山の上の世界
朝。
目を覚ますと、竈の火は消えていた。
灰の前には、もうダルガンがしゃがんでいる。
「おはよう」
「おう」
手には火打石。
昨日の夜から言っていた。
朝の火は自分がつける、と。
カチッ。
火花が飛んだ。
消えた。
もう一度。
カチッ。
「手伝おうか?」
水筒を持ったバフラムさんが、後ろから覗いた。
「いらん」
「そう」
バフラムさんはあっさり外へ出ていった。
三度目で火がついた。
ダルガンが満足そうに頷く。
「ほらな」
「昨日より時間かかったよ」
「朝は湿気てんだよ」
本当かどうかは知らない。
僕は小さな炎を見た。
昨日の夜、一瞬だけ思い出した王宮の火は、今朝は浮かんでこなかった。
それに少しだけ安心した。
朝食を食べた。
荷物をまとめる。
バフラムさんが戻ってきた。
でも、少し変な顔をしていた。
「困ったな」
ダルガンがすぐに聞いた。
「どうした」
「昨日、向こうから来た郵便があっただろ」
「見たな」
「あの人たちに聞いたんだけど、いつもの道が崩れた」
「どこだ?」
二人は地図を広げた。
僕も覗き込む。
バフラムさんが指を置いた。
「この沢」
そこから指を東へ動かす。
「普段ならここを抜ける。一番早い」
「通れないのか?」
「馬はやめた方がいい」
「人は?」
「行けるかもしれない」
「なら行く?」
僕が聞いた。
バフラムさんが僕を見た。
「行かないよ」
「でも行けるかもしれないんでしょ?」
「荷物と馬と君たちを連れて、『かもしれない』で行く必要ないからね」
昨日も似たようなことを言っていた。
山で「たぶん」はやらない。
「こっちを使う」
バフラムさんの指が北へ回った。
ずいぶん大きく迂回する。
「遠くない?」
「遠いよ」
「どのくらい?」
「今日はよく歩く」
嫌な言い方だった。
「大変?」
「大変」
もっと嫌になった。
ところがバフラムさんは笑った。
「でも、いいこともあるぞ」
「何?」
「せっかくだから、いい場所に連れてってやる」
「何があるの?」
「景色」
「景色?」
「この辺じゃ一番だ」
ダルガンが地図を見る。
「高い方へ回るのか」
「そう」
「馬は?」
「通せる。細いところはあるけどね」
ナディラが荷物を見た。
「なら行くしかないわね」
「ほかに道は?」
「あるよ」
僕は期待した。
「もっと楽?」
「三日余計にかかる」
「こっちにしよう」
すぐ決まった。
出発した。
最初のうちは昨日と変わらなかった。
石の道。
鐘。
水場。
ところが、途中から急に登りがきつくなった。
「まだ?」
「まだ」
「どのくらい?」
「まだまだ」
「さっきより増えてない?」
「歩いてるから減ってるよ」
絶対にそういう意味じゃない。
昼前には、僕は景色なんてどうでもよくなっていた。
「バフラムさん」
「うん?」
「本当にいい場所なんだよね?」
「いい場所だよ」
「大したことなかったら怒るよ」
「それなら連れていかなきゃよかったって後悔するな」
「僕が?」
「俺が」
ずるい。
道はさらに高くなった。
木が減った。
風が強くなった。
馬を一頭ずつ通すところもあった。
一度、ヴァルシャが立ち止まった。
僕が引いても動かない。
ダルガンが来た。
「引っ張るな」
「でも動かない」
「足場見てんだよ」
少し待つ。
ヴァルシャは自分で一歩進んだ。
「こいつの方がお前より山道うまいぞ」
「馬なんだから当たり前だよ」
「そう思うなら任せろ」
また一つ覚えた。
午後になった。
尾根へ出る。
僕は息を切らしていた。
「もう?」
「もう少し」
「絶対?」
「今度は本当」
バフラムさんが笑った。
道から少し外れた。
馬を風の弱い窪地へつなぐ。
そこからは歩きだった。
岩の間を登る。
最後に、大きな岩を回り込んだ。
「ほら」
バフラムさんが言った。
僕は前へ出た。
そして。
言葉が出なかった。
山が、なくなっていた。
いや。
なくなったわけじゃない。
僕たちのいるところから、ずっと下へ落ちている。
その向こうに、平野が広がっていた。
どこまでも。
川が何本も光っている。
森がある。
その向こうに、もっと平らな土地がある。
遠くは霞んでいた。
どこまでが地面で、どこからが空なのか分からない。
「……何?」
やっと、それだけ言った。
「インドゥーラ」
バフラムさんが答えた。
「これが?」
「見えてるのはほんの一部だけどね」
僕は知っていた。
インドゥーラ地方。
古い王国。
川。
都市。
街道。
宗派。
王朝。
アルダーンの東征。
カルバーブの歴史。
何冊も読んだ。
地図だって見た。
でも。
「こんなに広いの?」
バフラムさんが笑った。
「広いよ」
ダルガンが横に立った。
「あの辺りがカルバーブだ」
指さす。
僕は目をお細めた。
「あっち?」
「そうだ」
さらに南へ視線を動かす。
「もっと下ればマウリンカ方面だ」
「見える?」
「国境なんか見えねえよ」
確かに。
どこにも線はなかった。
僕は少し笑った。
地図には線がある。
ここから見ると、ない。
川が流れている。
山が続いている。
森がある。
畑らしい色がある。
それだけだった。
「サルマーンは?」
「反対」
バフラムさんが後ろを指した。
山しかない。
「見えないね」
「山の向こうだからね」
僕はもう一度、インドゥーラを見た。
カルバーブも、その中にあった。
僕が今まで国だと思っていたものが、広い土地の中に置かれている。
王宮にいたころ。
カルバーブは大きかった。
国の地図を広げれば、紙いっぱいにカルバーブがあった。
でもここでは違う。
カルバーブの向こうにも土地がある。
その向こうにもある。
川は国境で止まらない。
道も止まらない。
人も行き来する。
「すごい」
結局、それしか言えなかった。
バフラムさんは満足そうだった。
「来てよかっただろ?」
「うん」
「登るの大変だったろ?」
「うん」
「帰りも大変だぞ」
僕は振り向いた。
「先に言わないでよ」
バフラムさんが笑った。
ナディラも笑っている。
ダルガンは遠くを見ていた。
僕はもう一度、下を見た。
どこかに父上の造った堰がある。
どこかに王都がある。
どこかに兄と暮らした王宮の焼け跡がある。
でも、ここからは分からなかった。
全部、小さすぎた。
不思議だった。
僕が知っていた世界は、あんなに大きかったのに。
世界の中に置いてみると、こんなに小さい。
「代表」
バフラムさんが呼んだ。
「そろそろ行くぞ」
「もう?」
「ここで夜を迎えたい?」
風が吹いた。
寒い。
「行く」
僕は最後に一度だけ振り返った。
インドゥーラは、まだずっと向こうまで続いていた。
僕たちは、山を下り始めた。




