パトナ市北門へ
オルシャニクを出る朝、ヴァルダーンは兵を一万二千すべて北へ連れていかなかった。
もちろん神官領の守備は残す。
倉を守る兵も、水路を守る兵も必要だった。
それとは別に、北へ向かう本隊から十人だけを外した。
「大王堰へ行け」
命じられた兵たちは、一瞬だけ顔を見合わせた。
「十人で、ですか」
「十人でいい」
ヴァルダーンは言った。
アシャンも横で聞いていた。
「本当に十人?」
「はい」
「取られない?」
「取られるようなら、百人置いても同じです」
「どういう意味?」
ヴァルダーンは馬上から北を見た。
「今はまだ、敵も大王堰を戦場だと思っていません」
王の復位宣言は出た。
兵も集まり始めた。
だがナジャール側が各地の兵を動かし、戦線を引き直すには時間がいる。
「戦争が始まってから堰を取ろうとすれば、百人でも足りなくなるかもしれません」
「今なら十人?」
「今なら十人です」
役目も単純だった。
大王堰へ行く。
水門を勝手に動かさせない。
通る者を記録する。
敵兵が近づけば知らせる。
そして何より、
ここはすでにアシャン王側が管理していると示す。
十人は本隊から離れた。
それを見送ってから、ヴァルダーンは手を上げた。
「進軍」
軍が動いた。
アシャンにとって、一万を超える人間が同じ方向へ動く光景は、それだけで異様だった。
先頭はとうに見えない。
後ろも見えない。
歩兵。
騎兵。
荷駄。
荷車。
弓や槍だけでなく、鍬や斧まで積まれている。
ダルガンが馬を並べた。
「何見てる」
「軍」
「見ればわかる」
「こんなにいたんだなって」
「お前が集めたんだろ」
「そうなんだけど」
アシャンには、まだ実感がなかった。
一人ずつなら、人だった。
食事をして、笑って、怪我をして、馬の世話をする。
それが一万を超えて動くと、まるで別の生き物に見えた。
北門が見えたのは、その日の午後だった。
平地の先。
パトナ市へ入る街道を塞ぐように、城壁と門楼が立っている。
巨大というほどではない。
だが街道を通るなら、避けては通れない。
北門の上にも人影があった。
「いるね」
アシャンが言った。
「おります」
ヴァルダーンは当然という顔をした。
「サラーフは?」
「中でしょう」
「話せないかな」
「いずれ」
「いずれ?」
「まず、向こうにも考える時間を差し上げましょう」
その日のうちに総攻撃はなかった。
代わりに、翌朝から小さな戦いが始まった。
アシャン軍の歩兵が前へ出る。
北門側からも兵が出る。
槍がぶつかるほど近づくこともあれば、弓だけ射って終わることもあった。
騎兵が出れば、こちらの騎兵も動いた。
ただし深追いしない。
敵が城門近くまで退けば、こちらも戻る。
「変な戦いだね」
アシャンが言った。
「何がです?」
ヴァルダーンは城壁を見ていた。
「勝とうとしてないみたい」
「今日は勝つ日ではありません」
「じゃあ何してるの?」
「見ております」
「何を?」
「全部です」
どの門から何人出るか。
弓はどこまで届くか。
騎兵を何騎出せるか。
城門を開けてから閉じるまで、どれほどかかるか。
負傷兵をどこへ下げるか。
城壁のどこに人が集まりやすいか。
敵が何を怖がっているのか。
「戦う前に見るの?」
「戦って見ているのです」
アシャンは少し考えた。
「面倒だね、戦争って」
「ええ」
ヴァルダーンは即答した。
「面倒でなければ、もっと多くの人間が死にます」
一方、本陣の後ろでは別の騒ぎが起きていた。
木材が運ばれてくる。
太い縄。
鉄具。
車輪。
切り出された梁。
職人たちが地面へ線を引き、何やら寸法を測っている。
ファルハドはそれを遠巻きに見ていた。
「何作ってるんだ?」
隣の職人に聞く。
「見ればわかるだろ」
「わからないから聞いてる」
「攻城器だ」
ファルハドは少し黙った。
「俺、ああいうの使ったことないんだけど」
「聞いてない」
年嵩の工匠が振り向いた。
ファルハドを上から下まで見る。
「お前がファルハドか」
「そうだけど」
「解体屋だそうだな」
「まあ」
「じゃあ来い」
「なんで?」
「手伝え」
ファルハドは露骨に嫌そうな顔をした。
「俺は城攻めの職人じゃないぞ」
「知ってる」
「投石器も作ったことない」
「だから覚えろ」
工匠は梁を一本指した。
「お前は物を壊して飯を食ってきたんだろ」
「建物をな」
「同じだ」
「違うだろ」
「どこが壊れれば全体が死ぬか知っている。それだけで十分だ」
ファルハドは返事をしなかった。
「ぼさっと立ってないで、そっち持て」
「俺、王の付き人みたいなものなんだけど」
「今は人手だ」
そのまま梁を持たされた。
遠くから見ていたアシャンが、ナディラに聞いた。
「ファルハド、連れてかれた」
「働かされてるわね」
「助けたほうがいい?」
「本人が嫌なら逃げてくるでしょ」
逃げてこなかった。
最初の半日は文句ばかり言っていた。
「この木、重すぎるだろ」
「重くないと壊れん」
「縄張りすぎじゃないか?」
「張らないと飛ばない」
「車輪、こんな太くする必要ある?」
「地面を見ろ」
何度も怒鳴られた。
そのうち、ファルハドの質問が変わった。
「この梁、なんでここで継ぐ?」
「力を逃がす」
「じゃあここ、壊れやすいだろ」
「だから鉄を当てる」
「重り増やしたら軸が先に死なない?」
工匠が初めてファルハドを見る。
「死ぬ」
「ならここ厚くしたほうがいい」
「やってみろ」
翌日には、ファルハド自身が木材を選んでいた。
三日目。
最初の攻城器が形になった。
投石器だった。
まだ粗い。
現地で作ったため、左右も完全には揃っていない。
だが石を飛ばすには十分だった。
アシャンが近くまで来る。
「これで門を壊すの?」
工匠が答えた。
「そのつもりです」
「一発で?」
「無理です」
「何発?」
「当ててみないと」
ファルハドが投石器の横から口を挟んだ。
「まず当たるかどうかだよ」
「作ったのに?」
「作れば当たると思うな」
「ファルハド、言い方が職人みたいになってる」
「うるさい」
ヴァルダーンは試射を許可した。
的は用意しなかった。
「北門を狙え」
工匠が一瞬だけ確認する。
「よろしいので?」
「壊れれば、そのぶん仕事が減る」
最初の石が飛んだ。
音だけはすごかった。
だが石は北門のかなり手前へ落ちた。
土煙が上がる。
城壁の上から笑い声が聞こえたような気がした。
ファルハドが腕を組む。
「短い」
「見ればわかる」
工匠が重りを調整する。
縄の位置を変える。
二射目。
今度は飛んだ。
北門を越えそうになり、城壁脇の地面へ落ちた。
「右だな」
ファルハドが言った。
「少しな」
工匠が答える。
三射目。
腕が跳ね上がる。
石が空を切った。
北門の門楼へ、
――ドン。
低い音が響いた。
石片が落ちる。
城壁の上にいた兵たちが、一斉に身を引いた。
こちら側では歓声が上がった。
「当たった!」
「もう一発!」
ファルハドだけは喜ばなかった。
北門を見ている。
「どうしたの?」
アシャンが聞いた。
「思ったより持つな」
「当たったよ?」
「当たっただけだ」
ファルハドは目を細めた。
「上の石は落ちた。でも門自体はほとんど動いてない」
門楼を見る。
「正面からずっと叩くより、あっちの継ぎ目を狙ったほうが早いかもな」
工匠が聞いていた。
「どこだ」
ファルハドが指差す。
「右。あそこだけ石の積み方が違う」
「増築か?」
「たぶん」
工匠が少し笑った。
「お前、本当に解体屋だな」
「だから最初からそう言ってる」
「明日から測量も来い」
「なんで仕事増えてるんだよ」
「覚えろ」
四射目の準備が始まった。
北門の上。
サラーフは、黙ってそれを見ていた。
敵は攻めてこない。
小競り合いは続いている。
だが、決して深く踏み込んでこない。
その後ろでは、毎日何かが出来上がっている。
昨日までなかった攻城器が、今日は一台。
明日には二台になるかもしれない。
大王堰も、すでに押さえられたという。
しかもそこに置かれた兵は、わずか十人。
サラーフはその報告を聞いたとき、笑わなかった。
十人しか置かなかったのではない。
十人で十分だと判断されたのだ。
「将軍」
副官が声をかけた。
「いつまで、あれを撃たせますか」
サラーフは答えなかった。
門の外を見る。
アシャン王の軍。
まだ数では、自分たちにも戦う余地がある。
北門とパトナを合わせれば、五千を超える兵がいる。
門を閉じて戦えば、一万二千が相手でも簡単には落ちない。
それはわかっている。
だが向こうも、それをわかっている。
だから急いでいない。
サラーフの視線の先で、投石器が再び動き始めた。
木が軋む。
縄が張る。
巨大な腕がゆっくりと下がっていく。
サラーフは目を細めた。
「急いでいないのは」
小さく呟く。
「……あちらか」
四発目の石が飛んだ。




