本にないもの
アルダーンが死んだあとの歴史は、急に分かりにくくなった。
正確には、分かりにくいというより、人が多すぎた。
王。
将軍。
王子。
王女。
地方総督。
従兄弟。
甥。
婚姻相手。
裏切った人。
裏切ったと思われていたけれど、実は最初から味方ではなかった人。
同じ名前の人。
同じ人なのに本によって名前が違う人。
僕は三日ほど頑張った。
四日目に諦めた。
「……全部読む必要ないな」
大図書館の机で呟いた。
向かいの学生が顔を上げた。
僕は何でもないという顔をして本へ戻った。
*
昼。
「坊主、今日は?」
「いっぱい死んだ」
「雑だな!」
「だって本当にいっぱい死ぬんだよ!」
おじさんたちが笑った。
「アルダーン死んでからどうなった?」
「みんな戦ってる」
「誰と誰が?」
「それを説明すると昼休み終わる」
「じゃあアンティゴノスは?」
「西」
「ガウリスは?」
「南から戻ってくる」
「ファルケンティスは?」
「パルキア」
「オルシャンは?」
「カルバーブ」
「分かりやすいじゃねえか」
「最初だけだよ!」
そこから婚姻やら同盟やらが増える。
国境も動く。
一つの戦争が終わる前に別の戦争が始まる。
しかも後世の歴史家は、それをまとめて大ディアドコイと呼んでいた。
「大ディアドコイ?」
「アルダーンの後継者争い」
「誰が勝った?」
「それが……」
僕は少し考えた。
「一人が全部取ったわけじゃない」
「じゃあ勝ってねえじゃん」
「そうとも言える」
「つまらんな」
「歴史って、いつも一人勝つわけじゃないよ」
ファルハドが言った。
「で、お前は何調べたいんだ?」
「え?」
「世界史の先生になるわけじゃねえんだろ」
僕は止まった。
*
その日の午後。
大図書館へ戻ってから、僕はしばらく本を開かなかった。
ファルハドの言葉が残っていた。
僕は何を調べたいのか。
アルダーンの生涯を知りたかったわけではない。
大ディアドコイを全部覚えたいわけでもない。
最初に知りたかったのは、もっと単純だった。
王宮の宝。
追手が探していたもの。
僕が持ち出したもの。
そして星環。
僕は紙の上に三つ書いた。
アルダーン。
オルシャン。
カルバーブ王家。
その横に、星環。
「これだけでいい」
全部知らなくていい。
必要なところだけ追う。
そう決めると、急に本の山が小さく見えた。
*
オルシャンについて調べ始めると、また困った。
「神官」
一冊目にはそう書いてある。
「東方代官」
二冊目。
「軍師」
三冊目。
「内務官」
四冊目。
「王弟」
それは役職ではない。
僕は五冊目を閉じた。
「……結局、何なんだこの人」
司書に聞いた。
「分かりません」
「また?」
「何をした人物かは、かなり分かっています」
「役職が分からない?」
「ええ」
「そんなことあるんですか?」
「あります」
「どうして?」
「後世の人が、自分たちの知っている役職名に当てはめたからでしょう」
僕は紙を見た。
神官。
書記官。
軍師。
代官。
王弟。
たしかに、全部少しずつ合っている。
どれか一つでは足りない。
「本人は何て名乗ってたんです?」
「残っているものでは、『陛下の神官』が一番多いですね」
「それだけ?」
「それだけです」
僕は少し笑った。
あれだけ何でもしておいて、それだけらしい。
*
オルシャンは、アルダーンが死んだあとカルバーブへ戻った。
そして王になった。
これは知っていた。
僕の家の古い系図にもある。
でも、その前後は詳しく習っていなかった。
ザルカドは、しばらくオルシャンが預かった。
その後、王家へ返している。
僕はそこを読んで感心した。
「ザルカドの独立を尊重して――」
次の史料を読む。
少し違った。
さらに読む。
もっと違った。
翌日の昼。
「オルシャン、ザルカド返した」
「いい奴じゃねえか」
「たぶん違う」
「なんでだ」
「遠いから」
おじさんたちが止まった。
「遠い?」
「カルバーブからずっと山越えないといけない。税を集めるのも兵を置くのも大変。ザルカド王家も残ってる」
「それで返した?」
「少しずつ」
ファルハドが頷いた。
「賢いじゃねえか」
「そうなの?」
「持ってても面倒なもんは、持ち主に返した方がいい」
「国を古材みたいに言わないでよ」
「使わねえ土地抱えてどうすんだ」
身も蓋もなかった。
でも、たぶん間違ってはいない。
*
面白かったのは、パルキアとの関係だった。
アルダーンが死んだあと、パルキアのファルケンティスとオルシャンは敵になっていない。
手紙がある。
商人を通す。
国境の揉め事を処理する。
逃げてきた兵の扱いを相談する。
ファルケンティスが援軍を求めたらしい記録もあった。
オルシャンは出していない。
でも、関係は切っていない。
「友達だったのかな」
僕は呟いた。
隣にいた司書が言った。
「友人だったかどうかは分かりません」
「そうですよね」
「ですが、関係を壊す必要がなかったのでしょう」
「それだけ?」
「国家間では十分では?」
それもそうかもしれない。
*
そして星環。
ここだけは、思ったより記録が多かった。
多すぎるくらいだった。
アルダーンが身につけた腕輪。
ザルカドで対になった聖具。
生者。
死者。
王。
神官。
誓約。
葬送。
後継者。
帝位。
世界聖王。
本によって意味が違う。
僕が習った教義では、星環は神官が継ぐ聖具だった。
でも西方の歴史家は違う見方をする。
アルダーンの帝位の証。
世界を統べる者の証。
東方諸王が欲した聖遺物。
「そんなものだったの?」
僕は右腕を押さえた。
今そこにある。
服の下。
旅に出るとき、ただ持ってきた。
正確には、持ってこなければならなかった。
神官だから。
僕が継承者だから。
それだけだと思っていた。
*
僕はアルダーン自身が、星環を後継者の証にしたのか調べた。
なかなか出てこなかった。
帝位の証。
後継者の証。
世界聖王位。
そう書いてあるのは、ほとんどアルダーン死後の本だった。
生前の記録に近づくほど、言い方が曖昧になる。
腕輪。
聖具。
王の輪。
誓約の輪。
僕は司書を捕まえた。
「アルダーンが『この星環を持つ者が自分の後継者だ』って決めた記録、あります?」
「私は知りません」
「ない?」
「ない、とは言えません。見つかっていない、と言うべきでしょう」
「じゃあ、どうして後継者の証になったんです?」
「後継者を争った人々が、そう扱ったからでは?」
僕は黙った。
「持っていることに意味ができた?」
「そう考える研究者は多いですね」
「最初から意味があったんじゃなくて?」
「最初の意味と、後から付いた意味が同じとは限りません」
僕はまた右腕を触った。
少し重くなった気がした。
腕輪自体の重さは変わっていないのに。
*
オルシャンは、アルダーンの死の前に星環を預かった。
それからカルバーブへ持ち帰った。
その後、星環はオルシャンの家系と王家のあいだを行き来する。
いや。
行き来したというより、だんだん一つになっていった。
婚姻。
相続。
養子。
神官家。
王家。
何代も重なった。
あるところで僕は系図を並べた。
一枚。
二枚。
三枚。
つなげる。
「……あ」
声が出た。
司書が振り向いた。
「すみません」
小さな声にした。
もう一度見る。
間違っていない。
星環がカルバーブへ来たのではない。
星環を持っていた人たちが、カルバーブ王家になっていった。
僕はずっと逆に考えていた。
アルダーンの宝が、どうしてカルバーブにあるんだろう。
そうではなかった。
オルシャンが持って帰った。
その家系が王家と結びついた。
だから残った。
「先生、これ教えてくれてたのかな」
たぶん、部分ごとには教わっていた。
オルシャン。
王家の系譜。
神官家。
星環。
僕が一つにつなげて考えていなかっただけだ。
*
昼飯で話すと、おじさんたちは思ったより興味を示さなかった。
「へえ」
「へえ、だけ?」
「だって持って帰ったんだろ?」
「そうだけど」
「じゃああるだろ」
「千年以上だよ?」
「家が続いてりゃあるんじゃねえか?」
僕は少し腹が立った。
三日かけて調べたのに。
「もっと驚いてよ」
「じゃあ、すげえ!」
「もういい」
ファルハドが笑った。
「で、それがお前の調べものと関係あんのか?」
「あると思う」
「思う?」
僕は少し迷った。
「まだ分からない」
「ならまだ途中だな」
「うん」
*
星環については、本がある。
アルダーンについてもある。
オルシャンについてもある。
カルバーブ王家についてもある。
でも、もう一つ調べてみた。
兄上の耳飾り。
左耳につけていた、小さなもの。
兄上が僕に渡した。
王家の品なら、何か残っているかもしれない。
最初はそう思った。
何冊か見る。
ない。
王家の装身具の記録。
ない。
歴代王の宝物。
ない。
儀礼具。
ない。
宝物庫の古い目録。
ない。
僕は司書にも聞いた。
「左耳だけにつける、小さな耳飾りです。カルバーブ王家の」
「年代は?」
「最近です」
「王のもの?」
「兄の」
「王だったのですか?」
一瞬、言葉が詰まった。
「……はい」
司書は僕を見た。
でも何も聞かなかった。
「最近の王室装身具でしたら、大図書館の収集対象とは限りません」
「どうして?」
「歴史的価値がまだ定まっていませんから」
「王のものでも?」
「王が毎日履いていた靴まで全部残しますか?」
「……残さない」
「そういうことです」
分かっていた。
でも少し寂しかった。
*
兄上の耳飾りは、本にない。
たぶん、歴史にとっては大したものではない。
兄上が使っていた。
僕に渡した。
それだけ。
だから僕には大切だった。
でも歴史書には関係ない。
星環は違う。
千年以上、本に残る。
誰が持っていたか。
誰が欲しがったか。
何の権威になったか。
何度も書かれている。
僕が持っている二つのものは、あまりにも違っていた。
右腕には、千年の歴史がある。
袋の中の小さな耳飾りには、何もない。
なのに、僕にはどちらも捨てられない。
*
その日の昼。
「坊主、元気ねえな」
「そう?」
「本に負けたか?」
「本には勝たないよ」
「じゃあ何だ」
僕は少し考えた。
兄上のことは話せない。
でも、全部隠す必要もない気がした。
「調べたい人のことが、何も載ってなかった」
「昔の人か?」
「……少し前」
「有名人?」
「僕には」
おじさんは、それ以上聞かなかった。
しばらくして言った。
「本に載ってねえなら、知ってる奴に聞きゃいいじゃねえか」
僕は顔を上げた。
「知ってる人がいなかったら?」
「物見るとか」
ファルハドが口を挟んだ。
「物?」
「本だけが残りもんじゃねえだろ」
僕は解体現場を思い出した。
古い梁。
昔の金具。
壁の中の銀貨。
誰かが隠した首飾り。
書物には載っていないけれど、物は残っている。
「家壊してるとさ」
ファルハドが言った。
「持ち主が何も言わなくても分かることあるぞ」
「どんな?」
「ここ直したな、とか。後から壁足したな、とか。昔の家の上に新しい家建てたな、とか」
「それ、歴史?」
「知らねえよ」
ファルハドは肉を食べた。
「俺は家壊してるだけだ」
*
午後、大図書館へ戻った。
でもすぐには本を開かなかった。
今まで書いた紙を並べた。
アルダーン。
パルキア。
カルバーブ。
オルシャン。
星環。
王家。
線でつながっている。
千年以上前のことなのに、かなり分かる。
戦争の日付まで分かる。
誰がどこへ行ったかも分かる。
ところが、ほんの少し前の兄上のことが分からない。
なぜ死んだ。
誰が殺した。
王宮で何があった。
なぜ僕まで死んだことにされた。
なぜ宝が盗まれたことになっている。
なぜ門では、誰かが何かを持ち出したと知っているように探していた。
本を何冊読んでも、その頁はない。
当たり前だった。
まだ本になっていない。
*
僕は紙の一番下に書いた。
兄上。
その横には、何も書けなかった。
しばらく見ていた。
それから、今までの紙を束ねた。
アルダーンについては前より詳しくなった。
カルバーブ王家についても前より詳しくなった。
星環についても、知らなかったことをたくさん知った。
兄上がどうして死んだのかは、三日前と同じくらい分からなかった。
「……ここから先は、本に聞いても分からない」
声に出した。
不思議と、それほど落ち込まなかった。
分からないことが分かった。
それだけでも、来た意味はあったのかもしれない。
*
翌朝。
僕はいつものように解体現場へ行った。
「おはようございます!」
「うるせえ!」
「もうこれ毎日やるんですか!」
笑い声。
馬に荷をつける。
帳面を受け取る。
ファルハドが、いつもと違う家を見上げていた。
古い家だった。
かなり古い。
壁の一部だけ、妙に石の積み方が違う。
「どうしたの?」
「これ」
ファルハドが壁を叩いた。
「後から作った壁じゃねえな」
「じゃあ?」
「もっと古い」
「この家より?」
「たぶん」
僕も見た。
分からない。
「何年前?」
「知らん」
「何の建物?」
「知らん」
「じゃあ何が分かるの?」
ファルハドが僕を見た。
「作り方が違う」
それだけ言って、壁へ戻った。
僕はその石を見た。
本にはないもの。
誰かが書かなければ消えるもの。
誰も書かなかったのに残っているもの。
昨日までなら、ただの古い壁だと思ったかもしれない。
「これ、壊すの?」
「壊す」
「ちょっと待って」
「なんだよ」
僕は壁へ近づいた。
石と石の間。
表面に塗られた漆喰。
その奥に、ほんの少しだけ色が見えた気がした。
「ファルハド」
「だから何だ」
「ここ、先に剥がしてみてもいい?」
ファルハドが僕の指したところを見る。
少し黙った。
「壊すなよ」
「分かってる」
「お前が言うと不安だな」
「僕だって少しは覚えたよ」
道具を借りた。
慎重に、表面を削る。
白い漆喰が落ちる。
その下から、色が出た。
赤。
青。
そして金色。
線になっている。
絵だ。
僕は手を止めた。
「……ファルハド」
「見えてる」
おじさんたちも集まってきた。
誰かが言った。
「また宝石か?」
「違う」
僕は答えた。
「たぶん、もっと面倒なもの」
ファルハドが笑った。
「図書館に住んでる坊主がそう言うなら、面倒なんだろうな」
僕は壁を見た。
昨日、本だけでは分からないと思った。
その翌朝に、壁の中から過去が出てきた。
偶然だ。
もちろん偶然だ。
でも。
「これ、調べたい」
僕が言うと、ファルハドはため息をついた。
「仕事増やすなよ、馬鹿な学徒」
「囚人よりいいだろ」
「どっちもお前だよ」
僕は笑った。
そして、もう一度壁を見た。
大図書館での調べものは、終わったわけではない。
ただ、本の外へ出る時が来たのだと思った。




