1枚の金貨
サルマンドの大図書館には、泊まれる。
そのことを僕は知らなかった。
「一月、一枚です」
受付の男が言った。
「銀貨?」
「金貨です」
僕は黙った。
聞き間違いではなかったらしい。
机の上に置いた革袋の中には、ダルガンから受け取った金貨が一枚入っていた。
サルマンドまで運んできた荷の仕事を手伝った分だ。
僕はそれを取り出した。
「一月で?」
「一月で」
「寝るところも?」
「あります」
「本も読める?」
「そのための大図書館です」
「夜も?」
「夜間閲覧室があります」
「灯りは?」
「あります」
「水は?」
「共同ですが」
少し考えてから聞いた。
「食事は?」
「別です」
そこは別なのか。
受付の男は僕の顔を見て、少しだけ笑った。
「食堂があります。一日に一種類だけですが、安いですよ」
「一種類?」
「今日なら豆と羊肉です」
「明日は?」
「明日にならないと分かりません」
変な食堂だと思った。
「珈琲は?」
「閲覧者用のものがあります」
「それは別料金?」
「いいえ」
僕は金貨を机に置いた。
「じゃあ、一月」
「承りました」
金貨がなくなった。
あまりにも簡単だった。
受付の男は帳面に何かを書き、僕の名前を聞いた。
「アシャン」
「家名は?」
「……ありません」
少しだけ間を置いて答えた。
男はそれ以上聞かなかった。
「学生ですか?」
「神学を勉強していました」
「では神学?」
「今日は歴史を」
「歴史ですね」
それも帳面に書かれた。
こうして僕は、サルマンドの大図書館に住むことになった。
*
寝台は狭かった。
でも、悪くなかった。
寝台と、小さな机。荷物を置く棚。窓は一つ。
王宮の自室とは比べるまでもない。
ダルガンたちと旅をしている間に泊まった宿と比べても、広くはなかった。
ただ、静かだった。
何より、階段を下りれば本がある。
それだけで十分だった。
荷物を置いてすぐ、僕は閲覧室へ向かった。
まず調べたいことは決まっていた。
カルバーブ王国の宝。
ナーヴァーンの門では、王宮から持ち出された宝を探していた。
兄上と僕は死んだことにされている。
僕たちをそそのかした何者かが王宮に火を放たせ、その者が宝を盗んで逃げた。
それが今、外で語られている話だった。
もちろん、少なくとも半分は嘘だ。
僕は生きている。
では、宝とは何だろう。
王宮には宝物がたくさんあった。
古い剣。
儀礼用の鎧。
歴代の王が外国から贈られた器。
冠。
宝石。
古文書。
王印。
数えればきりがない。
でも、それだけのために門を閉じて旅人の荷物まで調べるだろうか。
僕が王宮から持ってきたものを思い返した。
服。
少しの金。
兄上から渡された左耳の耳飾り。
それから――星環。
右腕に触れた。
衣服の下に、腕輪がある。
これは王宮の宝ではない。
神官が受け継ぐ聖具だ。
少なくとも僕は、そう教えられてきた。
それでも、門の兵士たちは何かを探していた。
しかも妙だった。
何かが盗まれた、ではない。
誰かが王宮から持ち出した。
そう知っているような探し方だった。
「……どうして、なくなったって分かるんだろう」
呟いた。
「何がです?」
声をかけられた。
顔を上げると、司書が立っていた。
「あ、いえ」
僕は慌てて首を振った。
「カルバーブ王国の宝物について調べたいんです」
「宝物」
「王家のものです。特に、昔から受け継がれているもの」
「年代は?」
「分かりません」
「種類は?」
「それも」
司書が僕を見た。
僕も司書を見た。
「……何も分からないんですね」
「だから調べに来たんです」
「なるほど」
怒られなかった。
司書は少し考えてから言った。
「でしたら、王家から調べた方が早いでしょう」
「王家?」
「何を持っていたか分からないのでしたら、誰が持っていたかを調べるのです」
なるほど。
その発想はなかった。
*
最初に出てきた名前は、知っている名前だった。
アルダーン。
知らないはずがない。
神官だった僕にとって、アルダーンは聖典にも祭儀にも出てくる。
世界の聖王。
太陽の教えを広めた王。
星環を身につけた者。
子供のころから何度も聞かされた。
ただし、僕はアルダーンが好きだったわけではない。
神官だから勉強した。
それだけだ。
ところが大図書館で渡された本は、僕が習ったものとは少し違った。
アルダーンは祈ってばかりいなかった。
というより、ほとんど戦っていた。
アルディス。
ティベルス。
ブルガノーブル。
ブルガンティス。
パルキア。
インドゥーラ。
ザルカド。
「……こんなに?」
僕は頁を戻した。
やっぱり同じだった。
宗教書では、地名はもっと簡単に書かれていた。
東へ進んだ。
諸王を従えた。
教えを広めた。
それで済んでいた。
こっちでは、誰がどこで兵を集め、どの道を通り、誰と戦ったかまで書いてある。
しかも本によって違う。
ある本では英雄だった。
別の本では侵略者だった。
さらに別の本では、税制の話ばかりしていた。
「どれが本当なんだろう」
「全部かもしれませんし、どれも違うかもしれません」
さっきの司書だった。
「どっちが正しいんですか?」
「分かりません」
「図書館なのに?」
「図書館ですから」
意味が分からなかった。
でも、この図書館にいる間に、何度も同じ言葉を聞くことになる気がした。
*
夕方、食堂へ行った。
本当に料理は一種類しかなかった。
豆と羊肉。それと平たいパン。
「選べないんですか?」
「選べません」
食堂の女の人が即答した。
「嫌いなら?」
「明日に期待してください」
仕方なく食べた。
おいしかった。
それが少し悔しかった。
食後、もう一度閲覧室へ戻った。
アルダーンについて読む。
その子孫について読む。
カルバーブ王家との婚姻について読む。
星環については、まだ探さなかった。
まず王家を追えと司書に言われたからだ。
気づけば外は暗くなっていた。
珈琲を一杯もらった。
薄かった。
でも無料だった。
いや。
無料ではない。
僕は金貨を一枚払っている。
「……もう払ってるんだ」
そう考えると、二杯目も飲んでいい気がした。
*
寝台に戻ったのはかなり遅くなってからだった。
小さな机に革袋を置く。
中身を出した。
銀貨。
銅貨。
それから、サルマンドへ来る途中で得た金。
数えた。
もう一度数えた。
金貨はない。
当たり前だ。
朝、自分で払った。
「……あ」
ようやく気づいた。
一月後。
また金貨が一枚いる。
食事代もいる。
紙も買いたい。
写本を頼めば、もっとかかる。
ここに何か月いることになるかも分からない。
僕は寝台に座った。
王宮にいたころ、金貨一枚がどれくらいのものなのか、ちゃんと考えたことがなかった。
旅を始めてから、少しは分かるようになったつもりだった。
全然分かっていなかった。
机の上の銀貨を見た。
「働かないと」
口に出してみると、妙な感じがした。
神官として仕事をしたことはある。
儀式をした。
文書を書いた。
人の話を聞いた。
でも、それで日当をもらったことはない。
翌朝。
僕は大図書館を出た。
向かうところは決まっていた。
ナディラのお兄さんが、サルマンドで宝石屋をやっている。
宝石なら少し分かる。
ナディラに教えてもらったこともある。
少なくとも、本を運ぶよりは役に立つかもしれない。
僕はそう思っていた。
このときはまだ、自分が一週間後には古い家を壊しているとは思っていなかった。




