2日で取り返す
「ダルシャン大王堰を占領されました」
その報せが届いたのは、僕たちがパトナに戻った日のことだった。
北門を守っていたサラーフ。
ナルヴァーンから合流した天空騎士団のジャムカ。
ヴァルダーン。
そして僕。
ようやく四人が同じ卓を囲み、これから先のことを話そうとしていたところだった。
伝令は部屋へ飛び込んでくるなり、床に膝をついた。
「南より敵兵が北上。ダルシャン大王堰を占拠しました」
僕は卓上の地図に目を落とした。
ダルシャン大王堰。
父、ラシャン王が造らせた大きな堰だった。
ガンダーラ川から水を引き、北部から東部へ広がる田畑を潤す。
そこから分かれた水路の一つは、オルシャニクにまで続いている。
ただの堰ではない。
道でもあり、水源でもあり、この一帯を支える要だった。
「敵の数は?」
ヴァルダーンが訊いた。
「正確には分かりません。ですが、南から続々と兵が入っております。堰の正面だけでなく、東西の高地にも兵を配置しております」
サラーフが地図を覗き込んだ。
「早いな」
ジャムカも腕を組む。
「こちらが北門を取ったからだろう。北へ上がる道を押さえておきたいんだ」
僕はヴァルダーンを見た。
「取り返せますか」
ヴァルダーンは返事をせず、地図を眺めた。
しばらくして、その指が堰の南をなぞった。
それから東の丘。
西の丘。
最後に川へ触れる。
「二日いただければ」
僕は思わず聞き返した。
「二日?」
「はい」
まるで二日後の天気でも話すような口調だった。
ジャムカが笑う。
「ずいぶん簡単に言うな」
「難しいことをするつもりはありません」
「では、どうする」
ヴァルダーンは南側を指した。
「まず正面から攻めます」
僕は地図を見た。
「そこが一番固いんじゃないですか」
「固いでしょうな」
「じゃあ、どうして」
「固いところを攻めるからです」
ますます分からない。
そんな僕を見て、サラーフが少し笑った。
ヴァルダーンは東西の高地を指した。
「敵はここを押さえております。正しい配置です。高所からこちらを見下ろし、弓を射ればよい」
「だったら余計に厄介だ」
ジャムカが言った。
「だから、下ろします」
ヴァルダーンは答えた。
サラーフが先に気づいた。
「南を攻め続けるのか」
「はい」
「正面が危ないと思わせて、高地の兵を下へ回させる」
「全部は来ません。しかし少しずつ減るでしょう」
ヴァルダーンは僕を見た。
「陛下。戦というものは、敵を倒すだけではありません」
「敵を動かす?」
「その通りです」
指が西へ移った。
「そして二日目、西を空けます」
今度は僕にも分からなかった。
「空けるんですか?」
「はい」
「逃げられますよ」
「逃がすのです」
部屋が静かになった。
ヴァルダーンは何でもないことのように続ける。
「我々の目的は敵兵を皆殺しにすることではありません。堰を取り戻すことです」
ジャムカがうなずいた。
「退路を残しておけば、崩れたときに逃げる」
「四方を塞げば、死ぬまで戦います」
ヴァルダーンは地図から手を離した。
「逃げたい者には、逃げてもらえばよい」
翌朝。
僕たちはダルシャン大王堰の南にいた。
遠くから見ても、そこが急ごしらえの陣地になっているのが分かった。
堰の上に兵。
東西の丘にも兵。
南側には盾を並べた歩兵が集まっている。
「本当に正面から行くんですね」
僕が言うと、ヴァルダーンは馬上で頷いた。
「ええ」
号令が下った。
こちらの兵が進む。
盾を並べる。
敵の矢が飛んでくる。
矢が盾に突き刺さった。
前列が止まる。
さらに進む。
今度は石が落ちてくる。
「退け!」
合図とともに兵が下がった。
僕は目を疑った。
「もう下がるんですか」
「はい」
「まだほとんど戦ってません」
「戦わせる必要がありませんので」
しばらくして、また進む。
そして敵が反応すると下がる。
また進む。
また下がる。
それを何度も繰り返した。
敵からすれば、鬱陶しかったに違いない。
こちらが本気で来るのか。
囮なのか。
次はどこまで来るのか。
分からない。
昼になるころには、敵の南側の兵が明らかに増えていた。
僕は東の丘を見た。
「旗が減ってる」
「ええ」
ヴァルダーンが答える。
西も同じだった。
朝には何本も見えた旗が少なくなっている。
「人は危ない場所に兵を送ります」
ヴァルダーンは水を一口飲んだ。
「それだけです」
夕方まで同じことを続けた。
こちらには多少の負傷者が出たが、無理に攻め上がらせていないため、大きな損害はなかった。
日が落ちる。
ようやく戦場が静かになった。
だが、僕たちの戦いはそこで終わりではなかった。
サラーフが立ち上がった。
「では行ってくる」
彼の兵は、北門で長く戦ってきた者たちだった。
狭いところを進む。
夜に動く。
城壁や岩場を登る。
そういうことには慣れている。
「東西両方ですか?」
僕が訊いた。
「両方だ」
「人数は足ります?」
「昼間にずいぶん下ろしてくれたからな」
サラーフは笑った。
その夜。
僕は眠らずに待った。
遠くにある丘は、暗闇の中では輪郭しか見えない。
やがて。
西の丘で、小さな火が上がった。
一つ。
二つ。
合図だった。
「取った」
ジャムカが呟く。
少し遅れて、東でも火が上がった。
サラーフの兵が、両方の高地を奪ったのだ。
ヴァルダーンはそれを確認すると、
「では休みましょう」
と言った。
僕は驚いた。
「寝るんですか?」
「明日は早いですよ」
「眠れるんですか?」
「寝なければ身体がもちません」
そう言って本当に横になってしまった。
僕には、とても真似できなかった。
父の名を冠した堰が、闇の向こうにある。
あれを奪われたことが悔しかった。
明日、本当に取り返せるのか。
そんなことばかり考えていた。
二日目。
夜明け前から兵は動いた。
奪った東西の丘には弓兵が上がった。
空が白み始める。
敵兵たちはそこで初めて、自分たちが上から狙われていることに気づいた。
矢が降った。
堰の上が騒がしくなる。
同時に南から昨日と同じように兵が進む。
だが昨日とは違った。
敵は高地へ兵を戻せない。
戻そうとすれば、こちらに射られる。
正面にはこちらの歩兵。
左右には弓兵。
そして。
太陽が顔を出したころだった。
東から音がした。
最初は地面の奥で何かが鳴っているようだった。
すぐに、それが馬蹄の音だと分かった。
「来た」
僕は思わず声を上げた。
ジャムカの天空騎士団だった。
騎兵が東側から一気に姿を現した。
敵の兵がそちらを見る。
陣形が乱れた。
南から押される。
左右から矢が降る。
東から騎兵が来る。
西だけが空いていた。
最初の一人が西へ走った。
誰かが止めようとする。
だが、その後ろから二人、三人と続いた。
十人。
二十人。
やがて流れになった。
「追撃を」
兵がヴァルダーンに訊いた。
「不要です」
「しかし」
「逃げ道を塞ぐな」
ヴァルダーンは強く命じた。
「逃げたい者は逃がせ!」
その声が伝わっていく。
僕は丘から見ていた。
戦いが終わる瞬間というのは、もっと大きな音がするものだと思っていた。
違った。
一度崩れ始めると、あっけなかった。
西へ逃げる者。
武器を捨てる者。
その場に膝をつく者。
午前のうちに、堰の上の敵旗が降りた。
代わって僕たちの旗が上がった。
ダルシャン大王堰。
二日前まで僕たちのものだった場所。
昨日は敵のものだった場所。
そして今、また僕たちのものになった。
僕は堰の上まで歩いた。
下では大量の水が流れていた。
人が戦っていた間も。
誰かが死んだ間も。
父の堰を奪われていた間も。
ずっと同じように流れていたのだろう。
「本当に二日だった」
僕が言った。
後ろにいたヴァルダーンが答えた。
「二日いただきましたからな」
「最初から全部分かってたんですか」
「まさか」
「でも」
「敵がどう動くかは、やってみなければ分かりません」
ヴァルダーンは堰の下を見た。
「ですから、動かなければ別の手を考えるだけです」
僕は少し呆れた。
二日で取り返すと言ったくせに。
そこまで絶対の自信があったわけではなかったらしい。
そこへ、一人の兵が走ってきた。
「陛下!」
息を切らしている。
「どうしました?」
「捕虜のことで、ご報告がございます」
捕虜なら大勢いた。
逃げ遅れた兵。
負傷して動けなかった者。
降伏した者。
だが、兵の様子が妙だった。
「何かあったのですか」
兵は一度息を整えた。
「領主が一人おります」
ヴァルダーンが振り返った。
「領主本人が?」
「はい」
「名は」
兵が答えた。
「スリフォンと申しております」
僕はその名前を知らなかった。
けれど、サラーフの顔が変わった。
「スリフォン?」
「知っているんですか」
僕が訊く。
サラーフは堰の下に集められた捕虜たちを見た。
「ああ」
そして、少し意外そうに言った。
「南部では有名な男だ」
「どういう人なんです?」
サラーフは短く答えた。
「武門の誉れ、と呼ばれている」
僕はもう一度、捕虜たちの方を見た。
その中に。
次に僕たちとともにオルシャニクへ帰ることになる男がいた。




