兄王ラシャン
「今夜、兄上に会ってみます」
そう言ったあと、僕は少し後悔した。
会う、という言い方が正しいのか分からなかったからだ。
兄上が出てきて、僕と話をしてくれるわけではない。
死の星環で見えるのは、死者が残した記憶らしい。
それも、どこまで見えるのか分からない。
サルマンドで試したときは、名前すら知らない昔の死者たちだった。
今度は違う。
僕は知っている。
名前も、顔も、声も。
僕の兄だ。
「一つだけ」
僕はみんなを見た。
「これは、参加したい人だけにしたいです」
ヴァルダーン公爵が眉を上げた。
「と申しますと?」
「たぶん、兄上が死ぬところを見ることになります」
誰も答えなかった。
「僕は見ます。でも、みんなまで見る必要はないと思う」
ナディラが聞いた。
「危険性は?」
「分からない」
「正直ね」
「分からないものは分からないから」
ダルガンが腕を組んだ。
「俺はやる」
ナディラも、
「私も」
と言った。
ファルハドは僕を見た。
「今さら俺だけ抜けられるかよ」
「別に抜けてもいいんだよ」
「一回目に付き合った奴が、本番で抜けてどうする」
最後にヴァルダーン公爵を見た。
公爵は少しも迷わなかった。
「私もお願いいたします」
「でも身体が」
「寝ていても見られるのであれば寝ますぞ」
「そういうものじゃないと思います」
「なら起きております」
従者が何か言いたそうだった。
でも、今回は止めなかった。
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夜を待った。
城の中の小さな部屋を借りた。
余計な人は入れなかった。
僕たち五人だけだった。
灯りを落とし、水、穀物、香を、サルマンドで調べたとおりに並べた。
僕は死の星環を取り出した。
何度見ても、生者のものと似ている。
でも、並べると違う。
僕は腕にはめた生者の星環に触れ、それから死者のものを輪の中央へ置いた。
「手を」
僕たちは輪になった。
僕の右にダルガン。その隣にナディラ、ファルハド、ヴァルダーン公爵。そして僕へ戻る。
輪が閉じる。
僕は目を閉じた。
前回とは違う。
誰を呼ぶのか、決まっている。
僕は知っている。
ずっと知っている。
「カルバーブ王、ラシャン」
兄上の名前を呼んだ。
「僕の兄上」
少し迷った。
それから続けた。
「僕は、あなたの弟です」
死の星環に触れた。
「兄上」
暗くなった。
---
最初に見えたのは、紙だった。
僕は文字を読んでいた。
違う。
兄上が読んでいる。
目の前に書類が積んである。
署名する。
次。
また読む。
署名する。
つまらない。
僕はそう思った。
いや。
兄上がそう思った。
でも手は止まらない。
税の報告、水路の補修、役人の任命、裁判の報告、どこかの村同士の境界争い。
兄上はため息をついた。
窓の外はまだ明るかった。
――アシャンはいいな。
突然、自分の名前が頭に浮かんだ。
僕は驚いた。
――今日はミーラと何をやってるんだ。
僕は答えそうになった。
でも答えられない。
これは昔だ。
僕はここにはいない。
兄上の記憶だ。
兄上は書類を一枚めくった。
――あいつ、また字の話してるんだろうな。
なんだそれ。
僕は少し腹が立った。
でも、嬉しかった。
兄上は僕のことを考えていた。
本当に、ただそれだけだった。
その日の仕事の途中で。
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景色が飛んだ。
夕方だった。
部屋が違う。
兄上は一人ではなかった。
「叔父上?」
ナジャール叔父上がいた。
若い。
僕の記憶にある姿より、少しだけ。
兄上が立ち上がった。
何かを話している。
最初は普通だった。
でも、言葉がだんだん速くなった。
「それはできません」
兄上の声だった。
「ラシャン」
「できないものはできません」
叔父上が何か言った。
南部。
王位。
国。
混乱。
言葉が断片になって聞こえる。
全部は分からない。
これは兄上の記憶だからだ。
兄上が聞き取っていなかったことは、僕にも分からない。
ただ、叔父上が怒っている。
兄上も怒っている。
「叔父上、それ以上は――」
ナジャール叔父上が近づいた。
兄上が一歩下がった。
その瞬間だった。
何かが変わった。
兄上も気づいた。
怖い。
兄上が初めて、叔父上を怖いと思った。
僕にもそれが流れ込んできた。
「叔父上?」
腕を掴まれた。
兄上が振りほどいた。
卓に身体がぶつかった。
何かが落ちた。
叔父上がまた来る。
兄上が押し返す。
「何を――!」
息が苦しい。
兄上は強くなかった。
でも必死だった。
叔父上の腕を掴む。
蹴る。
身体を捻る。
二人で卓へぶつかった。
燭台が倒れた。
床へ落ちる。
火が揺れた。
そのすぐそばに、長いカーテンがあった。
端に火がついた。
でも。
兄上は見ていなかった。
それどころではなかった。
僕だけが、兄上の目の端に入った火を見ていた。
赤い。
小さい。
まだ、小さな火だった。
「やめ――」
兄上の声が途切れた。
痛い。
僕は息を吸った。
吸えなかった。
叔父上の顔が近い。
ナジャール叔父上。
兄上はその顔を見ていた。
信じられない。
怒りより先に、それがあった。
どうして。
どうして叔父上が。
身体から力が抜けていく。
視界が傾いた。
その向こうで、火が上へ走った。
カーテンを登っていく。
赤い。
兄上の目が、それを見た。
でももう身体が動かなかった。
――アシャン。
僕の名前だった。
声にはならなかった。
兄上。
僕は呼んだ。
兄上。
聞こえるはずがない。
これは記憶だ。
兄上はもう死んでいる。
それでも僕は叫んだ。
兄上。
視界が暗くなる。
最後まで見えていたのは、叔父上ではなかった。
燃え始めたカーテンだった。
そして。
暗くなった。
---
僕は息を吸った。
床に手をついていた。
どこだ。
一瞬、分からなかった。
カンチャーン城だった。
目の前に死の星環がある。
「……兄上」
自分の声が聞こえた。
誰もすぐには喋らなかった。
ナディラは目を閉じていた。
ダルガンは床を見ていた。
ファルハドは顔を手で覆っていた。
ヴァルダーン公爵だけが、死の星環を見ていた。
「見た?」
僕が聞いた。
ファルハドが顔を上げた。
「ああ」
「同じ?」
「たぶん」
「叔父上は?」
「いた」
「燭台は?」
「あった」
ナディラが答えた。
「倒れたわ」
ダルガンも言った。
「火がカーテンに移った」
僕はヴァルダーン公爵を見た。
公爵は長い間、何も言わなかった。
「公爵?」
ようやく顔を上げた。
「……見ました」
それだけだった。
僕は死の星環を見た。
ずっと分からなかった。
兄上はどうして死んだのか。
なぜ王宮が燃えたのか。
誰がいたのか。
全部ではない。
まだ分からないことはいくらでもある。
でも。
一つだけは、もう分かった。
兄上は、自分で火を放っていない。
僕と一緒に死のうともしていない。
兄上は殺された。
ナジャール叔父上に。
そして王宮を焼いた最初の火は、
兄上が殺されるために抵抗した、そのすぐそばで生まれていた。




