王弟から王へ
アシャンがオルシャニクへ帰ってから、数日が過ぎた。
その数日のあいだに、神官領の景色はずいぶん変わった。
もともとオルシャニクには兵がいた。
ミーラがアシャン不在のあいだも神官領を守り続けていたためである。
寺院だけではない。
水路。
倉。
街道。
橋。
神官領の各所を守るための兵が、それぞれ配置されていた。
そこへ、ヴァルダーンがカンチャーンから連れてきた軍勢が加わった。
兵だけではない。
馬も、武具も、兵糧も、医薬品も、鍛冶道具も、役人も運び込まれている。
カンチャーンという城を一つ、持てるところだけ切り取ってオルシャニクへ運んできたようなものだった。
さらに、アシャン帰還の噂を聞きつけた者たちが少しずつ現れ始めていた。
まだ正式な招集令は出していない。
それでも、
「アシャン殿下が生きているらしい」
という話だけで、旧王軍の兵や小さな領主の家臣が、自分の目で確かめるためにやって来た。
中央寺の外には、日に日に天幕が増えていった。
ある日の朝。
アシャンは寺の高い場所から、それを眺めていた。
「すごいね」
横にいたミーラが聞く。
「何がです?」
「人」
「人ですね」
「昨日より増えてない?」
「増えています」
「何人くらい?」
ミーラは少し考えた。
「全部を数えれば、かなり」
「またそれ」
「兵だけを数えても意味がありません。寺と水路を守る者は残さなければならないでしょう」
そこへヴァルダーンが上がってきた。
「外へ連れ出せる兵ならば、およそ一万二千です」
アシャンが振り返った。
「そんなに?」
「ヴァルダーン軍と神官領軍が基幹です。そこへ帰参した者たちを加えれば、その程度にはなります」
「一万二千……」
アシャンはもう一度、野営地を見た。
上から見ても、どこまでが一万二千なのかはよくわからない。
ただ、カンチャーンを出たときとは明らかに違っていた。
あのときは、ヴァルダーンの軍勢の中にアシャンがいた。
今は違う。
ヴァルダーン軍と神官領軍が、同じ場所に集まっている。
そして皆が、何かが始まるのを待っている。
「これで戦える?」
アシャンが聞いた。
「戦えます」
ヴァルダーンは答えた。
「勝てる?」
「それは戦う場所と相手によります」
「そこは『勝てます』って言ってよ」
「嘘になりますので」
アシャンは嫌そうな顔をした。
ミーラが少し笑った。
だが、ヴァルダーンはすぐに真顔へ戻った。
「それより、先にしていただくことがあります」
「何?」
「王になっていただきます」
アシャンは瞬きをした。
「僕、王弟だけど」
「それでは困るのです」
「なんで?」
「一万二千の兵を、誰の名で動かしますか」
アシャンは答えなかった。
ヴァルダーンが続ける。
「私の名で動かせば、これはヴァルダーン軍です」
ミーラを見る。
「ミーラ殿の名で動かせば、神官領軍です」
そしてアシャンを見る。
「両方を一つにするには、陛下が王として立たねばなりません」
「でも、王都はナジャールが持ってる」
「はい」
「王冠もない」
「はい」
「国璽も?」
「王都です」
アシャンは両手を広げた。
「何にもないじゃん」
ヴァルダーンは平然としていた。
「陛下がおられます」
「それだけ?」
「それが一番重要です」
アシャンはミーラを見る。
ミーラもうなずいた。
「あなたが生きて帰っただけでは、まだ国の中では『ラシャン王の弟が生きていた』にすぎません」
「うん」
「今日、それを終わらせます」
「終わらせる?」
「王弟であることをです」
その言葉だけは、アシャンの胸に残った。
午後になると、中央寺の一室で文書が作られ始めた。
神官たちが古い記録を開く。
ヴァルダーンの文官も加わる。
アシャンはその真ん中に座らされていた。
「長い」
最初に出た感想がそれだった。
ミーラが眉をひそめる。
「まだ最初の段落です」
「これ全部読むの?」
「読みます」
「もっと短くできない?」
「王の復位宣言です」
「僕が話すんだから、僕がわかる言葉でよくない?」
神官たちが顔を見合わせた。
ヴァルダーンが少し考える。
「それも一理あります」
「でしょう?」
「では内容だけは変えずに」
文面は少しずつ短くなった。
告げるべきことは三つだった。
アシャンは生きている。
兄ラシャン王は弑された。
その弑逆によって成立したナジャールの政府を、正統な政権とは認めない。
そしてアシャンは、王統を継ぎ、王として国を取り戻す。
最後には、全国の騎士、領主、神官、都市、旧王軍に対して、オルシャニクへの参集を命じる。
文書の末尾を見ながら、アシャンが言った。
「復位って変じゃない?」
「何がでしょう」
「僕、王だったことないよ」
老神官が答えた。
「王統の復帰という意味でございます」
「後から説明しないとわからない言葉って、いい言葉なの?」
老神官が黙った。
ナディラが後ろで笑った。
「そこはアシャンの勝ちね」
夕刻。
大広間に人が集まった。
神官。
ヴァルダーン家の重臣。
神官領の指揮官。
各地へ文書を運ぶ使者たち。
寺の外にも、多くの兵や民が集まっている。
アシャンは隣の部屋で待っていた。
手には、何度も直した宣言文。
だが読もうとしても、頭に入らなかった。
顔を上げる。
そこにはダルガンとナディラとファルハドがいた。
この三人を見ると、急にここが王宮でも寺でもないような気がした。
長い旅の途中。
どこかの宿で、明日の道を相談しているときのようだった。
「ねえ」
三人が振り向いた。
アシャンは少し困ったように笑った。
「僕たち、すごいところまで来ちゃったね」
ナディラも笑った。
「来ちゃったわね」
「最初はカルバーブまで行くだけだったのに」
「俺は途中参加だけどな」
ファルハドが言った。
「そうだったね」
アシャンは笑った。
その顔だけは、王でも王弟でもなかった。
旅の途中で三人と一緒に飯を食べ、馬に揺られ、道に迷っていた少年の顔だった。
「今から王になるんだって」
ダルガンが言った。
「違うだろ」
「何が?」
「今から王になるんじゃない」
アシャンを見る。
「自分が王だって言いに行くんだ」
アシャンはしばらく黙った。
「……そっちのほうが怖い」
「だろうな」
扉の向こうから声がした。
「お時間です」
アシャンは立った。
扉へ向かう。
手をかけてから、もう一度だけ三人を見る。
「行ってくる」
ダルガンが扉までの距離を見る。
「十歩もないぞ」
「知ってるよ」
「俺たちもすぐ後ろにいる」
「それでも」
アシャンは笑った。
「行ってくる」
扉を開けた。
広間へ出る。
人々が立ち上がった。
ヴァルダーンも、ミーラも、前には出ない。
アシャンが一人で中央まで歩く。
机の上へ宣言文を置いた。
最初だけは、紙を見なかった。
「僕は、アシャンです」
広間が静まる。
「ラシャン王の弟、アシャンです」
一度、息を吸った。
「僕は生きています」
外からざわめきが聞こえた。
「兄ラシャン王は、殺されました」
アシャンの声がわずかに揺れた。
それでも止めなかった。
「僕は、兄を殺した者がそのまま国を治めることを認めません」
今度ははっきり言った。
「ラシャン王弑逆の罪を問い、奪われた王国を取り戻します」
そこで初めて紙を見る。
「今日から、僕はカルバーブ王として命じます」
王弟アシャン。
その呼び名は、そこで終わった。
宣言が読み上げられる。
旧王軍には帰参を。
諸侯には忠誠を。
騎士には参集を。
神官領には協力を。
都市には正統な王権への復帰を求めた。
最後に、各地へ送る文書へ印を押すことになった。
そこで問題が起きた。
「国璽は?」
アシャンが聞く。
「王都です」
ヴァルダーンが答えた。
「じゃあ押せないよ」
老神官が言う。
「古式であれば、アルダーン王の招集印を――」
「それもない」
アシャンは即答した。
そして自分の腕を見る。
星環。
自分が持っている、アルダーンにつながるものはそれだけだった。
「僕は、これしか持ってないから」
アシャンは星環を外した。
印章ではない。
腕輪である。
しばらく手の上で転がしてから、アシャンはそれを拳へ巻きつけた。
輪が拳を取り巻き、古い星の文様が手の甲に重なった。
「これを押したら駄目?」
神官たちが戸惑う。
ヴァルダーンだけが黙っていた。
アシャンは彼を見る。
「ヴァルダーン?」
「そのままで」
「え?」
「そのまま、お押しください」
印泥が運ばれた。
アシャンは星環を巻いた拳を押しつける。
そして招集文書へ、拳ごと強く押した。
紙が沈む。
拳を離す。
輪の中にいくつもの星が重なった、不格好な文様が残った。
アシャンが首を傾げた。
「変じゃない?」
ヴァルダーンは答えなかった。
その文様を見ていた。
やがて静かに膝をついた。
「それでよろしいのです」
「でも、僕が今考えたんだよ」
「いいえ」
ヴァルダーンは顔を上げた。
「それはアルダーンの印です」
周囲の神官たちが息を呑む。
「アルダーン王は、初めから宮殿も国璽も持っていたわけではない」
ヴァルダーンは紙の上の星の輪を見る。
「星環を持つ者が、その星環をもって人を招く」
一礼する。
「これ以上、アルダーン王の招集にふさわしい印はありますまい」
アシャンはしばらく自分の拳を見ていた。
「……手が真っ赤なんだけど」
広間のどこかで小さな笑いが起きた。
それから夜まで、文書が作られた。
アシャンが名を書く。
星環を拳へ巻く。
印泥につける。
押す。
また外す。
また巻く。
何度も繰り返した。
北へ。
南へ。
東へ。
西へ。
その夜、オルシャニクの各門から使者が走った。
アシャン王、生存。
ラシャン王弑逆を断罪。
王統復帰。
オルシャニクへの参集。
数日後。
神官領の外に張られる天幕は、さらに増えていた。
帰参する旧王軍。
少数の騎士。
小領主の兵。
自分一人だけで馬に乗って来た者さえいる。
だが彼らが軍の中心ではなかった。
中心にいるのは、カンチャーンから丸ごと移ってきたヴァルダーン軍。
そして、ミーラがアシャン不在のあいだも守り続けてきた神官領軍。
その二つが合わさり、そこへ各地からの兵が少しずつ付け加わっている。
ヴァルダーンの報告では、オルシャニクそのものの守備や水路、倉、街道を守る兵を残しても、
外へ連れ出せる兵は、およそ一万二千。
まだ王国全土を圧倒する軍ではない。
だが、逃げるだけの集団でもない。
一つの軍だった。
アシャンは高台から、その軍勢を見下ろしていた。
昨日までの自分は、死んだ王の弟だった。
今日からは違う。
自分の名で命令を出した。
自分の印で人を呼んだ。
そして、本当に人が来た。
「変な感じだね」
隣のミーラが聞く。
「何がです?」
「兄上の弟じゃなくなったみたい」
「弟であることは変わりません」
「そうじゃなくて」
アシャンはしばらく考えた。
「それだけじゃなくなった」
ミーラは何も言わなかった。
下では、ヴァルダーン軍と神官領軍の旗が風を受けていた。
まだ二つの軍の名残を残している。
けれど、その中央には新しい旗が掲げられ始めていた。
アシャンはそれを見た。
王弟から王へ。
それは王冠を被ることでも、玉座へ座ることでもなかった。
自分の名のもとへ集まった人間を、
これからどこへ連れていくのかを決めることだった。




