ザフラ再び
朝、山小屋を出た。
昨日より道は高くなった。
バフラムたちと一緒だったので迷うことはなかったけれど、楽になったわけではない。
途中、道が岩の間を抜けるところで、ダルガンが止まった。
「降りろ」
「歩くの?」
「馬を休ませる」
ファルハドが馬から降りながら言った。
「人じゃねえんだな」
「お前は自分で休めるだろ」
「馬は言えねえからか」
「そういうことだ」
しばらく全員で馬を引いて歩いた。
ファルハドは昨日より静かだった。
平地なら普通に乗れる。
それは本当だった。
でも、山でも同じとはいかないらしい。
「大丈夫?」
僕が聞くと、
「大丈夫だ」
と答えたあと、
「たぶん」
と付け足した。
ダルガンが振り返った。
「その『たぶん』を忘れるな」
「聞こえてたのかよ」
---
昼を過ぎたころ、ハルザーンが見えた。
二度目だった。
前に来たときは、世界の果てにある町みたいに思った。
今見ると、小さい。
でも、煙が上がっている。
屋根がある。
人がいる。
馬がいる。
山の中では、それだけでほっとした。
バフラムはそのまま僕たちを郵便局へ連れていった。
「俺はここまでだ」
背負っていた郵便袋を下ろす。
「ありがとう」
「仕事だからな」
「タラートまで来ない?」
一応聞いてみた。
「行かん」
ファルハドが横から言った。
「山好きなんだろ?」
「山好きと無職は違う」
バフラムは即答した。
ファルハドが笑った。
「やっぱりあんた気に入った」
「お前に気に入られても給金は増えん」
そう言いながら、バフラムは郵便局の奥へ入った。
戻ってきたときには、一枚の地図を持っていた。
ずいぶん使い込まれていた。
線の上に、別の筆跡でいくつも書き込みがある。
「旧道の地図だ」
ダルガンが広げた。
「タラートまでか」
「ああ」
バフラムが指で道を追った。
「ここは橋。去年、板を替えたって話だ。こっちは崩れやすい。水はここ。この沢が駄目なら一つ前まで戻れ」
「誰が直してるの?」
僕が聞いた。
「その辺の物好き」
「物好き?」
「昔の道を歩く奴とか、猟師とか、近くの村の年寄りとか。人はいないけど、有志がたまに補修してるから大丈夫だよ」
地図には、橋だけでなく鐘の印もいくつかあった。
「この鐘は?」
「行けば分かる」
またそれだった。
「道そのものは残ってる。野生動物だけ気をつけてね」
「何がいるの?」
「いろいろ」
「だから、そのいろいろを――」
「会わなきゃ知らなくていい」
ダルガンは地図を受け取った。
「十分だ」
僕には十分ではなかった。
地図の途中に、一つだけ変な丸印があった。
横に小さく、
――晴れた日はここで休め。
と書いてある。
「これは?」
バフラムが覗いた。
「知らん」
「バフラムが書いたんじゃないの?」
「俺はそっちへ行かん」
「じゃあ誰が?」
「通った誰かだろ」
それ以上は分からなかった。
バフラムは最後に言った。
「タラートまで行けたら、変わってたところ書いといてくれ。次に行く馬鹿のために」
「僕たち、馬鹿なの?」
「旧道へ行く奴はだいたいそうだ」
ダルガンは地図を畳んだ。
「じゃあ行ってくる」
「今日は行くなよ」
「分かってる」
「馬を休ませろ」
「そのつもりだ」
バフラムはうなずいた。
それで僕たちは別れた。
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馬を預けたあと、ダルガンは町の端へ向かった。
道には覚えがあった。
「どこ行くんだ?」
ファルハドが聞いた。
「ババアのところ」
「ババア?」
しばらく歩くと、家が見えた。
戸口に人がいる。
前と同じだった。
ダルガンが手を上げた。
「ババア、帰ったぞ」
「あ?」
婆さんが顔を上げた。
僕たちを見る。
「おぅ。今回は早いなー」
本当に、少し前に別れたばかりみたいだった。
「急いでるんだ」
ダルガンが言った。
「今回はなんも持ってこれなかった」
前に来たとき、ダルガンは土産に首飾りを持ってきた。
僕はザフラさんの首元を見た。
あった。
前の首飾りだった。
「そんなもん、いつだっていらないんだよ」
ザフラさんは笑った。
ダルガンも気づいているはずなのに、何も言わなかった。
その後ろでファルハドが僕に聞いた。
「ババア?」
「あ、ザフラさんだよ」
「そうなのか」
ファルハドはすぐに頭を下げた。
「ザフラさん、はじめまして。ファルハドです」
ザフラさんがファルハドを上から下まで見た。
「ほう」
「なんです?」
「ダルガンの連れにしては、ちゃんとした見どころのある人だ」
「おい」
ダルガンが言った。
「俺の何が悪い」
「人んち来て最初にババアって言うところだよ」
「ババアだろ」
「ほら、見どころがない」
ファルハドがうなずいた。
「確かに」
「お前、会ったばっかりだろ」
「ザフラさんの方が付き合い長いんだろ?」
「そりゃそうだが」
ダルガンが負けた。
---
その日は、ハルザーンで丸一日休むことになった。
急いでいる。
でもダルガンは譲らなかった。
「疲れた馬で山に入る馬鹿がいるか」
ナディラも同じ意見だった。
食料を補充する。
飼料を見る。
装具を直す。
旧道へ入れば、ハルザーンまでとは違う。
次の町が当然あると思ってはいけない。
ザフラさんはファルハドをしばらく見てから、ダルガンに言った。
「あの初めてのでかいやつ、連れ回しすぎだ」
「俺?」
「お前だよ」
「ファルハドです」
「一日休ませろ」
「もともとそのつもりだ」
ダルガンが答えた。
「なら、お前とナディラは出かける用意でもしてな」
ザフラさんは僕を指した。
「親玉はちょっと借りるぞ」
「僕も?」
「お前もだ」
何に使われるのか分からなかった。
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夜になって、僕はザフラさんと二人で外に座っていた。
寒かった。
空には星がたくさんあった。
ザフラさんが聞いた。
「親玉」
「なに?」
「まだ考え事あるのか?」
「あるよ」
「そうか」
少し間があった。
「今度は、ただのババアとして聞いてやる」
「前は何だったの?」
「インチキババアだったんじゃないのかい」
「自分で言うんだ」
ザフラさんが笑った。
僕も笑った。
それから少し考えた。
「悩んではいるよ」
「うん」
「分からないことも、まだいっぱいある」
「うん」
「でも、もう決めてるから大丈夫だよ」
ザフラさんを見た。
「ありがとう」
何を決めたのか、ザフラさんは聞かなかった。
僕の顔をしばらく眺めただけだった。
「なんだか、そんな顔だねぇ」
それだけ言った。
前なら、その先を聞いたかもしれない。
今は聞かなかった。
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次の日、ザフラさんは乾燥した葉を持ってきた。
「でかいの」
「ファルハドです」
「親玉も来い」
僕たちは呼ばれた。
ザフラさんは自分でも葉を一枚ちぎった。
口に入れる。
噛む。
僕にも渡した。
「何これ?」
「高いところで頭が痛くなったときに使う」
「今、痛くないよ」
「味を覚えとけ」
少しだけ噛んだ。
苦かった。
ものすごく苦いわけではない。
でも、食べたい味でもない。
ファルハドも噛んだ。
顔をしかめた。
「これ、ずっと噛んでていいのか?」
「頭も痛くないのに毎日食う馬鹿がいるか」
「頭がおかしくなるってやつ?」
僕が聞いた。
ザフラさんが笑った。
「あれは、そういう意味さ」
「どういう意味?」
「頭が痛いときに摂るのはいい。でも、そうじゃないときに面白がって摂り続けるもんじゃない」
乾いた葉を指で揉む。
「薬なんてなんでもそうだろ。必要もないのに摂り続けりゃ、毒になりかねない」
それなら分かった。
「ほんとにつらかったら、これを砕いて茶みたいにして飲ませな」
ファルハドに小さな包みを渡した。
「でも、ひどくなるなら?」
ダルガンが聞いた。
「下りろ」
ザフラさんは即答した。
「薬草なんか噛みながら上ってく馬鹿があるか」
ダルガンがうなずいた。
そこだけは二人とも意見が同じだった。
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その晩、ファルハドが薬草を一枚持って考え込んでいた。
「何してるの?」
「これさ」
匂いを嗅ぐ。
少し噛む。
「飯にも使えるんじゃねえか?」
「薬だよ?」
「薬草だって草だろ」
「すごい理屈だね」
ファルハドは台所を借りた。
干し肉を細かくする。
豆。
米。
ネギ。
手に入った野菜を少し。
それを鍋へ入れた。
今日は卵まであった。
「卵使うの?」
「ああ。今日だけな」
「なんで?」
「旅先じゃ使いにくいからだよ。割れるし、傷む。明日から山だろ」
卵を割って鍋へ落とした。
「町にいる今日だけ入れてみる」
最後に、薬草をほんの少し刻んだ。
粥ができた。
僕たちだけでなく、ザフラさんも食べた。
しばらく口を動かしている。
「どう?」
ファルハドが聞いた。
「悪くないねえ」
もう一口。
「この草、いちいち噛んで、そのへんにぺっと捨てるより、飯で食べた方がいいかもしれないねえ」
ファルハドが得意そうに僕を見た。
「ほら」
「でも薬なんでしょ?」
「頭痛いときだけだよ」
ザフラさんが言った。
「毎日の飯に入れるんじゃない」
「なるほど」
ファルハドは自分でも食べた。
薬草が入ったところをわざわざすくう。
少し考えた。
「……この苦味なら、干し肉じゃねえな」
「何?」
「鶏だ」
また始まった。
「骨付きの鶏を米と一緒に煮た方がうまいかもしれねえ。ニンジンとか、ゴボウとか、ネギとか。クコみたいな実があれば、それもいいな」
「そんな料理あるの?」
僕が聞いた。
「知らん」
「知らないの?」
「トゥランなんか行ったことねえからな」
「じゃあなんで?」
「昔いた食堂で聞いたんだよ。トゥラン人は飯に薬を入れて食うらしい」
ザフラさんが笑った。
「薬を飯に?」
「ああ。薬草とか、根っことか、木の実とかな。だから、これもそういうふうに食えるんじゃねえかなと思って」
もう一口食べる。
「鶏の脂があれば、この苦味も丸くなる。米を柔らかく煮て、この草は少しだけ」
ファルハドは頭の中で料理を作っているらしい。
「まあ、鶏と米と、いくらか野菜があればできなくはないな」
「それならハルザーンでも揃うよ」
ザフラさんが言った。
「じゃあ今度来たら作りますよ」
「今度かい?」
「今日はこれがあるでしょう」
ファルハドは鍋を指した。
「食える飯があるのに捨てて別の飯作るほど馬鹿じゃないですよ」
ザフラさんは感心したようにうなずいた。
「やっぱりダルガンより見どころあるねえ」
「また俺かよ」
ダルガンが言った。
ファルハドは笑った。
それから、ふと竈を見た。
「ザフラさん」
「なんだい」
「これ、使いにくくないです?」
「使ってるよ」
「使えるかじゃなくて」
しゃがんだ。
石を見る。
中を見る。
煙の抜けるところを見る。
「ちょっと組み直していいですか?」
「壊すのか?」
「直すんですよ。俺、解体屋なんで」
「料理長じゃなかったのかい」
「両方です」
ザフラさんが笑った。
「好きにしな」
ファルハドは本当に竈を直し始めた。
全部壊すわけではない。
石を何個か外す。
向きを変える。
隙間を直す。
煙の通り道を少し変える。
しばらくして、もう一度火を入れた。
煙が前より素直に抜けた。
ザフラさんが火の前に座った。
「おお」
「どうです?」
「いいねえ」
ファルハドが満足そうに手を払った。
「薬代です」
「じゃあ草もう一束やろうか」
「いらないですよ。薬は必要な分だけでいいんでしょう」
「覚えたじゃないか」
「ザフラさんが言ったんですよ」
「やっぱり見どころあるねえ」
ダルガンが口を挟んだ。
「俺と比べるなよ」
「まだ何も言ってないよ」
「言う顔してた」
僕は笑った。
---
翌朝。
六頭の馬を外へ出した。
ダルガンが先頭。
ナディラが荷馬を一頭。
僕も一頭。
ファルハドは、自分の馬だけだった。
「俺には荷馬いねえの?」
「いらん」
「力なら俺が一番あるぞ」
「馬の話をしてる」
「馬なら乗れる」
「山でも?」
ファルハドは少し黙った。
「……たぶん」
「じゃあ自分の馬だけ見てろ」
ザフラさんが戸口から笑った。
ファルハドには、昨日の薬草の包みが渡された。
「ほんとに頭が痛くなったときだけだよ」
「分かってます」
「飯に入れるなら少し」
「はい」
「ひどかったら下りる」
ダルガンが代わりに答えた。
「それでいい」
僕は馬に乗った。
「ザフラさん」
「なんだい、親玉」
「行ってくる」
「ああ。行っといで」
ダルガンも手を上げた。
「じゃあな、ババア」
「今度はなんか持ってこい」
「いらねえって言っただろ!」
ザフラさんが大声で笑った。
ファルハドが言った。
「今度、鶏のやつ作りますよ」
「そっちは持ってきな!」
「結局いるじゃねえか!」
ダルガンの声を背中で聞きながら、僕たちはハルザーンを出た。
町が少しずつ後ろへ遠ざかる。
前には、古い道があった。
人はほとんど通らない。
それでも誰かが橋を直し、石をどけ、鐘の縄を結び直している。
バフラムにもらった地図には、一つだけ妙な言葉が残っていた。
――晴れた日はここで休め。
僕はまだ、その意味を知らなかった。




