輪を作る
夜になるまで待った。
別に、夜でなければならないと書いてあったわけじゃない。
ただ、死者を王にするのに、昼間はなんとなく違う気がした。
「それ、お前の神官としての判断か?」
ファルハドに聞かれた。
「……気分」
「おい」
「だって分からないんだよ」
僕は灯火を置いた。
古い壁の前には、昼間の解体現場とは違う静けさがあった。
壁の向こう側はもうほとんど壊されている。屋根もない。新しい家を建てるために運び出された石材が、少し離れたところに積んである。
それでも、この一枚だけは残された。
壁には人が描かれている。
丸く並んだ人々。
その中心に、一人。
頭の上には星。
足元には、白い粒のようなものが描かれていた。
最初に見たときは何なのか分からなかった。
いまは、たぶん穀物だと思っている。
「水」
ファルハドが器を置いた。
「ありがとう」
「次」
「穀物」
「ある」
小さな皿に入っていた。
「香」
「これか?」
「それ」
「飯作ってるみてえだな」
「僕もそう思ってた」
「神官が言うなよ」
僕は死者の星環を取り出した。
暗い色の腕輪だった。
生者のものと並べれば対だと分かる。
でも、こうして一つだけ持つと、ただ古い腕輪にしか見えない。
これをアルダーンが持っていた。
ザルカドで。
死ぬ直前まで。
それだけは、かなり確かだった。
でも、アルダーンを呼ぶつもりはなかった。
僕は星環を握った。
「まだやめてもいいぞ」
ファルハドが言った。
「二号が怖いの?」
「誰が二号だ」
「自分で言ったじゃないか」
「まだ一号もやってねえだろ」
「じゃあ今から僕が一号」
「勝手に決めんな」
少し笑った。
笑えたので、ちょっとだけ楽になった。
本当は怖かった。
兄上の顔が浮かんでいた。
何度も。
これで死者に触れられるなら。
兄上に聞けるかもしれない。
あの日、何があったのか。
どうして王宮が燃えたのか。
誰が兄上を殺したのか。
――殺した。
僕はその言葉を頭の中から追い出した。
まだ、決まっていない。
僕は兄上の死に方さえ知らない。
だから今日は兄上を呼ばない。
そう決めたはずなのに、指は星環を離さなかった。
呼ばないのは、兄上を忘れたいからじゃない。
むしろ逆だった。
もし本当に兄上の声が聞こえたら、僕は何を尋ねるのだろう。
何も知らないふりをして、ただ「兄上」と呼べるだろうか。
返ってきた声が、僕の知っている声でなかったら。
僕を責めていたら。
あるいは、何も言わずに、あの日の炎の向こうへ戻ってしまったら。
そのどれも、今の僕には受け止められない気がした。
兄上を呼ぶことは、答えを探すことではない。
一度開けたら、もう閉じられない扉に手をかけることだ。
僕はまだ、その向こうを見る覚悟がなかった。
「始めるよ」
「ああ」
僕たちは壁の前に立った。
古い記録をつなぎ合わせて作った儀礼だった。
正しいかどうかは分からない。
たぶん、昔の人が見たら笑うところがいくつもある。
僕は水に指を触れた。
それから穀物を少し取って、壁の前へ置いた。
香に火をつける。
煙が細く上がった。
「輪を作る」
僕が言うと、ファルハドが僕の隣へ来た。
二人しかいない。
それでも輪だった。
壁の中心に描かれた人物を囲むように、僕たちは立った。
誰を呼ぶかは決めていない。
この家にいた人かもしれない。
この神殿を使った人かもしれない。
この道を歩いた人かもしれない。
名前も知らない。
僕は星環を右手に持った。
そして、古い言葉を口にした。
「この地に残る死者を」
声が、思ったより響いた。
「一夜の王として戴く」
何も起こらなかった。
ファルハドを見た。
ファルハドも僕を見た。
「……終わり?」
「まだ」
「そうか」
僕はもう一度、壁を見た。
星。
人。
輪。
中心に座る死者。
「ここにいる者を、輪の内へ」
星環が冷たかった。
それだけだった。
僕は息を吐いた。
「やっぱり――」
音がした。
歌だった。
そう思った。
でも、どこから聞こえているのか分からなかった。
女の人の声のようでもあり、男の人の声のようでもあった。
僕は壁を見ていたはずだった。
なのに、白い布が見えた。
誰かが横たわっている。
顔は見えない。
周りに人がいる。
僕より小さな子供もいた。
老人もいた。
みんな何かを手に持っていた。
白い粒だった。
それを一つずつ置いていく。
星みたいだった。
夜だった。
知らない夜。
知らない場所。
知らない人。
なのに、僕はそこにいた。
誰かが言った。
――王。
別の声がした。
――帰る。
歌が続いていた。
横たわった人の手に、輪が置かれた。
腕輪じゃない。
もっと大きい。
草か、枝か。
誰かが編んだ輪だった。
その周りを人が囲んでいた。
輪の中に死者がいる。
星が落ちてきた。
違う。
穀物だった。
誰かが撒いている。
白い粒が、夜の中を落ちていた。
僕は手を伸ばした。
その瞬間、全部消えた。
壁があった。
灯火があった。
香の煙があった。
僕の手には死者の星環があった。
息が苦しかった。
「……ファルハド?」
返事がなかった。
僕は振り向いた。
ファルハドが座り込んでいた。
「大丈夫?」
「お前」
「なに?」
「今、何見た」
僕は答えなかった。
先に聞いた。
「ファルハドは?」
「白い服」
背中が冷たくなった。
「……ほかは?」
「人が丸く立ってた」
僕は星環を握った。
「それから?」
「なんか撒いてた」
「何を?」
「米みてえなやつ」
僕は何も言えなくなった。
ファルハドが僕を見る。
「お前もか」
「……うん」
しばらく二人とも黙っていた。
灯火が揺れた。
風が吹いただけだった。
たぶん。
僕は壁にもたれて座った。
「失敗だ」
「どこがだよ」
「誰だったのか分からない」
「知らねえ奴を呼んだんだから当たり前だろ」
「名前も分からない。いつなのかも分からない。あれが本当に記憶なのかも――」
「俺も見た」
「でも」
「俺も見た」
二回言われた。
僕は黙った。
それが一番困った。
僕だけなら、疲れていたと言えた。
本を読みすぎたせいでもいい。
古い壁を見続けて、変な夢を見た。
そういうことにできた。
でもファルハドも見た。
しかも、僕が何を見たか話す前に。
「なあ、一号」
「なに、二号」
「これ」
ファルハドが死者の星環を指した。
「兄貴には使うなよ」
胸の奥が縮んだ。
「……なんで兄上だと思ったの」
「顔に書いてある」
「書いてないよ」
「書いてる」
僕は星環を布に包んだ。
すぐにはしまえなかった。
手の中に置いたまま、しばらく見ていた。
兄上なら。
名前が分かる。
顔も知っている。
僕との関係もある。
王だった。
輪の中心に置く理由もある。
今日の知らない死者より、ずっと条件が揃っている。
だからこそ、怖かった。
条件が揃っているということは、呼べてしまうということだ。
呼べてしまえば、もう「分からなかった」では済まされない。
兄上の死を知らないままでいることは、苦しい。
けれど、知らないからこそ、まだ僕の中の兄上は、最後に見た姿のままでいられた。
もし呼び出した兄上が、僕の知らない顔で現れたら。
もし僕を見ても、弟としてではなく、王を失った国の一人としてしか見なかったら。
もし、僕がずっと欲しかった答えを聞いたあとで、兄上をもう一度失うことになったら。
僕は耐えられない。
それでも、いつかは呼ぶのだろう。
真実を知りたい気持ちは、恐怖より弱くはなかった。
ただ、今はまだ、恐怖に負けたのではなく、恐怖を抱えたまま踏みとどまることを選びたかった。
「使わない」
僕は言った。
「今は」
ファルハドは何も言わなかった。
僕は星環をしまった。
本なら、分からないところには印をつければいい。
別の本を探せばいい。
それでも分からなければ、また明日読めばいい。
でも、これは本じゃない。
死んだ人だった。
一度呼べば、答えだけでなく、兄上そのものに触れてしまう。
触れたあとで、手を離せるのか分からない。
僕は立ち上がって、壁の中心に描かれた人を見た。
名前は知らない。
どんな人生だったのかも知らない。
それでも一瞬だけ、僕たちはその人を王にした。
そして、その人が見たかもしれない夜を見た。
「帰ろう」
僕が言った。
ファルハドも立った。
「明日、図書館行くのか?」
「行く」
「まだ読むのかよ」
「読むよ」
「馬鹿な学徒だな」
「知ってる」
灯火を消した。
暗くなった壁の中で、星だけが最後まで見えていた。




