カリカへ
ヴァルダーンが倒れた翌朝。
僕は、まだ日が昇りきらないうちにダルガンを呼んだ。
「ザフラを連れてきてほしい」
ダルガンは一度だけ僕の顔を見た。
「ヴァルダーン公か」
「うん」
昨日のうちに神官領の医師には診てもらっている。
命に関わる状態ではない。
今すぐどうこうなるわけではない。
そう言われてはいた。
けれど、それで安心できるわけではなかった。
熱がある。
身体もひどく弱っている。
何より、本人がずっと無理をしていた。
北門。
パトナ。
大王堰。
それから東部への檄。
たぶん僕たちが思っていたより、ずっと前から疲れていたのだ。
「ザフラなら、僕よりよく知ってることがあるかもしれない」
「分かった」
ダルガンはそれ以上聞かなかった。
「馬を替えながら行く。見つけたら、そのまま連れてくる」
「お願いします」
「陛下」
呼び方が少しだけ固くなった。
「お前は?」
「僕はカリカへ行く」
ダルガンは黙った。
止められるかと思った。
でも、そうはしなかった。
「そうか」
それだけ言って、僕の肩を一度叩いた。
「じゃあ、こっちは任せろ」
ダルガンが出発すると、次はミーラを呼んだ。
「神官領にいる医者を、できるだけ集めてください」
「すでに二人おります」
「もっと」
「どれくらいです?」
僕は少し考えた。
「来てくれる人は全部」
ミーラが笑った。
「全部ですか」
「だって、誰が一番詳しいか僕には分からないから」
「それはそうですね」
神官領には、神官だけがいるわけではない。
薬草に詳しい者。
傷を見る者。
熱病を診る者。
町の人間をずっと診てきた医師もいる。
周辺の村まで含めれば、さらにいるという。
「では呼びます」
「お願いします」
「陛下は?」
また同じことを訊かれた。
「カリカへ行きます」
ミーラの顔から笑みが少し消えた。
「ヴァルダーン公を置いて?」
その言葉は、僕自身が一番気にしていたことだった。
「うん」
「大丈夫ですか」
「分からない」
僕は正直に答えた。
「だから医者を集めます」
ヴァルダーンの部屋へ行くと、本人は起きていた。
寝台の上で。
しかも、書類を読んでいた。
「何してるんですか」
「読んでおります」
「見れば分かります」
僕は紙を取り上げた。
「休んでください」
「寝たまま読んでおりますが」
「そういう問題じゃないです」
ヴァルダーンが不満そうな顔をする。
倒れた老人にこんな顔をされても困る。
「ダルガンにザフラを呼びに行ってもらいました」
「それは大げさですな」
「ミーラにも医者を集めてもらっています」
「ますます大げさだ」
「倒れた人が言わないでください」
僕が言うと、ヴァルダーンは諦めたように目を閉じた。
少しだけ静かになる。
僕は寝台のそばに座った。
「僕、カリカへ行きます」
目が開いた。
「そうですか」
「止めないんですか」
「なぜ止めるのです?」
「だって」
あなたがいない。
そう言いかけて、やめた。
ヴァルダーンには分かったらしい。
「陛下」
「はい」
「私がおらねば軍が動かないのであれば、ここまで来た意味がありません」
「でも」
「私はここにおります」
ヴァルダーンは天井を見た。
「死んでもおりません」
「縁起でもないこと言わないでください」
「では、なおさら心配はいらない」
少し笑った。
「行ってきなさい」
僕はしばらく黙っていた。
それから頷いた。
「行ってきます」
オルシャニクから、そのまま東へ進む。
地図だけ見れば、それが一番早かった。
けれど。
僕たちはその道を使わなかった。
東には王都がある。
まだナジャールの勢力が強く残る場所だった。
カリカへ行くためだけに、王都の近くを大軍で通る必要はない。
敵にこちらの数を見せることにもなる。
余計な戦いを招くかもしれない。
だから一度、西へ戻る。
パトナへ。
そこから北側を回り、東へ進む。
ずいぶんな遠回りだった。
「王が自分の国で遠回りとはな」
スリフォンが地図を見ながら言った。
僕は答えた。
「まだ全部、僕の国じゃないから」
スリフォンが僕を見る。
「王なんだろう?」
「王です」
「なら全部お前の国だ」
「そういう意味じゃなくて」
僕は地図の王都を指した。
「ここを通って、戦わなくていい相手とまで戦いたくないんです」
スリフォンは少し考えた。
「なるほど」
その隣でサラーフが笑った。
「ヴァルダーン公なら、同じことを言いそうだ」
「それ、褒めてます?」
「さあな」
僕たちはオルシャニクを出た。
軍全部ではない。
神官領に残す兵もいる。
ヴァルダーンを守る者も必要だ。
それでも、僕が初めて見るほどの人数になっていた。
神官領の兵。
ヴァルダーン領から来た兵。
パトナから加わった者。
東部解放の檄を見て、自分からやって来た兵もいる。
まだ一つの軍とは呼べない。
歩き方も違う。
装備も違う。
旗も違う。
誰の命令なら聞くのかさえ、よく分からない。
僕は行軍の列を見ながら、不安になった。
こんな人数を、本当に僕が率いるのか。
今まではいつも、ヴァルダーンがいた。
「陛下」
サラーフに呼ばれた。
「何です?」
「また難しい顔をしている」
「してました?」
「している」
横からスリフォンも言った。
「兵に見せる顔ではないな」
「じゃあ、どんな顔をすればいいんです?」
「知らん」
「知らないんですか」
「俺は王ではない」
最近、そればかりだ。
パトナに着くと、長くは留まらなかった。
兵糧。
水。
馬。
矢。
必要なものだけを整える。
北門がこちらの手にあるおかげで、以前のような緊張はなかった。
それでも、これから向かう東にはカリカがある。
ここから先は、また敵地に近くなる。
出発前。
僕はサラーフとスリフォンを呼んだ。
地図を地面に広げる。
「二人に、先にカリカへ行ってほしい」
サラーフが地図を見る。
「偵察か」
「はい」
スリフォンが訊く。
「見るだけでいいのか」
僕は首を振った。
「できれば、一度戦ってきてください」
二人とも僕を見る。
言ってから、少し変な命令だったかと思った。
「ええと……」
僕は言葉を探した。
「カリカの兵が、どう動くのか知りたいんです」
サラーフはもう分かったらしい。
「威力偵察だな」
「たぶん、それです」
「たぶん?」
「言葉は知らなかったので」
スリフォンが少し笑った。
僕は地図を指した。
「どこから兵が出てくるか。どれくらいいるか。こっちが退いたら追ってくるのか。城の外で戦いたがるのか」
「城壁の上の弓兵も見てくる」
サラーフが言った。
「門の開き方もだ」
スリフォンが付け加える。
「出撃に時間がかかるなら、それも使える」
僕は頷いた。
「お願いします」
サラーフが僕を見る。
「兵は?」
「必要なだけ」
「では、多すぎないほうがいい」
スリフォンも同意した。
「本気で攻めると思わせる程度でいい。多すぎれば、向こうも城から出てこない」
二人で勝手に話が進んでいく。
僕はそれを聞きながら思った。
この二人を組ませたのは、たぶん間違っていない。
サラーフは北門を守り続けた。
城壁の使い方を知っている。
スリフォンは南部の兵を知っている。
僕よりずっと、カリカの相手がどう動くか分かるはずだ。
「では行ってくる」
サラーフが言った。
スリフォンも立ち上がる。
「陛下」
僕は少し驚いた。
スリフォンが自然にそう呼んだからだ。
本人は気づいていないのかもしれない。
「はい」
「俺たちが戻るまで、城には近づくな」
「分かってます」
「本当に?」
「分かってますよ」
「王はときどき無茶をするからな」
「僕、そんなにしてません」
サラーフが笑った。
二人は先に出た。
僕たち本隊は、そのあとを追った。
ただし、カリカへ一直線には行かない。
カリカの少し北西。
街道から少し外れた町に入った。
大きくはない。
けれど、水がある。
市場もある。
そして町の外れに寺があった。
神殿とは違う。
土地の人々が昔から祈りに来る、小さな寺だった。
僕が神官だと知ると、寺の主は驚いた。
さらに僕が王だと知って、もっと驚いた。
「兵を置かせてもらえませんか」
僕が頼むと、
「寺が戦場にならないのであれば」
と言われた。
「しません」
たぶん。
とは付けなかった。
境内だけでは軍全部は入らない。
近くの空き地。
林。
町外れの畑を避けた場所。
兵をいくつかに分けて休ませた。
寺の本堂の一室を借りて、そこを僕たちの本営にした。
地図を広げる。
カリカまでは、そう遠くない。
けれど、ここからは城そのものは見えなかった。
山と林に隠れている。
だから。
待つしかない。
夕方になった。
まだ二人は戻らない。
「遅いですね」
僕が言う。
寺の外では、兵たちが火を起こし始めていた。
鍋の音がする。
馬の鳴き声も聞こえる。
戦へ来たはずなのに、ここだけ見れば旅の途中の宿営みたいだった。
僕は寺の石段に座った。
東の空を見る。
カリカがある方角だ。
少しだけ、煙のようなものが見えた。
雲かもしれない。
土煙かもしれない。
戦いの煙なのかもしれない。
僕には分からなかった。
「サラーフたち、今どこにいるんだろう」
誰に言うでもなく呟いた。
返事はなかった。
僕は膝の上で手を組んだ。
待つ。
それも王の仕事なのだろうか。
ヴァルダーンなら、たぶんそう言う。
僕は東を見たまま。
サラーフとスリフォンが持ち帰る知らせを待った。




