国史を改める
その夜は、誰もすぐには眠らなかった。
儀式に使ったものを片付けた。
死の星環も布に包んだ。
僕は手が少し震えていた。
怖かったからなのか、兄上の死を見たからなのか、自分でも分からない。
ファルハドが水をくれた。
「飲め」
「ありがとう」
一口飲んだ。
やっと、自分の身体に戻ってきたような気がした。
ヴァルダーン公爵は、ずっと考えていた。
「公爵」
呼ぶと、顔を上げた。
「叔父上だった」
「はい」
「兄上を殺したのは、ナジャール叔父上だった」
「今見たものが、ラシャン陛下の御記憶であるならば」
公爵は慎重だった。
「そうなります」
僕は少しだけ苛立った。
「みんな同じものを見たよ」
「承知しております」
「だったら――」
「だからこそ、考えているのです」
公爵は言った。
しばらく黙る。
そして、
「分かりやすすぎますな」
と言った。
僕は意味が分からなかった。
「分かりやすい?」
「はい」
「叔父上が兄上を殺したんだよ?」
「それは分かりました」
公爵は否定しなかった。
「私が気になっているのは、その先です」
ダルガンが公爵を見る。
「火事のあとか」
「そうです」
公爵はうなずいた。
「ナジャール殿下御本人がラシャン陛下を手にかけた。そして格闘の最中、偶然燭台が倒れた」
「うん」
「火災は、少なくとも最初から計画されたものではなかった可能性が高い」
僕もそこは同じように思った。
叔父上はカーテンへ火をつけていない。
兄上との格闘で倒れた燭台から燃え移った。
「なのに」
公爵が続けた。
「その後の動きは、あまりにも早い」
僕は黙った。
カンチャーン城で聞いたばかりだった。
火災の原因も分からない。
僕の遺体もない。
僕が宮殿から生きて逃げたことを知る者までいる。
なのに南部諸侯は、
――双王子は亡くなられた。
と声を揃えた。
「偶然起きた火災を、あれほど早く政治的に利用できるものでしょうか」
ナディラが聞いた。
「前もって何かを準備していた者がいた?」
「可能性はあります」
公爵は答えた。
「ですが、まだ可能性です」
「叔父上が準備してたんじゃないの?」
僕が聞いた。
「もちろん、それも考えられます」
公爵は僕を見た。
「ですが殿下。ナジャール殿下は、御自身で王を殺している」
「うん」
「そのうえ、格闘で火災まで起こしている」
「うん」
「随分と危うい」
言われてみればそうだった。
「王位を奪うための周到な計画としては、あまりにも御本人が危険を負いすぎております」
ファルハドが腕を組んだ。
「じゃあ、なんだ。叔父さんが馬鹿だったってことか?」
公爵が少し笑った。
「それも否定はできません」
「できないんだ」
「人間は時として驚くほど愚かなことをしますからな」
公爵はすぐ真顔に戻った。
「ただ、私は別の可能性も考えます」
「何?」
「担がれたのかもしれません」
「叔父上が?」
「はい」
公爵はゆっくり言った。
「王になりたい者ほど、担ぐには都合がよいことがある」
僕は叔父上の顔を思い出した。
兄上を殺していた顔。
「誰かに唆されたってこと?」
「分かりません」
また、それだった。
でも今度は、その言葉が嫌ではなかった。
分からないことを、分かったことにしない。
「ナジャール殿下御本人は、人を使っているつもりだったのかもしれません」
公爵は言った。
「しかし実際には、さらに別の者たちに使われているだけなのかもしれない」
「南部諸侯?」
「それも分かりません」
公爵は首を振った。
「今の段階で名を挙げれば、想像に想像を重ねるだけです」
僕はうなずいた。
死の星環でも、そこまでは見えなかった。
兄上は死んだ。
だから、その後を知らない。
死者は、自分が死んだあとのことを教えてはくれない。
「ですが」
公爵の声が変わった。
「これは別です」
「何が?」
「弑逆です」
部屋が静かになった。
「誰かに担がれていたとしても。誰かに唆されていたとしても。あるいは、その後に誰かの手先として利用されていたとしても」
公爵は僕をまっすぐ見た。
「ラシャン陛下を手にかけたのは、ナジャール殿下です」
僕はうなずいた。
「弑逆は、弑逆です」
その言葉だけは、何も曖昧ではなかった。
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ヴァルダーン公爵はしばらく黙った。
僕も黙っていた。
それから公爵が言った。
「アシャン陛下」
僕は顔を上げた。
聞き間違えたかと思った。
「いま、なんて?」
「アシャン陛下」
公爵はもう一度言った。
「僕はまだ――」
「ラシャン陛下は崩御されました」
静かな声だった。
「そして、その弟君がここにおられる」
僕は何も言えなかった。
公爵は続けなかった。
王になれとも言わない。
軍を起こせとも言わない。
ただ、僕に聞いた。
「陛下は、これをご覧になって、どうなさりたいですか?」
僕は自分の手を見た。
何をしたいのか。
それなら、もう決めていた。
サルマンドを出る前から。
いや。
たぶん、大図書館で兄上について書かれた本を読んだときから。
「僕は」
少しだけ息を吸った。
「叔父上に復讐したいわけじゃない」
公爵は黙って聞いている。
「もちろん、兄上を殺したことは許せない」
自分で言って、胸が痛くなった。
「でも、それだけじゃない」
僕は大図書館で読んだ文章を思い出した。
ラシャン王。
アシャン王弟。
王宮に火を放つ。
反乱。
自害。
それが何冊もの本に書かれていた。
写されていた。
もう歴史になり始めていた。
「兄上と僕が、自分たちで王宮に火を放って、自害したことになってるでしょう」
「はい」
「それが嫌なんだ」
自分でも、子供みたいな言い方だと思った。
でも、それが一番正しかった。
「兄上と過ごした日々まで、全部否定されているみたいで嫌なんだ」
兄上は面倒くさがりだった。
僕をからかった。
書類仕事を嫌がった。
でも毎日やっていた。
僕のことも考えていた。
最後まで、生きようとしていた。
抵抗していた。
なのに歴史の中では、自分で宮殿を燃やして死んだ王になっている。
「兄上は、そんなことしてない」
僕は言った。
「僕もしてない」
誰も何も言わなかった。
「だから、改めさせたい」
ヴァルダーン公爵が聞いた。
「改めさせる、とは」
少し間を置いた。
「どの程度まででございますか?」
僕は公爵を見た。
そこは迷わなかった。
「カルバーブの国史です」
静かだった。
ファルハドまで黙っていた。
公爵が僕を見ている。
しばらくして、その顔に小さな笑みが浮かんだ。
「よく言いましたな」
「え?」
「ダルシャン王も」
父上の名前だった。
「今のお言葉を、聞きたかったことでしょう」
「父上が?」
「はい」
公爵は杖を取った。
立ち上がろうとする。
従者がすぐ動いた。
「閣下」
「分かっておる」
「何も分かっておられません」
「今くらい立たせろ」
公爵はゆっくり立った。
少し苦しそうだった。
でも、僕をまっすぐ見ていた。
そして頭を下げた。
僕は驚いた。
父上の友人だった人。
僕が子供のころから知っている人。
その人が、僕に頭を下げている。
「ヴァルダーン公」
僕が呼んだ。
公爵は頭を上げた。
「陛下が望まれるのが、国史を改めることなのであれば」
杖を握り直した。
「お力をお貸しいたしましょう」
僕は返事をするまで、少し時間がかかった。
「……ありがとう」
「ただし」
公爵が言った。
「はい?」
「国史を書き換えるというのは、本の一行を書き直すことではございません」
嫌な予感がした。
「では、何をするの?」
公爵は答えた。
「国を取り戻していただきます」
僕は黙った。
後ろでファルハドが、
「やっぱりそうなるのか」
と呟いた。
僕も、まったく同じことを思っていた。




