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星の降る道ⅰ 死者の星環  作者: 超魔王
エピソード0 兄の国
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3/65

街の外へ

夜が明けるまで、僕は王都にいた。


逃げろと言われた。


兄上にも。


ヴァルダーンにも。


それでも、すぐに町の外へ出ることはできなかった。


白河宮が見えなくなるのが怖かったのだと思う。


僕は大通りから外れた細い路地にいた。


店の軒下に身体を寄せて、遠くの空を見ていた。


白河宮の方だけが赤かった。


ときどき火の粉が上がった。


風向きが変わると、焦げた匂いがした。


もう、祭りの爆竹は鳴っていなかった。


代わりに馬が走る音がした。


誰かが叫んでいた。


兵士たちが何度か通りを駆けていった。


そのたびに、僕は物陰へ身体を隠した。


どうして隠れているのか、自分でもよく分からなかった。


僕は悪いことをしていない。


僕は王国司祭だ。


白河宮は僕の家だ。


だったら、堂々と戻ればいい。


そう思って立ち上がりかけたこともあった。


でも、そのたびに兄上の声を思い出した。


――行け。


僕は左手を握った。


掌の中には、兄上から渡された耳飾りがあった。


縁が掌に当たった。


痛かった。


それでも、離さなかった。


「……兄上」


返事はなかった。


僕はまた座った。


眠ったのかどうかは分からない。


気がついたときには、空が白くなっていた。


◇


昨日までの夏至祭は終わっていた。


けれど、町は静かになっていなかった。


むしろ昨日より騒がしかった。


僕は人の流れについて大通りへ出た。


昨日、ミーラーと歩いた道だった。


屋台のいくつかは、まだ残っていた。


米菓子を売っていた店もあった。


昨日はそこで、ぽん、ぽん、と米の弾ける音を聞いた。


今日は主人が店を閉めるために板を打ちつけていた。


その前を、大きな荷物を抱えた人たちが通っていく。


子供の手を引く母親。


荷車を押す男。


籠を背負った老人。


馬を引く商人。


みんな町の門へ向かっていた。


「王宮が焼けたってよ」


誰かが言った。


「王様は?」


「知らねえよ」


「兵が動いてるらしい」


「何があったんだ?」


「門が閉まるかもしれんぞ」


「出るなら今のうちだ」


昨日、笑っていた人たちと同じ人なのだろうか。


同じ場所なのに、違う町のようだった。


僕は白河宮の方を見た。


朝の光の中でも、煙が見えた。


帰らなければ。


そう思った。


でも、足は動かなかった。


兄上は逃げろと言った。


ヴァルダーンも僕を逃がした。


なら、今戻ったら二人がしたことを無駄にしてしまうのかもしれない。


では、どこへ行けばいいのだろう。


分からなかった。


王都の外に何があるかなら知っている。


地図でなら。


北へ向かえばザルカド。


東の山々を越えればサルマーン。


西へ続く大街道の先にはパルキアがある。


僕はそういうことなら知っていた。


でも、今日どこへ行けばいいのかは知らなかった。


宿に泊まるにはどうすればいいのか。


食べ物はいくらするのか。


馬はどこで借りるのか。


考えてから、もっと大事なことに気づいた。


僕は自分の服を探った。


何もなかった。


お金を持っていなかった。


「……どうしよう」


口にしてみると、本当にどうすればいいのか分からなかった。


「おい」


後ろから声がした。


振り返った。


知らない男がいた。


一人ではない。


三人いた。


「坊主。一人か?」


「はい?」


「親はどうした」


「親は――」


答えられなかった。


男たちが顔を見合わせた。


「どこの家の子だ?」


「どうしてですか?」


「いいから来い。こんなところ一人で歩いてたら危ねえぞ」


男の一人が僕の腕をつかんだ。


驚いた。


「離してください」


「いいから」


「どこへ行くんですか?」


「こっちだよ」


腕を引かれた。


「だから、どこへ――」


「騒ぐな」


強くつかまれた。


痛かった。


そこで初めて、これは何かおかしいのではないかと思った。


「離してください!」


「おい」


別の声がした。


三人が振り返った。


僕も見た。


旅装の男が一人、こちらへ歩いてきていた。


日に焼けた顔をしていた。


腰には短剣。


手には、荷物を縛るのにでも使っていたのか、一本の棒を持っていた。


「なんだ、おまえ」


僕をつかんでいた男が言った。


旅装の男は答えなかった。


僕を見る。


僕の腕をつかんでいる手を見る。


それから、三人を見た。


「そいつ、嫌がってんだろ」


「関係ねえよ」


「じゃあ離せよ」


「こいつは俺たちの知り合いだ」


僕は驚いた。


「違います」


三人が僕を見る。


旅装の男も僕を見た。


「だそうだけど」


「ガキの言うことだ」


「だったら余計に、三人がかりで引っ張ってく必要ねえだろ」


「失せろ」


旅装の男は少し黙った。


それから、ため息をついた。


「朝っぱらから、ガキ相手に三人がかりか」


棒を肩に載せた。


「景気の悪い商売してんな」


最初にどちらが手を出したのか、僕には分からなかった。


一人が旅装の男の胸を押した。


次の瞬間、その男が地面に転がっていた。


何をしたのか、よく見えなかった。


もう一人が殴りかかった。


旅装の男は身体をずらした。


棒が動いた。


男の腕に当たった。


「痛え!」


僕の腕をつかんでいた手が緩んだ。


「こっち来い!」


言われるまま、僕は走った。


旅装の男の後ろへ回る。


「待て!」


一人がこちらへ来ようとした。


旅装の男が棒を横にした。


「まだやるか?」


周囲の人たちもこちらを見始めていた。


三人はしばらく睨んでいたけれど、やがて舌打ちをして、人混みの中へ消えていった。


僕はその背中を見送った。


「……なんだったんでしょう」


「知らねえよ」


旅装の男は棒を下ろした。


「チンピラじゃねえのか」


「チンピラ?」


「知らねえのか?」


言葉なら知っている。


「どうして僕に?」


男は僕を見た。


頭から足まで眺める。


「そんな良い服着て、一人でふらふらしてたから絡まれたんじゃねえか?」


僕も自分の服を見た。


昨日から着たままだった。


煤で汚れている。


裾も少し破れていた。


「これ、そんなに良い服ですか?」


男が黙った。


僕の服を見る。


僕を見る。


もう一度、服を見る。


「……おまえ、本当にどこの子供だよ」


答えられなかった。


本当のことを言っていいのか分からない。


では、嘘をつけばいいのだろうか。


でも、何と言えばいい?


僕は嘘のつき方なんて習ったことがなかった。


黙っていると、男は肩をすくめた。


「まあいい」


それ以上、聞かなかった。


「ありがとうございます」


僕は頭を下げた。


「助けていただいて」


「ああ」


それだけだった。


男は棒を持ち直した。


「じゃあな」


「え?」


歩いていってしまう。


僕は慌てて声をかけた。


「待ってください」


男が振り返った。


「なんだ?」


「その……」


自分でも、何を言おうとしたのか分からなかった。


この人がいなくなったら、僕はまた一人になる。


男は少し僕を見てから言った。


「とりあえず、どこの子供か知らねえけど」


門の方を顎で示した。


「おまえ、どうすんだ?」


「どうするって?」


「これからだよ。俺は行くけど」


「どこへ?」


「王都の外」


男は町の様子を見回した。


「こんな有様じゃ商売にならねえしな」


僕は白河宮を見た。


煙はまだ上がっていた。


昨日まで、あそこが僕の家だった。


戻りたい。


でも、戻ってどうすればいいのか分からない。


兄上がどうなったのか分からない。


ヴァルダーンがどこにいるのか分からない。


ミーラーが無事なのかも分からない。


「……僕、追われているんでしょうか」


「追われてる?」


男が後ろを見た。


僕も振り返った。


誰もいなかった。


「誰に?」


「さっきの人たちです」


「あれか?」


男は眉を寄せた。


「いい服着て一人でいたから、絡まれただけじゃねえのか?」


「そうなんですか?」


「たぶんな」


「でも、僕を連れていこうとしていました」


「だから絡まれたんだろ」


僕には、その違いがよく分からなかった。


男は僕の顔を見た。


「追われてるってのは、後ろから追っかけてくる奴がいてから言え。今のところはいねえよ」


「……なるほど」


「おまえ、大丈夫か?」


たぶん、大丈夫ではない。


でも、何が大丈夫ではないのかもうまく説明できなかった。


「家は?」


僕は白河宮を見た。


「……帰れません」


「親は?」


「いません」


男は少し黙った。


でも、それ以上は聞かなかった。


「親戚は?」


叔父上がいる。


そう答えようとして、やめた。


今、叔父上のところへ行っていいのだろうか。


それすら分からなかった。


「じゃあ、行くところは?」


僕は考えた。


国の名前なら、いくつも知っている。


町の名前も知っている。


古い街道がどこを通っているのかも知っている。


でも。


僕自身が、今どこへ行けばいいのか。


それは知らなかった。


「……ありません」


男は僕を見た。


「そうか」


それだけ言って、歩き出した。


本当に行ってしまうらしい。


「待ってください」


男が振り返った。


「なんだ?」


「僕も……」


言葉が止まった。


人に何かを命じる言葉なら知っている。


神に祈る言葉も。


死者へ捧げる言葉も。


儀礼で使う言葉も知っている。


でも、知らない人に助けを頼む言葉は、ほとんど使ったことがなかった。


それでも、言ってみれば簡単だった。


「僕も、連れて行ってください」


男が僕を見る。


「俺についてくるのか?」


「はい」


「どこへ行くかも知らねえだろ」


「知りません」


「俺が誰かも知らねえだろ」


僕はそこで初めて気がついた。


この人の名前すら知らない。


「……知りません」


男が笑った。


「だろ?」


「でも」


僕は白河宮を見た。


「ここに一人でいるよりは、いいと思います」


男は少しだけ考えた。


「馬、乗れるか?」


「乗れます」


僕はすぐに答えた。


馬には乗ったことがある。


だから、乗れるのだと思っていた。


男は頷いた。


「なら来い」


「いいんですか?」


「行くところねえんだろ?」


「……はい」


「じゃあ早くしろ。門が混む」


男はもう歩き始めていた。


僕も、そのあとを追った。


数歩進んだところで、男が何か思い出したように言った。


「ナディラ――」


そこで一度、言葉を切った。


「いや、連れが外で待ってる」


門の向こうを指した。


「一緒に行くぞ、坊主」


「坊主……」


「早く来い。置いてくぞ」


僕は足を止めた。


最後に一度だけ、振り返った。


昨日、兄上と笑った町だった。


米菓子を食べた。


爆竹の音を聞いた。


来年の話をした。


その向こうで、白河宮からまだ煙が上がっていた。


戻りたかった。


でも、今は戻れなかった。


「坊主!」


男が呼んだ。


「今行きます!」


僕は前を向いた。


そして、まだ名前も知らない男のあとを追って、町の外へ向かった。

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