図書館にない壁
翌朝、大図書館から三人来た。
一人だと思っていた。
「多くない?」
「少ない方ですよ」
昨日の司書が言った。
「来たがった方は、もっといました」
「なんで?」
「古い壁が出たからです」
「壁だけで?」
「古い壁ですよ」
よく分からない。
でも、ここはサルマンドだ。
そういうものなのかもしれない。
*
三人は、全然違うところを見た。
一人は絵。
一人は文字。
もう一人は壁の位置と方角。
僕は文字を見る人の隣にいた。
ファルハドは壁を見る人の隣にいる。
「こっち、もう少し出せますか?」
「そこは駄目だ」
ファルハドが即答した。
「なぜです?」
「上の荷がかかってる」
「少しだけでも」
「駄目だ」
「でも文字が――」
「壁ごと落ちたら全部読めなくなるぞ」
「……ではやめましょう」
僕は少し嬉しかった。
昨日まで大図書館では僕がファルハドに教えていた。
今日は逆だった。
*
絵は、少しずつ姿を現した。
中央に一人。
その周りを囲む人々。
全員が完全な円を作っているわけではない。
ところどころ欠けている。
壁そのものが切られているからだ。
でも、元は輪だったらしい。
上には星。
下には何か並んでいる。
「米?」
僕が言った。
「麦では?」
研究者が言った。
「粒ですよね」
「粒ですね」
「なんで粒が?」
「分かりません」
またそれだ。
でも、最近は少し慣れた。
「死者へ供える穀物を星に見立てる信仰は、周辺地域にもあります」
「星を食べるの?」
「逆です。穀物を星と見るのです」
「同じじゃない?」
「かなり違います」
「そうかな」
研究者は困った顔をした。
*
文字の方はもっと難しかった。
僕にも読める。
でも全部ではない。
古い文字というだけではない。
言葉そのものが少し違う。
「ここ」
研究者が指した。
「あなたならどう読みます?」
「僕?」
「神官なのでしょう?」
心臓が跳ねた。
「……どうして?」
「昨日、古い祭祀文字を読めると聞きました」
「ああ」
そういう意味か。
「神官の勉強をしただけです」
「十分です」
僕は壁へ近づいた。
欠けた文字を読む。
「『輪を……作り』」
次がない。
「その下は?」
「『王を……』」
さらに欠けている。
研究者が別の読みを出した。
「『王を立て』では?」
「違うと思う」
「なぜ?」
「この字なら、立てるじゃなくて……戴く」
「戴く?」
「頭に置く方」
王を選ぶ。
王を立てる。
王として戴く。
似ているけれど、儀礼では違う。
「その違いは大きいですか?」
「大きい」
僕は即答した。
「王を作る儀式じゃない。すでにいる誰かを、王として扱う儀式になる」
研究者が紙に書き込んだ。
僕はその手を見ていた。
先生に教わったことが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
*
「坊主!」
ファルハドに呼ばれた。
「何?」
「こっち来い」
壁の裏側だった。
床が一部外されている。
「これ見ろ」
「何?」
「土台」
「石だね」
「お前、もうそれ言うな」
「だって石でしょう」
「こっちと比べろ」
今の家の土台。
古い壁の下。
高さが違う。
「古い壁の方が低い?」
「そう」
「じゃあ?」
「この家建てた時には、もう地面に埋まってた」
「え?」
ファルハドが足元を指した。
「昔はこっちが地面だったんだろ。後から土が上がった。そこへ新しい家建てて、残ってた壁をそのまま使った」
「じゃあ、この壁って……」
「思ってたより古いかもな」
「どのくらい?」
「知らん」
「やっぱりそこは分からないんだ」
「殴るぞ」
*
昼になっても調査は終わらなかった。
今日は解体仕事にならない。
「日当どうなるんだろ」
僕が言うと、ファルハドが呆れた。
「そこ気にするようになったな」
「一月一枚かかるんだよ」
「何が?」
「住むのに」
「図書館だろ?」
「図書館に住むのも金かかるんだよ」
「本当に囚人じゃねえか」
「囚人は金払わないでしょう」
「たしかに」
今日は研究者たちも一緒に食堂へ来た。
おじさんたちが少し緊張している。
最初だけだった。
「で、あれ何なんだ?」
一人が聞いた。
「まだ分かりません」
研究者が答えた。
「図書館から来たのに?」
「図書館から来ても、分からないものは分かりません」
おじさんが僕を見た。
「お前と同じこと言うな」
「僕が言わせてるわけじゃないよ」
*
午後は大図書館へ移った。
僕も今日は仕事ではなく、調査する側としてついていった。
壁画の写し。
文字の写し。
石の積み方。
壁の方角。
顔料。
周辺で過去に見つかった遺物。
古い市街地の地図。
いろいろ並べる。
ファルハドだけ、途中から退屈そうだった。
「帰っていい?」
「駄目」
「なんでだよ」
「壁のこと聞かれるかもしれない」
「もう話した」
「まだあるかも」
「お前、俺を本の一冊みたいに扱ってねえか?」
「喋る本」
「帰るぞ」
「待って」
*
夕方近くになって、一つ分かった。
壁はアルダーンより古い。
少なくとも、壁そのものは。
「本当に?」
「おそらく」
「何年前?」
「そこまでは」
「千年以上?」
「可能性は高いでしょう」
僕は写しを見た。
アルダーンがこの辺りまで来るより前。
太陽教が広く伝わるより前。
「じゃあ、星環じゃない?」
僕は聞いた。
「そうとも言えません」
「どういうこと?」
「この壁が古いことと、絵が同じ時代であることは別です」
「あ」
ファルハドが僕を見た。
「やっと分かったか」
「何が?」
「古い壁に、後から絵描くこともある」
「それ先に言ってよ!」
「聞かれてねえ」
腹が立つ。
でもその通りだった。
*
顔料の方から、もう少し絞れた。
壁ほど古くはない。
ただし今の太陽教の様式よりは、かなり古い可能性が高い。
「つまり?」
「古い建物の壁を、後の人々が祭祀に使ったのでしょう」
「それをさらに後の人が家に使った?」
「そう考えると自然です」
僕は壁の一生を想像した。
最初は何かの建物だった。
それが古くなった。
別の人が壁に絵を描いた。
その宗教もなくなった。
絵は漆喰で隠された。
その壁を誰かが家に使った。
家も何度か直された。
そして今、僕たちが壊している。
「よく残ったな」
ファルハドが言った。
「大切に守られたんじゃなくて?」
「途中から誰も絵があるって知らなかったんだろ」
「忘れられたから残った?」
「そういうこともある」
変な話だった。
*
問題は、絵だった。
古い宗教画を何冊も並べた。
星。
死者。
穀物。
輪。
王。
一つずつなら、似たものがある。
全部揃うものがない。
「図書館にない?」
僕が聞いた。
「同じものは、今のところありません」
「大図書館なのに?」
司書が僕を見た。
「大図書館だからこそ、ないものが分かるのです」
「それ、便利な言い方じゃない?」
「便利ですよ」
少し笑っていた。
*
僕は昨日借りた本を開いた。
死者を一夜の王として戴く儀礼。
その頁を見せる。
「これじゃない?」
「似ています」
「輪もある」
「あります」
「死者も王になる」
「そうですね」
「じゃあ」
「ですが、星環は描かれていません」
僕は止まった。
たしかに。
図の人たちは輪を作っている。
でも腕輪はない。
「じゃあ別物?」
「それも分かりません」
まただ。
*
僕は、自分の知っている儀式を書き出した。
今のカルバーブで使うもの。
王の戴冠。
神官の継承。
死者への祈り。
誓約。
臣従。
葬送。
似た言葉を探す。
すると、変なことに気づいた。
「これ……」
「何です?」
「今も残ってる」
「何が?」
「言葉」
死者を送るときに使う祈りの一節。
意味は少し変わっている。
今では、
死者を星々のもとへ送り、安らぎを願う言葉。
でも古い形では違う。
「『汝を王の座へ送り――』」
僕は読み上げた。
「今はここ、『星々の座へ送り』なんです」
「変わった?」
「たぶん」
さらに見る。
今の葬送では使わない一節。
古い本には残っている。
「『生者は輪を閉じ、死者は輪の内に座す』」
僕は黙った。
壁画を見る。
人々が輪を作る。
中央に一人。
同じだ。
*
「じゃあ、昔は死者を王にしてたのか?」
ファルハドが聞いた。
「毎回じゃないと思う」
「なんで?」
「全員王にしてたら大変でしょう」
「死んだら全員王様って、平等でいいじゃねえか」
「そういう話じゃないよ」
研究者が笑った。
「特別な死者を共同体の代表として戴く儀礼だった可能性があります」
「偉い奴?」
「必ずしも」
「じゃあ誰だ」
「それを調べています」
ファルハドが僕を見る。
「お前の出番じゃねえの?」
「僕だって知らないよ」
「神官だろ」
「千年前の神官じゃない」
*
その言葉を言ってから、少し引っかかった。
僕は千年前の神官ではない。
先生も違う。
その先生の先生も違う。
でも、誰かから誰かへ続いてきた。
言葉が変わった。
意味も変わった。
儀式も変わった。
それでも全部消えたわけではない。
古い形の欠片が、今の祈りの中に残っている。
壁と同じだ。
昔のものを壊して、全部作り直したわけではない。
使えるところを残した。
上から新しいものを重ねた。
「どうした?」
ファルハドが聞いた。
「神官も、壁みたいだなと思って」
「お前、ついに自分を建材だと思い始めたのか」
「違うよ」
*
夜になった。
研究者たちは帰った。
ファルハドも帰ろうとした。
僕はまだ残った。
「寝ろよ」
「もう少し」
「明日仕事だぞ」
「分かってる」
「馬鹿な学徒」
「はいはい」
ファルハドが去る。
僕は一人で机に残った。
古い祈り。
今の祈り。
壁画。
星環についての記録。
並べる。
まだつながらない。
無理につなげたら駄目だ。
似ているから同じものだと思うのは危ない。
先生にもそう教わった。
でも、一つだけ確かなことがある。
死者を王として戴く儀礼は、あった。
人々が輪を作った。
死者をその内側へ置いた。
それを示す文と絵が、別々に残っている。
そしてアルダーンは、ずっと後にザルカドで「死者」の星環を作った。
僕は紙の上に書いた。
古い死者の儀礼。
その下に、
アルダーン。
さらに、
死者の星環。
三つを線では結ばなかった。
まだ結べない。
その代わり、横に一つ書いた。
なぜ?
*
翌朝。
「おはようございます!」
「うるせえ!」
現場へ入る。
壁はまだそこにある。
ファルハドが僕を見るなり言った。
「今日は壊すぞ」
「えっ」
「壁じゃねえ。周りだ」
「ああ」
「何だその顔」
「壁壊すのかと思った」
「調査終わるまで残す」
「よかった」
「その代わり働け」
「分かってるよ」
僕は馬のところへ向かった。
荷を確認する。
綱を締める。
いつもの仕事が始まる。
でも、壁の前を通るたび、どうしても見てしまう。
昼前。
瓦礫を運び終えたところで、ファルハドが呼んだ。
「坊主」
「何?」
「これ」
壁の下から、小さな石片が出ていた。
ただの石ではない。
平たい。
表面に何か彫られている。
拾おうとした。
「待て」
ファルハドに手を叩かれた。
「なんで?」
「どこから出たか先に書け」
「あ」
「図書館の連中に言われただろ」
「……うん」
「学者先生」
「やめてよ」
場所を書く。
深さを書く。
向きを書く。
それから拾った。
土を軽く払う。
小さな石板だった。
半分ほど欠けている。
文字がある。
「読める?」
ファルハドが聞く。
「待って」
古い字。
昨日まで散々見た。
一行目は欠けている。
二行目。
僕は読んだ。
「……輪を作れ」
「何?」
もう一度読む。
「『輪を作れ』」
その下。
欠けている。
さらに下。
「『生ける者は――』」
そこで割れている。
裏返した。
何もない。
「続きは?」
「ない」
「探せばあるんじゃねえか?」
僕は地面を見た。
石。
土。
瓦礫。
今までなら、全部同じに見えた。
今日は違った。
「ファルハド」
「何だ」
「ここ、もう少しゆっくり掘っていい?」
「仕事増やすなよ」
「お願い」
ファルハドはため息をついた。
それから、おじさんたちへ声を上げた。
「この辺、つるはし使うな! 手で拾え!」
「また坊主か!」
「また僕です!」
笑い声が返ってきた。
僕は石板を握った。
昨日までは、本から壁を調べていた。
今度は壁の方から、続きを出してきた。
輪を作れ。
それは今のカルバーブの祈りにも残っている言葉だった。
そして、僕の右腕には。
その名を持つものがある。




