを見た。
「一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「兵を出せって、強く書かなかった」
「はい」
「自分の領地を守れって書いた」
ヴァルダーンは黙って聞いている。
「それから、王軍が来たときに自分で選べって」
「誰につくかを?」
「はい」
「なるほど」
それだけだった。
「どう思います?」
「聞きたいですか」
「聞きたいです」
「では」
ヴァルダーンは少し考えた。
「今の陛下には、それでよろしいでしょう」
僕は眉を寄せた。
「今の僕には?」
「ええ」
「どういう意味です?」
「まだカルバーブ全土をお持ちではない」
はっきり言われた。
「王都もない。南部もない。東部もまだない」
「はい」
「持っていないものまで、自分のもののように命じる必要はありません」
僕は小さく頷いた。
「ですが」
ヴァルダーンが続ける。
「いつか全土を取り戻したなら、そのときは王として命じねばならぬこともあります」
「はい」
「今日は今日です」
それを聞いて、少しだけ安心した。
部屋を出る。
政庁へ戻ると、清書が終わり始めていた。
机の上に何十通もの檄が並んでいる。
最後に必要なものがあった。
神官が小さな箱を運んできた。
中には、金属の印が入っていた。
古いものだった。
アルダーンの時代から伝わる文様。
緊急時。
各地の神官、諸侯、騎士団へ王命を伝えるときに使われた印。
ただし。
普通の印章とは違う。
これだけでは使えない。
僕は左腕の星環を見た。
「お願いします」
神官が印の上に薄い布を置く。
僕は星環を触れさせた。
冷たい感触。
ほんのわずかに、輪が震えた。
印の文様が浮かぶ。
昔。
アルダーンも、こうしていたのだろうか。
そう思った。
でもすぐに違うと思った。
僕はアルダーンじゃない。
父でもない。
僕は僕だ。
神官が朱をつけた。
最初の一枚が僕の前へ置かれる。
――カルバーブ東部の諸侯、領民、兵らへ。
その下に、僕たちが決めた言葉が続いている。
僕は印を持ち上げた。
少し重い。
紙の最後へ押しつける。
力を入れる。
離す。
古い文様が残った。
一枚。
次の一枚。
また一枚。
途中から腕が疲れてきた。
それでも押した。
全部に。
僕自身が。
夕方。
オルシャニクの門前には、何十頭もの馬が集まった。
東へ。
北東へ。
南東へ。
それぞれ違う道を走る伝令たち。
神官。
騎士。
土地に詳しい案内役。
檄が革袋の中へ入れられる。
僕は門の上から見ていた。
隣にはスリフォンがいた。
「俺の領地にも行くのか」
「行きます」
「俺はここにいるぞ」
「だからこそです」
「どういう意味だ」
「あなたがいなくても、そこには人がいるでしょう」
家臣。
兵。
領民。
家族。
スリフォンという領主一人が捕まったからといって、土地そのものが消えるわけではない。
「彼らにも選んでもらいます」
スリフォンは何も言わなかった。
最初の馬が走り出した。
次の馬も。
その次も。
蹄の音が続く。
次々と門を抜ける。
東へ向かっていく。
僕はそれを見送った。
僕が生きているという知らせ。
父が殺されたという知らせ。
北門を開いたという知らせ。
大王堰を取り返したという知らせ。
そして。
僕が戻るという知らせ。
まだ僕には王都がない。
国の半分もない。
何人の領主が僕を王と認めるのかも分からない。
それでも。
今日。
僕の言葉が、初めてカルバーブ各地へ向かって走り出した。
一番最後の伝令が門を出る。
姿が小さくなり。
やがて道の向こうへ消えた。
僕は胸の前で星環に触れた。
東部解放は。
戦場ではなく。
一枚の紙から始まった。




