スリフォンという男
「武門の誉れ、と呼ばれている」
サラーフがそう言った男は、捕虜たちの一番端に座っていた。
僕は最初、どの男なのか分からなかった。
もっと目立つ人を想像していたからだ。
大きな鎧を着ているとか。
傷だらけだとか。
いかにも武将らしい顔をしているとか。
けれど、指さされた男は、黙って地面に座っているだけだった。
鎧は泥にまみれていた。
兜もない。
剣も取り上げられている。
ただ、背は高かった。
捕虜になった兵たちの中にいても、頭一つとは言わないまでも、少し目立つ。
そして、周りの兵たちとは妙に雰囲気が違った。
他の捕虜は、こちらを見たり、地面を見たり、隣の者と小声で話したりしている。
その男だけは、堰を流れる水を見ていた。
「本当に領主なんですか」
僕が訊くと、サラーフは頷いた。
「スリフォン。南部でも古い武門の家だ」
「なんで領主本人が先頭にいるんです?」
サラーフは肩をすくめた。
「そういう家だからだろうな」
それでは答えになっていない気がした。
ヴァルダーンが歩き出した。
「会ってみれば分かりましょう」
僕たちは捕虜の列へ向かった。
兵が僕たちに気づくと、捕虜たちを立たせようとした。
ヴァルダーンが止める。
「そのままでよい」
それでも何人かは慌てて立ち上がった。
例の男だけは座ったままだった。
ヴァルダーンがその前で止まった。
「あなたがスリフォン殿ですかな」
男はゆっくり顔を上げた。
思っていたより若く見えた。
ヴァルダーンよりずっと若いのは当然として、父よりも若いかもしれない。
四十にもなっていないように見える。
「そうだ」
声は低かった。
「あなたがヴァルダーン公か」
「ええ」
「もっと大きな男だと思っていた」
ヴァルダーンが笑う。
「年を取ると縮みましてな」
スリフォンは笑わなかった。
けれど、少しだけ眉が動いた。
僕を見た。
「そちらが」
そこで言葉を止める。
僕には分かった。
僕が本当にアシャンなのか確かめている。
「アシャンです」
自分から名乗った。
スリフォンは僕の腕を見た。
星環がある。
それを確かめると、少しだけ頭を下げた。
「なるほど」
それだけだった。
「陛下と呼ばないのですかな」
ヴァルダーンが言う。
「まだ決めていない」
スリフォンは答えた。
近くの兵がむっとした顔をした。
僕は手で止めた。
不思議と腹は立たなかった。
むしろ、正直な人だと思った。
昨日まで僕の敵だったのだ。
捕まったからといって、いきなり忠誠を誓うほうがおかしい。
「どうして大王堰にいたんですか」
僕が訊いた。
「命令されたからだ」
「あなたが?」
「俺が」
「領主なのに?」
今度はスリフォンが僕を見た。
「領主だからだ」
僕にはよく分からなかった。
スリフォンは堰の向こうを見た。
「我が家は、戦になれば前へ出る」
「ずっと?」
「ああ」
「どうして?」
そこで初めて、スリフォンは少し困ったような顔をした。
「そういう家だからだ」
今度は僕がサラーフを見た。
さっきと同じ答えだった。
ヴァルダーンが笑った。
「南部では、それを武門の誉れと呼ぶのでしょう」
スリフォンの顔から、ほんの少しだけ表情が消えた。
「そう呼ばれている」
「お嫌いですかな」
ヴァルダーンの問いに、スリフォンはすぐには答えなかった。
「嫌いかどうかなど考えたことはない」
そう言ったあと、
「考える必要もなかった」
と付け加えた。
その日のうちに、捕虜の整理が始まった。
負傷者。
一般兵。
下級の指揮官。
それぞれ分けていく。
敵だからといって、全員を連れて歩くわけにはいかない。
武器を取り上げ、約束を取って放す者もいた。
捕虜として残す者もいた。
スリフォンについては、ヴァルダーンが、
「連れて帰りましょう」
と言った。
「パトナに?」
僕が訊く。
「いいえ。オルシャニクへ」
スリフォン本人も、それを聞いていた。
「俺を?」
「ええ」
「何のために」
「話を聞くためです」
「ここで聞けばいい」
「今日は疲れました」
ヴァルダーンは平然と言った。
スリフォンが初めて少し呆れた顔をした。
「俺は捕虜だぞ」
「知っております」
「逃げるかもしれない」
「そのときは追います」
「殺すかもしれない」
「誰をですかな」
「お前たちをだ」
ヴァルダーンは僕を見た。
それからサラーフを見る。
最後にスリフォンへ戻る。
「今ですか?」
スリフォンが黙った。
「ここで暴れれば、陛下まで届く前に十人ほどに押さえつけられるでしょう」
「十人で済むか?」
「では十五人」
スリフォンの口元が少し動いた。
笑ったのかもしれない。
結局、彼は僕たちと一緒にオルシャニクへ向かうことになった。
縄はつけられていた。
だが、馬には乗せた。
領主だから特別扱いしたというより、歩かせて遅れるほうが面倒だったらしい。
道中。
僕は何度かスリフォンを見た。
彼はほとんど話さなかった。
ただ、周囲をよく見ていた。
道。
村。
畑。
水路。
兵の数。
行軍の順番。
たぶん、武人としての癖なのだろう。
夕方近く。
僕は馬を寄せた。
「スリフォン殿」
「何だ」
「一つ聞いていいですか」
「捕虜に許可を取るのか」
「じゃあ聞きます」
スリフォンは前を向いたままだった。
「どうして最後まで逃げなかったんですか」
大王堰の戦いでは、西を空けていた。
多くの兵が逃げた。
スリフォンにも、その機会はあったはずだ。
「兵が残っていたからだ」
「自分の兵が?」
「そうだ」
「でも、領主が捕まったら困るんじゃないですか」
「逃げて兵だけ残したほうが困る」
短い答えだった。
僕は少し考えた。
「武門の誉れだから?」
スリフォンがこちらを見た。
「違う」
初めて、はっきり否定した。
「俺があそこに連れていった兵だからだ」
その答えは、僕が思っていたものとは違った。
名誉。
家柄。
武人の誇り。
そういうものを言うのだと思っていた。
「それだけ?」
「ああ」
スリフォンはまた前を向いた。
「連れていった者が、先に逃げるわけにはいかない」
それ以上は言わなかった。
日が落ちる前。
遠くにオルシャニクの建物が見えてきた。
神殿の屋根。
神官学校。
水路。
城壁というほど立派ではない外壁。
南部の武将からすれば、ずいぶん変な場所に見えたと思う。
スリフォンが眉を寄せた。
「ここが神官領か」
「そうです」
「兵が少ないな」
「神官がたくさんいます」
「戦えるのか?」
「たぶん、あまり」
僕が答えると、スリフォンは僕を見た。
「たぶん?」
「僕も全員は知りませんから」
スリフォンはしばらく黙っていた。
そして、遠くの神殿を見た。
「妙なところだ」
「よく言われます」
僕がそう言うと、今度こそスリフォンは少し笑った。
門をくぐる。
神官たちがこちらを見る。
捕虜が来たと騒ぐ者はいなかった。
荷車を押す者。
水路を掃除する者。
書物を抱えて走る者。
夕食の鐘を鳴らす者。
戦場とはまるで違う。
スリフォンも、それを眺めていた。
その日の夜。
ヴァルダーンは言った。
「明日、あの男とゆっくり話しましょう」
「味方になると思いますか」
僕が訊くと、
「分かりません」
と即答された。
「分からないんですか」
「人の腹の中まで分かるほど長生きはしておりません」
「でも、連れてきた」
「ええ」
「どうして?」
ヴァルダーンは少し考えた。
「帰りたくなさそうだったからです」
僕は驚いた。
「分かるんですか」
「何となく」
「人の腹の中は分からないんじゃ」
「全部は分かりません」
そう言って、ヴァルダーンは笑った。
僕はその夜、少しだけスリフォンのことを考えた。
武門の誉れと呼ばれる男。
領主なのに先鋒へ送られた男。
逃げ道があったのに、兵を残して逃げなかった男。
そして。
捕虜になっても、まだ僕を陛下とは呼ばなかった男。
たぶん。
明日、もう少し分かる。
スリフォンという男が、どういう人なのか。




