神官の帰還
カンチャーンへ戻ってからも、ヴァルダーンは兵を集めなかった。
城門を閉じることもなければ、周囲の領主へ檄を飛ばすこともしない。
アシャンには、それが少し不思議だった。
ここまで来る途中では、追われた。
殺されかけた。
ようやくヴァルダーンと合流し、兵も城もある。
ならば、ここから戦いを始めるのだと思っていた。
ところがヴァルダーンが最初に始めたのは、地図を広げることだった。
「ここでは起ちません」
夕方、城内の一室でヴァルダーンはそう言った。
アシャンは地図から顔を上げた。
「起たない?」
「はい」
「でも、戦うんでしょう」
「戦います。だからこそです」
ヴァルダーンはカンチャーンを指した。
「ここは私の城です」
「うん」
「私の兵がおり、私の蔵があり、私の名で治められております。ここで兵を集め、陛下を奉じて旗を挙げれば、国中の者にはどう見えますか」
アシャンは少し考えた。
「ヴァルダーンが……僕を使って戦争を始めた?」
「そうなります」
ヴァルダーンは即答した。
「ナジャールもそう言うでしょう。ヴァルダーン公爵が死んだ王弟を騙る者を担ぎ、反乱を起こした、と」
「僕、生きてるけど」
「それをこれから国中に証明するのです」
横で聞いていたダルガンが腕を組んだ。
「じゃあ、ここは使わないのか」
「使いません」
ヴァルダーンは地図の上で指を滑らせた。
そこで止める。
「オルシャニクへ参ります」
アシャンはその名を聞いて、黙った。
神官領オルシャニク。
自分の故地だった。
王宮とは違う。
兄ラシャンが王になってからも、アシャンにとっては神官たちの声や、水路の音や、寺の石床の冷たさのほうが、幼いころの記憶には強く残っていた。
「故地より起たれるべきです」
ヴァルダーンが言った。
「オルシャニクは私の領地ではない。誰か一人の諸侯の城でもない。そこから陛下がお立ちになれば、少なくとも『ヴァルダーン公爵の私戦』とは言わせずに済みます」
アシャンは地図のオルシャニクを見た。
「でも」
「はい」
「安全なの?」
その問いには、すぐ返事がなかった。
アシャンは指先で地図の端を触った。
「僕がいなくなってから、ずっと時間が経ってる。ナジャールの人間が入ってるかもしれないし、神官たちだって……」
言いにくそうに続けた。
「僕を渡したほうが安全だって思ってるかもしれない」
以前のアシャンなら考えもしなかったことだった。
自分の故郷なのだから、帰れば迎えてもらえる。
昔なら、それで終わっていた。
だが今は、自分一人が帰ることで巻き込まれる人間がいることを知っていた。
ヴァルダーンが静かに言った。
「ミーラ殿がおります」
アシャンが顔を上げた。
「ミーラが?」
「はい」
「生きてるの?」
「少なくとも、最後に届いた知らせでは」
アシャンは黙った。
ヴァルダーンは続けた。
「陛下がおられなくなった後も、神官領を離れなかった。ナジャール側から何度使者が来ようと、オルシャニクの自治を手放さず、寺と水路と民を守り続けております」
「ずっと?」
「ずっとです」
ナディラがアシャンを見た。
「じゃあ、行きましょう」
アシャンが振り向く。
「でも――」
「ミーラがあなたのいないオルシャニクをずっと守ってたんでしょう?」
「うん」
「生きてるなら、早く会いに行きましょうよ」
あまりに単純な言い方だった。
アシャンはしばらく何も言わなかった。
それから小さくうなずいた。
「……うん」
ヴァルダーンが頭を下げた。
「では、決まりです」
翌朝から、カンチャーン城がおかしくなった。
戦支度をするのかと思えば、逆だった。
荷車が次々と城内へ入ってくる。
兵糧庫が開かれ、袋詰めされた麦や豆が運び出される。
矢束。
槍。
予備の弓。
革鎧。
医薬品。
鍛冶場の道具。
馬具。
帳簿。
税の記録。
城内で使っていた印や書板まで箱に詰められた。
ナディラはその光景を見て、とうとうヴァルダーンに聞いた。
「どこまで持っていくつもり?」
「持てるだけ」
「戻ってくる気は?」
「ありません」
アシャンが振り向いた。
「え?」
ヴァルダーンは平然としていた。
「カンチャーンは捨てます」
「城なのに?」
「城だからです」
ヴァルダーンは城壁を見上げた。
「守ろうとすれば兵が要る。兵を残せば軍が割れる。食糧を残せば敵に使われる。今の我々には領地を守る余裕はありません」
「敵に取られたら?」
「取らせればよろしい」
アシャンは本当に驚いた。
「いいの?」
「取り返せば済みます」
ダルガンが小さく笑った。
「豪気だな」
「違います」
ヴァルダーンは言った。
「貧乏なのです。守る場所を選ばねばならない」
それは妙に現実的な答えだった。
カンチャーンに火は放たなかった。
井戸も壊さない。
民家にも手をつけない。
ただ、戦争に必要なものだけを徹底して抜いた。
人も移した。
兵だけではない。
文官、鍛冶、馬丁、治療をする者、家族。
ここで生活を続ければ戦に巻き込まれる者には、希望する限りオルシャニクへ移るよう命じた。
三日後。
長い荷車の列がカンチャーンを出た。
旗は少なかった。
まだこれは王軍ではない。
ヴァルダーン公爵の兵。
その家臣や家族。
神官。
職人。
馬。
荷車。
旅商人だったダルガンとナディラ。
途中から妙な具合に加わったファルハド。
そして、本来なら死んだことになっている王弟アシャン。
街道を進むうち、アシャンは何度も振り返った。
カンチャーン城が遠くなる。
「気になるか」
ダルガンが聞いた。
「ちょっと」
「お前の城じゃないだろ」
「ヴァルダーンの城だよ」
「本人が気にしてない」
前を行くヴァルダーンは、本当に一度も振り返らなかった。
その日の夕方には、城は山影の向こうへ消えた。
そして数日後。
水の音が聞こえた。
最初に気づいたのはアシャンだった。
「……水だ」
ナディラが耳を澄ます。
「川?」
「違う」
アシャンは馬を少し速めた。
「水路」
道が下る。
畑の間を細い水が走り、その先でいくつもの水路へ分かれていた。
石で固められた古い溝。
小さな橋。
水門。
全部、見覚えがあった。
アシャンの馬が自然と速くなる。
「おい」
ダルガンが後ろから呼んだが、アシャンは振り返らなかった。
神官領オルシャニク。
帰ってきた。
畑仕事をしていた老人が、こちらに気づいた。
老人は馬上のアシャンを見た。
手にしていた鍬が地面へ落ちた。
アシャンも馬を止める。
老人は動かなかった。
ただ、アシャンの顔を見ている。
やがて、その口が震えた。
「……殿下?」
その声で周囲の人々が顔を上げた。
アシャンは何と答えればいいのかわからなかった。
まだ王ではない。
少なくとも、自分ではそう思っている。
「ただいま」
結局、それしか言えなかった。
老人が泣いた。
アシャンのほうが困ってしまった。
知らせは彼らより先に中央寺へ走った。
町へ近づくにつれ、人が増えた。
それでも歓声は上がらなかった。
皆、確かめるようにアシャンを見ている。
死んだはずの人間を見る顔だった。
やがて中央寺が見えた。
その前に、人が立っていた。
一人だけ、周囲の神官たちより前へ出ている。
アシャンは遠くからでもわかった。
馬が完全に止まる前に降りた。
「アシャン」
声が聞こえた。
「ミーラ」
アシャンは走った。
王弟らしい歩き方も何もなかった。
ミーラも待ってはいなかった。
二人の距離がなくなる。
ミーラはアシャンの両肩をつかんだ。
顔を見る。
頬を見る。
額に触れる。
本当にそこにいるのか、一つずつ確かめるようだった。
「本当に……」
声が詰まった。
「本当に、生きておられた」
「うん」
アシャンも、それ以上言えなかった。
「遅くなった」
ミーラは首を振った。
「お帰りなさいませ」
その言葉を聞いた瞬間、アシャンの顔が少し崩れた。
「ただいま」
今度は、ちゃんと言えた。
周囲にいた神官たちが、一人、また一人と頭を垂れていく。
ヴァルダーンは少し離れたところから、それを見ていた。
彼は前へ出なかった。
ここは彼の城ではない。
彼の領地でもない。
そして、この帰還は彼のものではなかった。
まだ兵は集めていない。
復位も宣言していない。
戦争も始まっていない。
ただ、この日。
神官領オルシャニクを守り続けた者たちのもとへ、
死んだはずの王弟が帰ってきた。




