本の外へ
翌日も、僕は図書館へ行った。
ファルハドには呆れられた。
昨日の夜、あんなものを見たのだから、今日は一日寝ていてもいいんじゃないかと言われた。
僕も少しそう思った。
でも、朝になると目が覚めた。
朝食を食べた。
それから気がついたら、大図書館へ向かっていた。
習慣というのは恐ろしい。
いつもの席に座って、いつもの机に本を積んだ。
今日はアルダーンではなかった。
カルバーブの本だった。
正確には、父上と兄上について調べたかった。
死者の星環を兄上に使う前に、まだ本で分かることがあるなら、全部知っておきたかった。
父上については、すぐに見つかった。
ダルシャン王。
僕にとっては父上だったけれど、本の中ではずいぶん働いている人だった。
大王堰。
灌漑路の改修。
北へ延びる街道。
西部街道の宿駅整備。
河川輸送に関する税の整理。
知らないものもあった。
知っているものもあった。
大王堰は知っていた。
子供のころ、父上に連れていかれたことがある。
僕は大きな水面を見て、湖だと思った。
父上が笑った。
人が作ったものだと教えられても、しばらく信じなかった。
本には、その工事に何年かかり、どれだけの村へ水が行くようになったのかが書かれていた。
数字ばかりだった。
父上は僕に、そんな話はしなかった。
ただ、
――水があれば、人は生きられる。
そう言った。
本をめくった。
父上がまだ王子だったころの記録があった。
西方で争いが起きていた。
一つの戦ではない。
川からどこへ水を引くか。
誰が堰を管理するか。
街道を通る荷に誰が税を取るか。
新しく開いた畑は誰の土地か。
そんな争いがいくつも重なっていた。
西方には古くから暮らす諸部族がいた。
王都から見ればカルバーブの領内だったけれど、現地には現地の決まりがあった。
そこへ新しい水路と街道を通そうとした。
当然、揉めた。
僕は何冊か同じ時代の記録を探した。
どれにも同じ名前が出てきた。
ヴァルダーン。
当時の父上が、ヴァルダーン公を伴って西方へ向かった。
戦もあったらしい。
でも、大きな戦争にはならなかった。
部族ごとの水利を調べ、境界を引き直し、街道と水路を王家の事業として整え、その代わり現地の権利もいくつか認めた。
最後に、その一帯がヴァルダーン公爵領としてまとめられていた。
僕は別の本を開いた。
その後。
大きな記録はなかった。
反乱もない。
大規模な水争いもない。
街道はそのまま使われていた。
「……治まったんだ」
本に向かって言った。
誰も答えなかった。
大図書館ではよくあることだった。
次に、兄上を調べた。
ラシャン王。
こちらは驚くほど薄かった。
在位二年。
即位。
任官。
祭礼。
裁判。
税。
外国使節との謁見。
王として当たり前のことをしていた記録はある。
でも、それだけだった。
兄上は十六歳で死んだ。
王になって二年だった。
国を大きく変えるには短すぎた。
僕は何冊か探した。
同じだった。
最後には、もう知っていることが書かれていた。
王宮の火災。
王と王弟による騒乱。
二人の死亡。
王家の宝を持ち出した者が逃亡。
僕は本を閉じた。
僕は生きている。
だから、少なくともそこには嘘がある。
でも、どこから嘘なのかは分からない。
兄上について知りたかった。
なのに、兄上の本には兄上がほとんどいなかった。
代わりに王家の歴史を調べた。
カルバーブ王家は古くからパルキアとの結びつきが強い。
婚姻も多かった。
母上もパルキアの王女だった。
でも、南部は少し違った。
ずっと昔。
ガイウスが死んだ後、インドゥーラが大きく乱れた時代があった。
その混乱の中で、マウリンカとカルバーブがそれぞれ勢力を北と南から伸ばし、インドゥーラ中部を分けるようになった。
そのときカルバーブへ組み込まれた南部には、王家の傍流が置かれた。
それ以来、南部は代々、その家がまとめている。
同じカルバーブだった。
でも、西と南では国へ入った経緯が違う。
僕は紙に書き出した。
父上。
ヴァルダーン公。
西方諸部族。
水。
街道。
南部。
王家傍流。
兄上。
そして最後のところで、筆が止まった。
兄上のところだけ、先へ進まない。
「アシャン」
呼ばれた。
僕は顔を上げた。
図書館の人が立っていた。
「何ですか?」
「お前を訪ねてきた人がいる」
「僕を?」
ここへ僕を訪ねてくる人は少ない。
ファルハドなら勝手に来る。
宝石屋の人なら店へ呼ぶ。
「誰ですか?」
「ダルガンとかいう男だ」
僕は立ち上がった。
椅子が後ろへ鳴った。
「戻ったの?」
「そう言ってたぞ」
三か月だった。
本当に三か月近く経っていた。
僕は机を見た。
父上の本。
兄上の本。
カルバーブの地図。
アルダーンについて書かれた本も、まだ何冊か端に積んであった。
昨日までなら、もう一冊読んでから行ったかもしれない。
今日は本を閉じた。
---
ダルガンは図書館の外にいた。
前より日に焼けていた。
「遅い」
最初に言われた。
「すぐ来たよ」
「図書館に入って呼びに行かせてから結構待ったぞ」
「本を片づけてた」
「三か月いて、まだ片づいてないのか」
「増えた」
ダルガンはため息をついた。
それから僕の頭を軽く叩いた。
「元気そうだな」
「うん」
僕もダルガンを見た。
「そっちも」
「まあな」
「ナディラは?」
「兄貴の店だ」
「帰ってきたんだ」
「だから俺がここにいる」
それはそうだった。
「話がある」
ダルガンが言った。
「カルバーブの?」
「ああ」
僕は少しだけ身構えた。
ダルガンはそれを見た。
「今日じゃなくていい」
「え?」
「俺も疲れてる。ナディラもだ。明日、店に来い」
「今聞くよ」
「明日だ」
「でも――」
「三か月待ったんだろ」
そう言われると、何も言えなかった。
「一晩くらい待て」
「……分かった」
「飯は食ったか?」
「昼は」
「じゃあ食え」
「まだ夕方だよ」
「お前、三か月経ってもそこは変わってねえな」
何が変わっていないのか分からなかった。
---
翌日、ナディラの兄の店へ行った。
ナディラは帳面を見ていた。
僕を見ると笑った。
「大きくなった?」
「三か月で?」
「少し」
「本当に?」
「気のせいかも」
「どっち?」
「座りなさい」
僕は座った。
ダルガンもいた。
店の奥で、四人で話した。
最初に聞いたのは交易の話だった。
カルバーブとの道は閉じていない。
商人も通れる。
でも、人を見るようになった。
特に武器を持った集団。
素性の分からない者。
大人数で動く者。
「戦になるの?」
僕は聞いた。
ダルガンは首を振った。
「分からん」
「武器は?」
「売れてる」
「じゃあ――」
「武器が売れたら必ず戦になるなら、俺は毎年三回くらい逃げてる」
ナディラが笑った。
僕は笑えなかった。
「じゃあ、何が変なの?」
「食い物も一緒に動いてる」
ダルガンが言った。
保存できる食料。
馬具。
革製品。
武器。
そういうものをまとめて買う者がいる。
ナディラが続けた。
「安くなるまで待たないのよ。少し高くても持っていく」
「急いでる奴がいる」
ダルガンが言った。
宝石の話も聞いた。
カルバーブから来るはずの原石が減っている。
逆にサルマンドで加工された金細工や宝飾品も、以前ほどカルバーブへ入らない。
「それと」
ナディラが言った。
「ナジャール様を、次の王として扱う人が増えてる」
僕は黙った。
「王になったの?」
「なってないわ」
「じゃあ、どうして?」
「そういうものなのよ」
ナディラは帳面を閉じた。
「みんながそう扱い始めれば、商人もそう扱う。役人もそう扱う。そのうち、最初に誰が言い出したかなんて関係なくなる」
時間が経てば、嘘でも普通になる。
僕は昨日読んだ本を思い出した。
百年前の出来事なら、一行で終わることがある。
千年前なら、名前さえ消える。
「ヴァルダーン公は?」
僕は聞いた。
ダルガンが僕を見た。
「西の領地にいる」
「生きてる?」
「生きてる」
それだけで、僕は少し息を吐いた。
「病気だって話は変わらん。領地から出てこない」
「どのくらい悪いの?」
「知らん」
「すぐ死ぬ?」
「それも知らん」
僕は考えた。
ヴァルダーン公。
父上がまだ王子だったころ、一緒に西方へ行った人。
水と街道を巡る争いを治めた人。
父上の治世を知っている。
兄上も知っている。
王宮も知っている。
そして、まだ生きている。
「会いたい」
僕は言った。
「誰に?」
「ヴァルダーン公」
ダルガンは驚かなかった。
「兄貴のことは?」
「分からなかった」
「図書館でも?」
「うん」
右腕に触れそうになって、やめた。
死者の星環は服の下にあった。
「兄上について分からないなら、それはそのあとにする」
「そのあと?」
「ヴァルダーン公に聞いてから」
ナディラが僕を見ていた。
「生きている人から聞けることまで、死んだ兄上に聞くのは違うと思う」
ダルガンが少し黙った。
それから言った。
「やっと決めたか」
「うん」
ナディラも言った。
「なら、帰りましょうか」
帰る。
その言葉が不思議だった。
カルバーブへ帰る。
三か月前なら、怖いと思った。
今も怖い。
分からないこともたくさんある。
兄上に何があったのか。
誰が王宮に火をつけたのか。
王家の宝とは何なのか。
なぜ僕まで死んだことにされたのか。
何一つ解決していない。
でも、もう悩んではいなかった。
次に何をするかは決まった。
---
ファルハドには、別れを言いに行った。
仕事場にいた。
古い家の壁を眺めていた。
「ファルハド」
「おう、坊主」
「僕、行くことになった」
「どこへ」
「カルバーブ」
ファルハドの手が止まった。
「いつ」
「できるだけ早く」
「そうか」
思ったよりあっさりしていた。
「いろいろありがとう」
「まだ何も終わってねえだろ」
「僕の勉強は終わったよ」
「終わってねえよ。お前まだ馬鹿だぞ」
「そこまで治す予定だったの?」
「無理だな」
ひどい。
僕は笑った。
「じゃあ」
帰ろうとした。
「待て」
ファルハドに呼び止められた。
「持ってくのか?」
「何を?」
「あれだよ」
すぐ分かった。
「うん」
「兄貴に使うのか?」
「まだ分からない」
「まだ?」
「ヴァルダーン公に会う。それでも兄上のことが分からなかったら……たぶん」
ファルハドが壁から離れた。
「誰とやる」
「え?」
「あの儀式」
「それは……」
考えていなかった。
ダルガンか。
ナディラか。
あるいはヴァルダーン公か。
「必要になったら誰かに――」
「馬鹿か、お前」
「なんで?」
「あんな危ねえ儀式、今度は知らねえ奴にやらせようとしてんじゃねえよ」
「でも」
「俺も見たんだぞ」
ファルハドは自分の目を指した。
「お前だけが見たなら、お前の頭がおかしくなったで済む」
「ひどいな」
「俺も見たから困ってんだよ」
「でもファルハドには仕事があるでしょ」
「ある」
「家も」
「ある」
「じゃあ――」
「だから?」
僕は黙った。
「俺はもう関わったんだよ」
ファルハドが言った。
「あれが何なのか分からねえ。誰の記憶だったのかも分からねえ。けど、見た」
少しだけ声が低くなった。
「だったら最後まで付き合う」
「カルバーブまで?」
「そうだ」
「遠いよ」
「知ってる」
「山もあるよ」
「知ってる」
「仕事は?」
「親父も弟もいる」
「でも――」
「坊主」
「なに?」
「あんなもん一緒に見せといて、じゃあ元気でな、で終われると思ってんのか」
言われてみれば、少し無責任だったかもしれない。
「……ダルガンに聞かないと」
「誰だ」
「一緒に旅してる商人」
「強いのか?」
「元隊商護衛」
ファルハドは少し考えた。
「じゃあ先に言っとく」
「何を?」
「俺、喧嘩強いって言うのやめるわ」
「なんで?」
「本職と比べられたら困る」
そこは正直だった。
「荷物なら運べる」
「うん」
「馬も乗れる」
「山は?」
「……たぶん」
少し不安になった。
「あと料理できる」
「料理?」
「昔、食堂で働いてた」
初めて聞いた。
「なんで?」
「人にもそれなりに歴史があるんだよ、坊主」
僕はファルハドを見た。
大きな体。
埃だらけの服。
石を壊していた手。
あの夜、僕と一緒に知らない死者の記憶を見た人。
「分かった」
「よし」
「でもダルガンが駄目って言ったら駄目だからね」
「お前、王子じゃねえのか?」
「今それ関係ある?」
「ねえな」
翌日。
僕は三人でサルマンドを出るつもりだった。
なぜか、四人になった。




