ヴァルダーン倒れる
オルシャニクへ戻った翌日。
僕とヴァルダーンは、改めてスリフォンと会うことになった。
場所は政庁の一室だった。
兵がスリフォンを連れてくる。
昨日と同じように、両手には縄がかけられていた。
それを見たヴァルダーンが言った。
「取ってやれ」
兵が戸惑った。
「しかし、公爵」
「話をするのに邪魔でしょう」
「ですが、この者は――」
「武門の誉れなのでしょう?」
ヴァルダーンは笑った。
「なおさら縄一本でどうにかなる相手ではありますまい」
兵は困った顔をしたが、結局、縄を解いた。
スリフォンは自由になった両手を軽く動かした。
それから僕を見る。
僕とスリフォンの間には、卓一つしかない。
剣を持っていなくても、飛びかかろうと思えばできる距離だった。
僕が少し身構えたのに気づいたのだろう。
ヴァルダーンが笑った。
「陛下。そんなに固くならずとも」
「でも」
「殺せるものなら、今ここで暴れて殺せばよろしい」
「ヴァルダーン」
僕のほうが驚いた。
スリフォンも眉を上げた。
「ずいぶんなことを言う老人だな」
「ここまで入ってから暴れるような方なら、大王堰でとっくに暴れておりますよ」
「俺が何もしないと?」
「さあ」
ヴァルダーンは肩をすくめた。
「そこまでは知りません」
「では、なぜ縄を解く」
「本当に敵中なら、私ももう少し気をつけます」
ヴァルダーンは窓の外を指した。
神官が二人、書物の束を抱えて歩いている。
その向こうでは若い神官たちが水路の掃除をしていた。
「ですが、ここはオルシャニクです」
「それがどうした」
「神官がうじゃうじゃおります」
スリフォンが黙った。
僕も窓の外を見る。
たしかに、どこを見ても神官がいる。
武装している者はほとんどいない。
けれど、人の目は多かった。
「あなたが妙なことをすれば、半日もしないうちに神官領じゅうに知れ渡るでしょう」
「監視させるということか」
「いいえ」
「では?」
「監視はつけません」
スリフォンが今度こそ怪訝な顔をした。
「俺は捕虜だぞ」
「昨日から何度も聞いております」
「逃げるかもしれん」
「どうぞ」
僕は思わずヴァルダーンを見た。
「いいんですか?」
「陛下。南へ帰りたい人間なら、大王堰から西へ逃げています」
スリフォンの目が細くなる。
ヴァルダーンはそれを気にせず続けた。
「それでもここまで来た。ならば、しばらく好きにさせておけばよろしい」
「しばらく?」
スリフォンが訊いた。
「神官領で好きにしていろ」
あまりにも簡単だった。
「寝る場所は?」
「宿坊があります」
「食事は?」
「食堂があります」
「俺が町を歩いても?」
「構いません」
「外へ出ても?」
「南まで歩くおつもりなら止めませんよ」
スリフォンが黙り込んだ。
捕虜としてどう扱われるかは考えていたのだろう。
牢へ入れられる。
尋問される。
人質にされる。
あるいは、味方になるよう迫られる。
そのどれでもなかった。
「何が目的だ」
スリフォンが訊いた。
「ありません」
ヴァルダーンは答えた。
「今のところは」
「信用しているわけではない、と」
「もちろん」
あっさり言われて、スリフォンは少し笑った。
「面白い老人だ」
「よく言われます」
それで話は終わった。
本当に終わってしまった。
スリフォンは部屋から出ていった。
後ろに兵はつかなかった。
僕は窓から外を見た。
しばらくすると、スリフォンが一人で中庭を歩いているのが見えた。
「本当にいいんですか」
僕は訊いた。
「何がです?」
「自由にして」
「では、縛っておきますか?」
「そういうことじゃなくて」
「陛下」
ヴァルダーンが僕を見る。
「人を味方にするために、最初から鎖につないでおく必要はありません」
「味方になるんですか」
「さあ」
また、それだった。
「分からないんですね」
「分かりません」
ヴァルダーンは笑った。
「ただ、敵でいたくなさそうではあります」
その日の昼。
僕は中庭でスリフォンを見つけた。
老神官に何か頼まれて、大きな木箱を運んでいた。
「俺は捕虜だぞ」
そんな声が聞こえた。
老神官は平然としていた。
「そうですか。では捕虜殿、そちらへお願いします」
スリフォンは呆れながら、それでも箱を運んでいた。
僕は思わず笑った。
なるほど。
ヴァルダーンの言う通りだった。
ここでは監視をつける必要がないのかもしれない。
誰も監視していない。
その代わり、誰も放ってもおかない。
午後になると、政庁にはさらに人が集まり始めた。
北門が開いた。
天空騎士団が合流した。
大王堰を取り返した。
僕が生きていることも、もう隠す必要はない。
次にやることは決まっていた。
東部だった。
カルバーブの東には、まだ態度を決めかねている領主が多い。
ナジャールの政府に従っている者。
従っているふりをしている者。
どちらにもつかず、領地に閉じこもっている者。
父の死後、何が起きているのか分からない者もいる。
「そろそろ出しましょう」
ヴァルダーンが言った。
卓の上に紙が置かれる。
「何をです?」
「陛下が戻ったという知らせを」
「もう噂にはなっているでしょう」
「噂では困ります」
ヴァルダーンは椅子に座った。
「王が生きている。王位へ戻る。そして東部を解放する」
筆を取る。
「正式に出すのです」
僕も席についた。
「東部の領主に兵を出せと?」
「それだけではありません」
ヴァルダーンは紙の上に最初の一文字を書いた。
「今、ナジャール側へいる者にも送ります」
「敵にも?」
「はい」
「どうして」
「選ばせるためです」
筆が止まらず動く。
「我々は北門を得た。大王堰も取り返した。天空騎士団もいる。ならば今度はこちらから知らせる」
ヴァルダーンは書きながら言った。
「アシャン王は生きている、と」
僕はその横顔を見ていた。
大王堰から戻って以来、ヴァルダーンはほとんど休んでいない。
帰還してすぐ捕虜の処理。
兵糧の確認。
パトナからの報告。
北門の守備。
天空騎士団の配置。
そして今は東部への書状。
「ヴァルダーン」
「はい」
「少し休んだほうがいいんじゃないですか」
筆が止まった。
「なぜです?」
「ずっと働いてるから」
「陛下もでしょう」
「僕は若いです」
「では、年寄りは働くなと?」
「そこまで言ってません」
ヴァルダーンが笑った。
「まだ大丈夫です」
そう言って、また筆を動かした。
けれど。
僕は少し気になった。
いつもならもっと速い。
考えながら書いているのかと思った。
だが違った。
時々、筆が止まる。
ほんの少しだけ。
誰にも分からないくらい短く。
それからまた動く。
「本当に大丈夫ですか」
「大丈夫です」
返事だけは早かった。
夕方になった。
書状の原案がいくつか出来上がった。
神官たちが清書の準備を始める。
僕は一枚を手に取った。
「これ、明日から送るんですか」
「できれば今日から」
「今日?」
「早いほうがよいでしょう」
ヴァルダーンが立ち上がった。
その瞬間だった。
卓に手をついた。
僕は最初、紙を取ろうとしたのだと思った。
けれど違う。
手が動かない。
「ヴァルダーン?」
返事がなかった。
「どうしました?」
「少し……」
声が低かった。
顔を上げる。
いつもと違った。
「座ってください」
「いや」
ヴァルダーンが一歩踏み出した。
身体が揺れた。
椅子が倒れた。
「ヴァルダーン!」
僕は反射的に腕を伸ばした。
間に合った。
完全に床へ倒れる前に、身体を抱える。
重かった。
思っていたより、ずっと重い。
「誰か!」
僕が叫んだ。
外にいた神官たちが飛び込んできた。
その後ろからスリフォンも顔を出した。
「何があった」
「分からない!」
「寝かせろ」
スリフォンがすぐにヴァルダーンの反対側を支えた。
二人で床に横たえる。
「医師を呼んで!」
神官の一人が走った。
僕はヴァルダーンのそばに膝をついた。
「ヴァルダーン」
目は開いている。
呼吸もしている。
けれど顔色が悪かった。
「大げさですな」
小さな声がした。
「大げさじゃないですよ!」
「少し、立ちくらみを」
「倒れたんですよ」
「倒れてはおりません」
「僕とスリフォンが受け止めたからです!」
スリフォンが呆れたように言った。
「こんなときまで言い張るのか」
「武人に言われたくはありませんな」
「俺は倒れていない」
「捕虜でしょう」
「関係あるか」
二人とも、何を言っているんだ。
けれど、そんなやり取りを聞いて、少しだけ安心した。
まだ話せる。
やがて医師がやってきた。
神官たちに手伝わせ、ヴァルダーンを近くの部屋へ運ぶ。
僕もついていこうとした。
「陛下」
ヴァルダーンに呼び止められた。
「何です?」
彼は卓を見た。
東部へ送る書状が、そのまま残っている。
「続きを」
「今はそんなこと」
「今だからです」
「でも」
「大王堰を取ったという知らせは、日が経つほど古くなります」
いつもの声より弱い。
それでも目だけはこちらを見ていた。
「檄を止めてはいけません」
僕は答えられなかった。
医師がヴァルダーンを連れていく。
扉が閉まった。
部屋が急に静かになった。
僕はしばらく、その扉を見ていた。
昨日まで。
いや、ほんの少し前まで。
ヴァルダーンが倒れるなんて考えたこともなかった。
北門でも。
大王堰でも。
いつも前にいた。
何をすればいいのか分からないときは、僕が聞けば答えてくれた。
そのヴァルダーンがいない。
卓の上に、書きかけの文が残っている。
僕は椅子を起こした。
ヴァルダーンが座っていた椅子だった。
そこへ座ろうとして。
一度、ためらった。
それでも座った。
書きかけの紙を手に取る。
最初の言葉があった。
――カルバーブ東部の諸侯、領民、兵らへ。
その先は空白だった。
スリフォンが部屋の入口に立っていた。
「どうする」
僕は紙を見た。
「続けます」
「お前が?」
僕は顔を上げた。
「僕が王なんでしょう」
言ってから、自分でも少し驚いた。
ヴァルダーンなら、たぶん笑ったと思う。
僕は筆を取った。
東部へ出す檄は。
僕が書かなければならなくなった。




