夏の火
二つ目の鐘を鳴らした。
カーン。
音が木々の向こうへ消えていく。
三つ目の鐘を見つけたときには、バフラムさんに言われる前に僕から近づいた。
縄を引く。
カーン。
「仕事が早くなったね、代表」
「鳴らしたいだけだよ」
「立派な動機だ」
たぶん、立派ではない。
でも次の鐘がどこにあるのか、もう探している。
道は思っていたよりずっと立派だった。
平らなところには石が敷かれている。
雨水が流れるところには溝が掘られ、斜面には石が積まれている。
急なところには階段まであった。
ただし、広さはばらばらだった。
馬が二頭並べそうなところもあれば、一頭ずつしか通れないところもある。
「これ、全部天空騎士団が作ったの?」
「全部じゃないよ」
バフラムさんは歩きながら答えた。
「昔からあった道もあるし、村の人が直したところもある。俺たちが石を入れたところもある」
「どれがどれ?」
「知らない」
「知らないの?」
「道が通れれば困らないからね」
道端に、小さな白い花が咲いていた。
「これは?」
「知らない」
「薬草?」
「知らない」
「食べられる?」
「知らない」
僕はバフラムさんを見た。
「何なら知ってるの?」
「この先の石段」
即答された。
「右端を歩かないで」
少し先へ行く。
石段の右端が割れていた。
下の土も崩れている。
「去年、ここで馬が一頭滑った」
ダルガンがすぐヴァルシャを内側へ寄せた。
「落ちたのか?」
「荷物だけね。馬は助かった」
バフラムさんはさっきの花を振り返った。
「草は俺の仕事じゃない。ザフラ婆に聞きな」
僕はちょっと納得した。
何でも知っている人ではない。
道を知っている人なんだ。
昼前、尾根へ出た。
急に風が強くなった。
僕は帽子を押さえた。
山が幾重にも重なっている。
遠くの山は青く、その向こうは霞んで見えなかった。
バフラムさんが水筒を出した。
「ここで休もう」
馬も休ませた。
僕は水を飲みながら周りを見た。
道がいくつもあった。
僕たちが登ってきた南への道。
北へ続く道。
尾根を西へ進む道。
そして、僕たちがこれから進む東への道。
「北へ行くと?」
「ザルカド」
「東はサルマーン」
「そう」
「西は?」
「ずっと行けば山が終わるよ。その先は砂漠。もっと向こうがパルキア」
僕は四本の道を見た。
「変なの」
「何が?」
「僕が見た地図だと、ハルザーンはほとんど行き止まりだった」
「そうなの?」
「うん。新しい街道から外れた、古い宿場みたいになってた」
バフラムさんは水筒の栓を閉めた。
「それも間違ってないんじゃない?」
「でも、こんなに道があるよ」
「行きたいところが違えば、地図も違うからね」
北。
南。
東。
西。
新しい街道だけ見ていれば、ハルザーンは端だった。
山の道まで入れると違う。
ザフラが言っていた。
四つの国のへそ。
「本当に、へそなんだ」
「へそ?」
「ザフラ婆がそう言ってた」
「ああ。昔から言うね」
「世界の出べそとも言ってた」
バフラムさんが首を傾げた。
「それは聞いたことないな」
やっぱり、あれはザフラが勝手に足したらしい。
午後になると、だんだん寒くなった。
最初は涼しくて気持ちいいと思った。
そのうち腕が冷えてきた。
僕は荷物から上着を出した。
「夏だよね?」
「夏だよ」
「寒いよ」
「山だからね」
「それで全部説明するの?」
「だいたい説明できるよ」
ナディラはとっくに上着を着ていた。
ダルガンも着ている。
僕だけ最後だった。
さらに登ると、岩陰に白いものが見えた。
立ち止まる。
「雪?」
「雪だね」
近づいた。
本当に雪だった。
表面は少し汚れている。
指で触る。
冷たい。
「まだ残ってる」
「そこは日が当たりにくいからね」
僕は少しだけ掴んだ。
丸める。
ダルガンを見る。
ダルガンも僕を見た。
「投げたら置いてくぞ」
「まだ何もしてないよ」
「顔に書いてある」
雪を戻した。
ナディラが笑っていた。
「ナディラには投げないよ」
「当たり前でしょう」
もっと高い峰には、白い筋がいくつも残っていた。
遠くから見ていた山とは全然違った。
カルバーブから見れば、北に立ちはだかる大きな壁だった。
中へ入れば道がある。
鐘がある。
水場がある。
人が歩いている。
雪まで残っている。
「代表!」
前から呼ばれた。
見ると、三人とも先へ行っている。
「置いてくよ」
「待ってよ!」
ヴァルシャを引いて追いかけた。
四つ目の鐘を鳴らした。
五つ目も鳴らした。
夕方にはまだ早いころ。
バフラムさんが道を外れた。
少し高いところに、石と木でできた小屋があった。
「今日はここまで」
僕は空を見た。
まだ明るい。
「もう泊まるの?」
「そうだよ」
「もう少し進めるよ」
「進めるね」
「じゃあ――」
「次に泊まれる場所まで着けるかは別」
僕は黙った。
バフラムさんは笑った。
「明るいうちに泊まる場所を作るんだよ」
ダルガンも小屋を見た。
「今日はここだな」
決まってしまった。
小屋の横には水場があった。
屋根の下には薪も積んである。
バフラムさんはすぐには荷物を下ろさなかった。
屋根を見る。
中を見る。
水を見る。
馬をつなぐ場所を見る。
「何してるの?」
「使えるか確認してる」
「使えるからここへ来たんじゃないの?」
「昨日まではね」
「昨日から今日で壊れる?」
「壊れるよ」
「そんな簡単に?」
「山だからね」
またそれだ。
屋根は大丈夫だった。
水も出た。
薪も乾いていた。
そこでようやくバフラムさんは荷物を下ろした。
僕も中へ入った。
小屋には寝る場所と、小さな竈があった。
ダルガンが荷物を置く。
ナディラが食料を出す。
僕は毛布を広げた。
カチッ。
音がした。
振り向いた。
バフラムさんが竈の前にしゃがんでいた。
手に火打石を持っている。
もう一度。
カチッ。
火花が飛んだ。
小さな火口へ火が移った。
赤い点ができる。
バフラムさんが息を吹きかける。
赤い点が広がった。
細い薪へ移す。
小さな炎が立った。
その炎を見た瞬間。
別の火が頭に浮かんだ。
真っ赤な空。
煙。
燃えている王宮。
熱かった夜。
――アシャン、行け。
兄の声。
僕は瞬きをした。
目の前にあるのは、小さな竈だった。
薪が一本、ぱち、と鳴った。
「どうした?」
ナディラが聞いた。
「……なんでもない」
もう一度、火を見る。
全然違う。
あの夜の火は、大きすぎた。
これは手のひらより少し大きいくらいだ。
バフラムさんが薪を一本足した。
火が少し大きくなる。
僕はなぜか、それ以上見ないように荷物へ目を戻した。
「早いな」
ダルガンが言った。
「何が?」
僕が聞いた。
「火だよ」
ダルガンは竈の前へ行った。
「もうついたのか」
「三十年やってるからね」
バフラムさんが答える。
ダルガンがしゃがんだ。
薪を一本動かそうとした。
「触らなくていいよ」
「こっちの方が燃える」
「もう燃えてるよ」
「明日の朝は俺がやる」
「いいよ」
「絶対だぞ」
ナディラが僕の隣へ来た。
小さな声で言った。
「好きなのよ」
「聞こえてるぞ」
ダルガンが言った。
僕は笑った。
竈の火が大きくなった。
小屋の中も暖かくなっていく。
さっきまで冷たかった指先が、少しずつ戻ってくる。
不思議だった。
火は怖いものだと思っていたわけじゃない。
王宮にいたころだって、毎日使っていた。
灯りにも。
料理にも。
冬には暖炉にも。
それなのに。
さっきの一瞬だけ。
火を見て、あの夜を思い出した。
僕は手を火へ近づけた。
暖かかった。
バフラムさんが鍋に水を入れた。
「お茶にしよう」
「お茶?」
「嫌い?」
「好き」
「じゃあ飲もう」
鍋を竈へ置く。
僕は聞いた。
「それも料金に入ってるの?」
バフラムさんが笑った。
「いや」
茶葉を取り出した。
「これはサービス」
湯が沸くまで、僕は外へ出た。
冷たい風が吹いている。
少し先には、まだ雪が残っていた。
振り返る。
小屋の入口から、竈の火が見えた。
赤くて。
小さくて。
暖かそうだった。
王宮の火とは、全然違った。
「代表!」
中から声がした。
「お茶できたよ!」
「今行く!」
僕は小屋へ戻った。
四人分の茶があった。
器を両手で持つ。
熱い。
一口飲んだ。
「熱っ」
「気をつけな」
「飲んでから言わないでよ」
バフラムさんが笑う。
ダルガンはまだ火を見ている。
ナディラは靴を脱いで足を休ませていた。
外には雪。
中には火。
手の中には熱いお茶。
僕はもう一口飲んだ。
今度はゆっくり。
暖かかった。
その夜。
毛布に入って目を閉じたとき。
一度だけ、兄の顔が浮かんだ。
すぐに消えた。
僕はそのまま眠った。




