のこしたい景色
ハルザーンを出てしばらくすると、道は急に古くなった。
なくなったわけではない。
むしろ、思っていたよりちゃんと道だった。
石を積んだところがある。
谷側には低い石垣が残っている。
古い橋もあった。
橋の板は黒ずんでいて、下を流れる水を見ればかなり昔からここにあるように見える。
でも、よく見ると変だった。
「ここ、新しいよ」
僕が言った。
橋の端の板だけ、色が違った。
ダルガンが馬を止めて確かめる。
「ああ。替えてある」
「本当に誰か直してるんだ」
「バフラムが言ってただろ」
「聞いてはいたけど」
人はいない。
前にも後ろにも旅人は見えない。
なのに橋は直っている。
少し先では、道に落ちた岩が脇へ寄せられていた。
その先には古い鐘があった。
石柱から下がっている。
鐘そのものは古い。
でも縄は、それほど古くなかった。
「これも?」
「たぶんな」
ダルガンが鳴らした。
からん。
音が谷へ落ちていった。
ずっと向こうの山に当たって、小さく返ってきた。
ファルハドが鐘を見上げた。
「使われてねえ道にしては、ずいぶん丁寧だな」
「使われてないわけじゃないわ」
ナディラが言った。
「たまに誰かが使ってるのよ」
「その、たまにのために直すのか」
「完全になくなったら困るんでしょうね」
僕はバフラムにもらった地図を開いた。
知らない人の字がいくつもある。
橋。
水場。
崩れた場所。
鐘。
誰かが書いて、そのあと別の誰かが直している。
道も地図も、一人のものではなかった。
---
昼を過ぎるころから、さすがにきつくなってきた。
ハルザーンまでの道とは違う。
高いところでは二千メートルを越えている。
場所によっては、もっと高い。
三千メートルに近いところもあるらしい。
空気が薄いというのがどういうことなのか、僕にも少し分かってきた。
歩くだけで息が上がる。
馬に乗っているだけでも疲れる。
少し登ると、休みたくなる。
ファルハドも静かになっていた。
「料理長」
僕が呼んだ。
「なんだ」
「元気?」
「元気だ」
少しして、
「……疲れてるだけだ」
と言った。
「僕も」
ダルガンが前で馬を止めた。
「今日はここまでにするか」
「もう?」
太陽はまだ高い。
いつもの野営より、ずっと早かった。
「まだ進めるぞ」
ファルハドも言った。
ダルガンは地図を開いた。
例の丸印だった。
――晴れた日はここで休め。
「ちょうどここだ」
僕も地図を覗く。
「でも『疲れたら』じゃなくて『晴れた日は』だよ」
「どっちでもいい。疲れてるし、晴れてる」
ダルガンは馬から降りた。
「馬も休ませる。今日はここだ」
それで決まった。
---
野営地を作ることになった。
風を避けられる場所を選ぶ。
荷を下ろす。
馬をつなぐ。
僕とファルハドは石を集めた。
ファルハドが地面を見て、
「火はこっちだな」
と言った。
「なんで?」
「風」
「さっきまで向こうから吹いてなかった?」
「ここだと回ってる」
僕には分からない。
でもファルハドは石を並べ始めた。
僕も手伝う。
「ダルガンとナディラは?」
「その辺見てくるってよ」
「二人で?」
「水と薪じゃねえの?」
ファルハドは火口を取り出した。
僕たちが火を起こしている間に、二人の姿は見えなくなった。
鍋を出す。
米を出す。
豆もある。
昨日ザフラさんにもらった薬草もある。
「今日は普通の粥?」
僕が聞いた。
「そのつもりだったんだけどな」
ファルハドが荷物を見た。
「肉が少ねえ」
「干し肉あるよ」
「あるけど、昨日あの草食ったら鶏でやってみたくなった」
「鶏なんかいないよ」
「だから普通に作るんだよ」
そう言ったところで、後ろから声がした。
「なら、似たようなのがあるぞ」
振り返った。
ダルガンだった。
手に鳥を持っている。
「キジ!」
ナディラも一緒だった。
ファルハドが立ち上がった。
「遅かったな――」
そこで止まった。
空を見た。
火を見た。
キジを見た。
「……いや、早くねえか?」
「どっちだ」
「俺たち、まだ火起こしたばっかりだぞ」
ダルガンがキジを置いた。
「近くにいた」
「どうやって獲ったの?」
僕が聞いた。
ナディラが弓を見せた。
「二人で射たの」
「二人で一羽を?」
「俺じゃ外すかもしれんから、同じの狙えって言った」
ダルガンが平然と言った。
ファルハドがキジを見る。
「で?」
ダルガンが自分の矢を見せた。
羽根が少しついていた。
「俺のは左にそれた。羽根に当たっただけだ」
「案の定ね」
ナディラが言った。
「お前のは?」
「頭」
僕はナディラを見た。
「頭に当てたの?」
「違うわよ」
ナディラは少し嫌そうだった。
「胴を狙ったの。ちょっと緊張して、上擦った」
ファルハドが黙った。
キジを見る。
ナディラを見る。
「頭に当てて失敗なのか?」
「狙ったところと違うもの」
「弓って難しいんだな」
「だから同じのを狙ったんだ」
ダルガンが言った。
「夕飯を賭けて格好つける必要ないだろ」
それはダルガンらしかった。
---
ファルハドは急に元気になった。
「半分、俺が使っていいか?」
「半分は?」
ダルガンが聞いた。
「普通に焼く」
「ならいい」
キジを半分に分けた。
片方は肉を切って串に刺す。
塩を振って火のそばに並べる。
もう半分は骨ごと鍋に入れた。
米。
豆。
いくらか残っていた野菜。
そしてザフラさんの薬草。
ファルハドは葉をほんの少しだけ砕いた。
「入れるの?」
「試す」
「頭痛くないよ」
「薬にするほど入れねえよ。味を見るだけだ」
ダルガンが横から言った。
「薬の分まで使うなよ」
「分かってるって」
鍋が煮え始めた。
鶏とは違う。
でも、骨から出た汁に米が溶けていく。
薬草の匂いも、昨日とは違っていた。
「お」
ファルハドが味を見る。
「どう?」
「昨日よりいい」
「本当に?」
「キジの方が脂少ねえけど、干し肉より合う」
ナディラも少し味見した。
「悪くないわね」
「だろ?」
ファルハドが得意そうになった。
「やっぱり骨付きの鶏でやりてえな。鶏と米と野菜があれば――」
「それはハルザーンに帰ってからやれ」
ダルガンが串を返した。
「今はキジを食え」
---
焼いた方もおいしかった。
粥もおいしかった。
どちらがいいかと聞かれると困る。
焼いた肉は焼いた肉でおいしい。
粥は温かかった。
それが今はとてもよかった。
僕は椀を両手で持った。
「なんか」
「なんだ?」
ファルハドが聞いた。
「確かにおいしいのもあるんだけど」
一口食べる。
身体の中が温かい。
「元気が出たかもしれない」
ファルハドが嬉しそうにした。
「薬草だな」
ダルガンが言った。
「飯食って休んだからだ」
「夢がねえな」
「薬草だけで元気になるなら荷物全部薬草にする」
ザフラさんなら怒るだろう。
僕も、たぶんそう思った。
でも温かい粥を食べていると、少しだけ身体が軽くなった気はした。
---
食べ終わっても、まだ明るかった。
早く野営したからだ。
鍋を洗う。
串を片付ける。
火の周りを整える。
馬を見る。
明日の荷物も確かめた。
やることがなくなったころ、空の色が変わり始めた。
僕は立ち上がった。
「あ」
西が赤かった。
山が一つではなかった。
大きなザルグーグの山塊は、もう僕たちの横から後ろへ移りつつある。
その先には、小さな山脈がいくつも重なっていた。
谷がある。
盆地がある。
高い土地がある。
また山がある。
その向こうにも山がある。
まるで、違う形の土地を細かく切って、つなぎ合わせたみたいだった。
一番近い山から影に沈んでいく。
次の山も暗くなる。
その次も。
なのに、ずっと遠くの尾根だけがまだ赤い。
さっきまで歩いてきた古い道も、鐘も、石垣も、その光の中にあった。
ファルハドが手を止めた。
ダルガンも何も言わなかった。
僕は地図を取り出した。
――晴れた日はここで休め。
丸印を見る。
それから、もう一度西を見た。
「あぁ」
ようやく分かった気がした。
隣にいたナディラに聞いた。
「ここで休めって、こういうことかな」
ナディラは夕日を見たままだった。
「たぶんね」
「景色を見るため?」
「そうみたい」
しばらくして、ファルハドが言った。
「まあ」
まだ赤い一番遠くの山を見ている。
「分からなくもねえな」
誰も笑わなかった。
道は古かった。
ほとんど誰も通らない。
それでも橋の板は替えられていた。
落ちた石はどけられていた。
鐘には新しい縄がついていた。
僕はずっと、道だから直しているんだと思っていた。
たぶん、それも間違いではない。
でも。
こんなところまで来て、夕日を見る人がいる。
また来たいと思う人がいる。
次に来る誰かにも、ここまで歩いてきてほしいと思う人がいる。
それだけでも、道を直す理由になるのかもしれない。
太陽が最後の尾根へ沈んだ。
赤かった山も、ゆっくり暗くなった。
僕は地図を畳んだ。
明日はまた、タラートへ向かう。
今夜だけは、ここで休む。
地図に書いた誰かの言うとおりに。




