図書館に住む坊主
解体屋の朝は早い。
大図書館の朝も早い。
ただし、意味が違う。
大図書館では、朝早くから本を読む人がいる。
解体屋では、朝早くから壁を壊す。
僕はその両方にいることになった。
*
日の出より少し前に起きる。
顔を洗う。
昨日の埃が残っていないか確かめる。
大図書館を出る。
まだ涼しいサルマンドの街を歩いて、ファルハドたちの現場へ行く。
「おはようございます!」
「うるせえ!」
もう騙されない。
「おはようございます」
「今日は小せえな!」
「どっちでも文句言うじゃないですか!」
笑われる。
仕事を始める。
馬に荷を積む。
木材を運ぶ。
金具を分ける。
帳面を書く。
たまに石を運ぶ。
石は相変わらず重い。
「坊主、腕太くなったか?」
「なりました」
「なってねえよ」
「なりましたって」
「じゃあこれ持て」
「それは嫌です」
「賢くなったな」
こういうやり取りにも慣れた。
*
仕事は毎日同じではない。
家を丸ごと壊す日もあれば、壁だけを外す日もある。
屋根から始める日もある。
倉庫を片づけるだけの日もある。
僕にはどこから手をつければいいのか、まだよく分からない。
ファルハドには分かる。
「今日はこっちから」
「なんで?」
「向こうからやると梁が落ちる」
「どうして?」
「支えてるから」
僕は上を見る。
分からない。
「どれが?」
「それ」
「どれ?」
「お前、古代文字より梁覚えろ」
「午後は古代文字を読みたいんです」
「知ってるよ」
ファルハドは、建物を見る時間が長い。
壊す前に見る。
壁を叩く。
柱を見る。
継ぎ目を見る。
上へ行ったり、裏へ回ったりする。
それから、
「よし」
と言う。
そこからは早い。
壊していいところ。
残すところ。
先に外すところ。
最後まで触らないところ。
全部決める。
僕には家にしか見えないものが、ファルハドにはいくつもの部品に見えているらしい。
「ファルハド」
「なんだ」
「どうして分かるの?」
「仕事だから」
「僕もそのうち分かる?」
「何年かやればな」
「そんなに?」
「お前、宝石屋でも同じこと言っただろ」
言った。
「じゃあいいです」
「諦めんの早えな」
「僕、解体屋になるためにサルマンドにいるわけじゃないから」
「じゃあ何になるんだ?」
答えに困った。
王様です。
とは言えない。
「……まだ分かりません」
「十六ならそんなもんだろ」
ファルハドはそれ以上聞かなかった。
*
ある日、古い家から首飾りが出てきた。
「宝石だ!」
僕は思わず声を上げた。
「坊主!」
「はい?」
「手ぇ出すな!」
「出してません!」
おじさんが布の上に置いた。
銀の鎖に、赤い石が一つついている。
「ジャミールさんのところ?」
「たぶんな」
ファルハドが記録を確認する。
その家は、持ち主が死んだあと長く空き家になっていた。
相続する人も見つからず、家の中に残された物を含めて処分する契約になっているらしい。
「じゃあ、これ売れるんだ」
「石が本物ならな」
「たぶん柘榴石」
「たぶんで売るなよ」
「売りませんよ!」
ジャミールと同じことを言う。
その日の仕事が終わると、僕が首飾りを持っていくことになった。
もちろん一人ではない。
帳面と一緒に、おじさんがついてくる。
*
「柘榴石ですね」
ジャミールが言った。
「ほら」
「お前が言うな」
「僕もそう思ってた」
「思ってただけだろ」
「当たったじゃないですか」
ジャミールは石を光にかざした。
「大したものじゃない。ただ、細工は悪くない」
値段を決める。
僕は横で見ていた。
「どうだ、解体屋は」
「石が重い」
「そうだろうな」
「馬の仕事をしてます」
「ファルハドから聞いた」
「もう?」
「あいつ、ここに来るからな」
ジャミールは帳面を書きながら言った。
「日当も上がったそうじゃないか」
「上がりました」
「なら、うちより稼いでるな」
少し誇らしかった。
「宝石屋より?」
「見習いのお前と比べればな」
少しだけ誇らしさが減った。
*
解体屋の仕事が終わると、だいたいみんなで飯を食べた。
最初のうちは僕も自分の分を払っていた。
ある日も食べ終わって銀貨を出そうとすると、おじさんが僕の手を止めた。
「今日はいい」
「なんで?」
「俺が出す」
「自分で払えます」
「知ってるよ」
「じゃあ払います」
「坊主」
「はい」
「お前、勉強してる学生らしいじゃねえか」
「学生……みたいなものです」
「このぐらいしてやっても罰は当たらんぞ」
「でも」
「こんな細い坊主一人食わせたって、俺が酒二杯おかわりしたのと勘定変わらねえよ」
「そんなに食べてません」
「そういう意味じゃねえ」
向かいのおじさんが笑った。
「奢られとけ。うちの倅と飯食ってるようなもんだ」
「でも――」
「じゃあ出世したら返せ」
「出世?」
「偉い学者にでもなれ」
僕は困った。
たぶん、この人が考えているのとは違う意味で、偉くならなければならない。
「……分かりました。ありがとうございます」
「よし」
隣でファルハドが呆れていた。
「これだから、うちのオヤジらは甘いんだよ」
「じゃあファルハドが払います?」
「なんでそうなる」
*
別の日には、仕事のあと風呂へ連れていかれた。
サルマンドには人の多い浴場がいくつもある。
解体仕事のあとだから、ありがたかった。
湯につかる前に身体を洗う。
髪から砂が出た。
「お前、図書館にそのまま帰ってたのか?」
「服は払ってました」
「服じゃねえよ」
「顔も洗ってました」
「そういう問題か?」
自分ではきれいにしていたつもりだった。
その日から、何日かに一度は仕事帰りに浴場へ寄るようになった。
飯を食べる。
風呂に入る。
大図書館へ帰る。
そうすると眠くなる。
これが問題だった。
*
「……アシャンさん」
「はい!」
顔を上げた。
司書が立っていた。
「寝ていました」
「寝てません」
「寝ていました」
「目を閉じて考えてました」
「本に頬の跡がついています」
僕は本を見た。
ついていた。
「すみません」
「破損はしていませんから結構です」
司書は去っていった。
恥ずかしい。
向かいに座っていた学生が笑っている。
僕はもう一度本を開いた。
アルダーンはようやくティベルスとの戦争に入ったところだった。
僕が神官として習った歴史では、ティベルスなんてほとんど名前しか出てこない。
大図書館にはティベルス側の記録まであった。
もちろん、原本ではない。
後世の写本だった。
それでも、アルダーン側の記録とは書き方が違う。
ティベルス軍は精鋭を一方の翼へ集めていた。
斜めに敵へぶつけるような陣形。
アルダーンは、それを見て配置を変えた。
反対向きに似た形を作った。
そして敵の精鋭を受け止める場所に置かれた将軍の名前が――
「アンティゴノス」
僕は小さく読んだ。
どこかで聞いたことがある。
有名な名前だ。
猛将アンティゴノス。
演義にも出てくる。
でも、このころはまだそんな呼ばれ方をしていない。
若い将軍の一人にすぎない。
僕は少し面白くなって、そのまま読み進めた。
*
翌日の昼。
「坊主」
「はい」
「昨日は何読んだ?」
羊肉を食べていると、おじさんに聞かれた。
「アルダーン」
「お、いいじゃねえか」
「ティベルスとの戦い」
「知ってるぞ」
「本当に?」
「馬鹿にすんな。ここはサルマンドだぞ」
別のおじさんが口を挟んだ。
「アンティゴノスが敵の精鋭ぶっ潰すやつだろ」
「正確には、ぶっ潰したというより止めたんです」
「同じだろ」
「違いますよ。ティベルス軍は片翼に精鋭を集めて斜行陣を作って、それに対してアルダーンが――」
「ほら、アンティゴノスが止めたんじゃねえか」
「そこだけ聞かないでください」
ファルハドが笑った。
「で、勝ったのか?」
「勝った」
「じゃあいいじゃねえか」
「歴史ってそういうものじゃないですよ」
「勝ったか負けたかは大事だろ」
「大事だけど」
おじさんがパンをちぎった。
「それで次は?」
「次?」
「アルダーン、次どこ行くんだ?」
「まだ読んでません」
「なんだよ」
「昨日はそこで寝ちゃったから」
「図書館に住んでるのに本読みながら寝てんのか!」
笑われた。
まただ。
*
それから、昼飯のときに聞かれるようになった。
「坊主、今日は?」
「まだ朝ですよ」
「昨日の分だよ」
「アルダーンはティベルスを取った」
「それ昨日聞いた」
「その後の整理を読んでたんです」
「進まねえなあ」
「千年以上前のこと調べてるんだから仕方ないでしょう」
次の日。
「今日は?」
「ブルガノーブルへ向かい始めた」
「おお」
「知ってる?」
「知ってるに決まってんだろ」
「じゃあ僕が話す必要ないじゃないですか」
「細かいところは知らねえよ」
また次の日。
「坊主」
「はいはい。アルダーンですね」
「分かってきたじゃねえか」
「まだブルガノーブルに着いてません」
「遅え!」
「僕のせいじゃないよ!」
いつの間にか、みんなが続きを待つようになっていた。
僕も、昨日読んだことを話すようになった。
すると変なことが起きた。
「その城、どっち側から攻めたんだ?」
「西」
「港は?」
「……分からない」
「船は何隻だ?」
「書いてなかった」
「補給どうしてた?」
「そこまで読んでない」
「なんだ、坊主。勉強足りねえな」
「なんで僕が怒られるんですか」
でも午後、大図書館へ戻ると気になった。
港はどこだったのか。
船はどのくらいいたのか。
補給はどこから来たのか。
別の本を探した。
地図も見た。
翌日。
「港、ありました」
「お」
「西側と南側に記録がある。ただ、この時代の海岸線は今と少し違うみたい」
「船は?」
「そこまでは分からなかった」
「まだまだだな」
「うるさいなあ」
また笑われた。
*
そんな日が続いた。
朝は家を壊す。
昼は飯を食べる。
ときどき風呂へ行く。
午後は大図書館。
夜も本を読む。
寝る。
また朝になる。
ジャミールの店にも、ときどき解体現場から出た品を持っていった。
ナディラの実家にも顔を出した。
ダルガンとナディラにも会った。
でも僕は、大図書館の宿舎へ帰った。
そこに自分の本があり、書きかけの紙があり、翌日読む本が積んであったからだ。
*
ある夜。
閲覧室を出ようとしたところで、ファルハドがいた。
「……何してるの?」
「それ俺の台詞だ」
「僕は住んでるから」
「本当に住んでんだな」
「ずっと言ってるでしょう」
ファルハドは仕事の帳面を抱えていた。
古い建物について何か調べに来たらしい。
「お前、朝は俺んところだろ」
「うん」
「昼まで働く」
「うん」
「飯食う」
「うん」
「たまに風呂」
「うん」
「それからここ来て、夜まで本読んで」
「うん」
「ここで寝る」
「そう」
ファルハドがしばらく僕を見た。
「お前、馬鹿な学徒か、真面目な囚人みたいだな」
「なんでその二つなの?」
「自分から毎日同じことしてるから」
「学徒の方でいいじゃないか」
「馬鹿な、がついてるぞ」
「どっちも嫌なんだけど」
ファルハドが笑った。
「まあ、明日寝坊すんなよ」
「しないよ」
「今日は?」
「これから寝る」
「ならいい」
ファルハドは帰っていった。
僕も宿舎へ戻った。
机の上には、今日借りた本がある。
アルダーンはブルガノーブルへ向かっていた。
まだ落としていない。
僕は本を見た。
「明日でいいか」
閉じた。
明日の昼には、きっと聞かれる。
今日のアルダーンはどこまで行った、と。
いつの間にか僕自身も、その続きを少し楽しみにしていた。




