↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星の降る道ⅰ 死者の星環  作者: 超魔王
遠回りの道
PR
12/65

父の堰

翌朝。


宿坊を出るころには、まだ町の影が長かった。


昨夜あまり眠れなかったせいで、少し頭が重い。


それでも、外へ出ると空気は冷たくて気持ちよかった。


馬を預けていた厩へ行く。


バルシャは僕を見ると、鼻を鳴らした。


「おはよう」


首を撫でる。


鞍を置くのはまだダルガンに手伝ってもらう。


でも、最初の日よりは自分でできることが増えた。


「それ、もうちょい前だ」


「ここ?」


「行きすぎ」


「じゃあ、ここ?」


「そこ」


ダルガンが腹帯を確かめる。


「まあ、いいだろ」


この「まあ、いいだろ」が、最近ちょっと嬉しい。


荷物を積み終えると、僕たちは神官領の門へ向かった。


朝の町は、昨日とはまた違っていた。


店を開ける人。


水を運ぶ人。


掃除をする神官。


朝の祈りへ向かう人。


誰も僕を見ない。


昨日と同じだった。


門を出る直前、僕は一度だけ振り返った。


五つの神殿の塔が見えた。


あのどこかで、僕が死んだことになっている。


それなのに僕は、馬に乗って普通に門から出ていく。


変な気分だった。


「アシャン」


前からダルガンが呼んだ。


「置いてくぞ」


「待ってよ」


僕はバルシャを進ませた。


しばらくして、道が分かれた。


東へ行く道と、北へ行く道。


僕は当然、東へ行くものだと思った。


サルマーンは東にある。


ところがダルガンは北へ曲がった。


「ダルガン」


「なんだ」


「そっちじゃないよ」


「合ってるよ」


「サルマーンは東だよ」


「知ってる」


「北へ行ってるよ」


「それも知ってる」


僕は後ろのナディラを見る。


ナディラも普通に北へ曲がっている。


「ナディラ」


「なに?」


「道、間違ってない?」


「間違ってないわよ」


二対一になった。


僕はバルシャを少し速めて、ダルガンの横へ並んだ。


「でも、遠回りでしょう?」


「遠回りだよ」


「じゃあ、なんで?」


「近道だからだ」


僕はダルガンを見た。


「遠回りなのに?」


「そう」


「近道?」


「そう」


「どっちなの?」


ダルガンが笑った。


「距離なら遠回り。時間なら近道だ」


僕にはまだ分からない。


ダルガンが東の方を指した。


「まっすぐ行けば、あっちは山と海に挟まれた道になる。狭いし、上り下りも多い。荷馬五頭連れて通るには面倒だ」


「通れないの?」


「通れる」


「じゃあ――」


「通れるのと、通りやすいのは別だ」


ダルガンは前を向いた。


「俺一人なら東へ行ってもいい。けど、今は三人と五頭だ。北門を抜けて騎士団の道に乗った方が馬も楽だし、結局早い」


僕は頭の中に地図を思い浮かべた。


どう考えても北へ膨らんでいる。


「でも、地図だと遠いよ」


「地図は歩かねえからな」


「……そうだけど」


「道ってのは、距離だけで決まらねえんだよ」


ダルガンはそれで話を終えた。


僕はもう一度、頭の中の地図を思い浮かべた。


地図なら読める。


山も川も街道も知っている。


でも、その道を五頭の馬が歩いたらどうなるかまでは考えたことがなかった。


地図には坂のつらさは書いていない。


狭い道で荷馬同士がすれ違えるかも、たぶん書いていない。


また一つ、知らないことがあった。


北へ進むにつれて、土地の様子が少し変わってきた。


水路が増えた。


田が広がった。


遠くには低い堤が見える。


「この辺、米が多いね」


僕が言うと、ダルガンが振り返った。


「カルバーブだろ」


「カルバーブだけど」


「おまえの国じゃねえか」


一瞬、言葉に詰まった。


まだ話していない。


「……本で読むのと、見るのは違うんだよ」


「また本か」


「悪い?」


「悪くねえよ」


ダルガンは笑った。


「でも腹減ったとき、本から米は出てこねえぞ」


「それくらい分かってるよ」


「三日前まで薪も分かってなかったくせに」


「今は分かるよ」


「一本混じってたけどな」


「一本だけでしょう」


ナディラが後ろで笑った。


道は次第に大きな水路へ近づいていった。


僕はこの辺りの地名を知っていた。


見覚えはなくても、名前は知っている。


それからしばらくして、水の音が聞こえてきた。


川とは違う。


もっと大きく、低く、絶えず続く音。


僕は前を見た。


「あ……」


巨大な堰が見えてきた。


川を横切るように石と土が連なり、その向こうに水が溜まっている。


いくつもの水門から水が分けられ、水路へ流れていく。


遠くの田へ向かうもの。


町へ向かうもの。


再び川へ戻るもの。


ダルガンが口笛を吹いた。


「相変わらずでけえな」


「来たことあるの?」


「何度か。北へ抜けるときにな」


僕は堰を見上げた。


知っている。


もちろん知っている。


でも、こんなに大きかったのか。


王宮で見た図面では、もっと小さかった。


紙の上なら、線が何本か引いてあるだけだった。


「ダルシャン大堰ね」


ナディラが言った。


僕は何も答えなかった。


父の名前だった。


ダルシャン王。


僕とラシャンの父。


僕たちが十二歳のとき、母とともに病で亡くなった。


父の治世について書かれた記録なら、いくらでも読んだ。


北方の水を蓄え、田へ分けるために古い堰を大きく造り直したこと。


旱魃に備えて貯水を増やしたこと。


大水のときには流れを分けられるようにしたこと。


完成後、耕せる土地が増えたこと。


全部知っていた。


でも僕は、その水が落ちる音を知らなかった。


「今日はこのへんにするか」


ダルガンが言った。


「ここで?」


「水もある。馬も休ませられる。場所を選べば悪くねえ」


ナディラも周囲を確認した。


「少し離れた上の方ならいいわね」


「じゃあ決まりだ」


馬を止める。


僕はバルシャから降りた。


荷物を下ろす。


今度は言われる前に動いた。


地面を見る。


水に近すぎない場所。


テントを張るところ。


それから薪。


僕は木の下へ行った。


枝を拾う。


折る。


ぱきん。


次。


ぱきん。


松ぼっくりもある。


抱えて戻った。


ダルガンが僕の持ってきた枝を一本取る。


折った。


ぱきん。


もう一本。


ぱきん。


「合格」


「やった」


「でも火は俺がつけるぞ」


「僕もそろそろやりたい」


「駄目だ」


「なんで?」


「俺の楽しみだからだ」


「教えてくれるって言ったじゃない」


「教えるのと譲るのは別だ」


「ずるい」


「旅商人の特権だ」


意味が分からない。


ナディラが笑った。


「そのうち、隙を見てやってしまえばいいのよ」


「おい」


火が起きた。


夕飯を食べた。


何日か前なら、野外で地面に座って食事をするだけで落ち着かなかった。


今は違う。


火のそばに自分の場所がある。


食べ終わったらカップを持つ。


ダルガンは薪を触る。


ナディラは帳面を確認する。


それぞれが勝手なことをしている。


水の音だけが、ずっと続いていた。


僕は今日一日、考えていた。


昨夜決めたこと。


自分から話す。


でも、どう話せばいいのかまでは決めていなかった。


僕はカップを両手で持った。


「ダルガン」


「ん?」


「ナディラも」


ナディラが帳面から顔を上げた。


「なに?」


「話があるんだ」


ダルガンは薪を置いた。


何も言わない。


二人とも、たぶん分かっていた。


昨日から、僕が何かを隠していることくらい。


それでも聞かなかった。


だから、僕から言う。


僕は堰の方を見た。


暗くなっても、水の音は変わらない。


「あの堰の名前、知ってる?」


ダルガンが眉を上げた。


「ダルシャン大堰だろ」


「うん」


ナディラも言う。


「ダルシャン王が造ったのよね」


「うん」


僕は一度、息を吸った。


「僕の父だよ」


ダルガンの手が止まった。


ナディラも動かなかった。


「……父?」


「ダルシャン王は、僕の父なんだ」


水の音だけが聞こえた。


ダルガンが僕を見る。


ナディラも僕を見る。


昨日の宿坊で聞いた話。


バルサで売られた服。


僕の名前。


王宮のことを知っていたこと。


きっと、いろいろなものが二人の中でつながったのだと思う。


僕は二人から目を逸らさなかった。


「昨日、聞いたでしょう」


「……何を?」


「王弟アシャンは死んだって」


ダルガンの顔から笑いが消えた。


「死んでない」


僕は言った。


「僕が、王弟アシャンだ」


長い沈黙だった。


ぱち、と薪が爆ぜた。


それでも誰も話さなかった。


堰から落ちる水の音が、急に大きくなったように感じた。


最初に口を開いたのはナディラだった。


「……じゃあ」


「うん」


「バルサで売った服」


「僕のだと思う」


ナディラは額に手を当てた。


「私、王弟殿下の服を古着屋に売らせたの?」


「六枚の銀貨になったよ」


「そういう問題じゃないでしょう」


ダルガンが吹き出した。


「ちょっと、ダルガン」


「悪い。いや……悪い」


笑いながら、僕を見る。


「おまえ、六枚で売ったのか」


「ダルガンもいいって言ったじゃないか」


「王弟の服だとは思わねえよ!」


それはそうだった。


僕も少し笑った。


笑えたことに、自分でも驚いた。


ナディラはまだ額を押さえている。


「ちょっと待って。じゃあ、あなた、本当に王宮にいたのね」


「うん」


「神官領に詳しかったのも?」


「僕の領地だから」


ナディラが目を閉じた。


「そうよね。そうなるわよね」


ダルガンが僕を見る。


「俺はてっきり、宮仕えの家の坊ちゃんか、神官の家の子供だと思ってたぞ」


「そう見えた?」


「馬乗れねえし、物の値段知らねえし、字だけやたら綺麗だし」


「それだけ?」


「妙に坊さんの話には詳しいし」


僕は少し迷った。


「僕、王国司祭でもあるから」


ダルガンが止まった。


「……は?」


「王国司祭」


「おまえが?」


「うん」


「じゃあ」


ダルガンが僕を指さした。


「バルシャに名前つけたとき」


「うん」


「俺、偉い坊さんに頼んだみたいだなって言ったよな」


「言ったね」


ダルガンはしばらく黙った。


「……偉い坊さんじゃねえか」


僕は吹き出した。


ナディラも笑った。


ダルガンだけが納得できないような顔をしている。


「先に言えよ」


「言えるわけないでしょう」


「それもそうか」


また少し沈黙した。


今度の沈黙は、さっきほど重くなかった。


ダルガンが薪を一本、火へ入れた。


そして聞いた。


「それで、アシャン」


「うん」


「おまえ、何がしたいんだ?」


僕は答えられなかった。


「王都へ戻るのか?」


「……分からない」


「じゃあ、兄貴を殺したやつを探すのか?」


ダルガンは少し間を置いた。


「仇討ちか?」


「まだ分からない」


「は?」


ダルガンが本当に分からないという顔をした。


「おまえ、自分が王弟だって告白しといて、その先は分からねえのか?」


「だって、本当に分からないんだよ」


思ったより大きな声が出た。


二人が黙った。


僕は火を見た。


「兄が死んだのかだって、僕は見てない」


ダルガンの表情が変わった。


「見てない?」


「最後に会ったときは生きてた」


あの夜。


ラシャンの顔。


僕に渡されたもの。


急げと言われたこと。


でも、そのあとを僕は知らない。


「紙には死んだって書いてあった。昨日も、みんな死んだって言ってた」


僕は自分の胸を指した。


「でも、同じ紙には僕も死んだって書いてある」


誰も何も言わない。


「僕は生きてる」


それだけは確かだった。


「だったら、兄が死んだってところだけ、どうして信じられるの?」


ダルガンが火を見る。


ナディラは僕を見ていた。


「兄がどうなったのか知りたい」


僕は言った。


「王宮で何があったのかも知りたい。どうして兄が火をつけたことになってるのか。どうして僕まで手伝ったことになってるのか」


「それで?」


ダルガンが聞いた。


「それを知ってから考える」


「仇討ちするかどうかも?」


「うん」


「王都に戻るかどうかも?」


「うん」


「王になるとかは?」


「分からない」


「何にも決まってねえな」


「だから最初からそう言ってるでしょう」


ダルガンは僕を見た。


それから突然笑った。


「まあ、そうだな」


「笑わないでよ」


「悪い悪い」


薪を一本動かす。


「いきなり『仇を討って国を取り戻す』とか言われるよりはマシだ」


ナディラが僕に聞いた。


「じゃあ、サルマーンへ行きたいというのは変わらないの?」


そこだけは、すぐに答えられた。


「うん」


「どうして?」


僕は少し考えた。


「知らないことが多すぎるから」


王宮のこと。


兄のこと。


叔父のこと。


あの夜のこと。


そして、アルダーンの銀行印などという、僕ですら知らないもの。


「今のまま戻っても、何を信じればいいのか分からない」


ナディラは頷いた。


「なら、今までと同じね」


「同じ?」


「明日は北門へ向かう。そこを抜けて、サルマーンを目指す」


「……それだけ?」


「ほかに何かある?」


僕はダルガンを見る。


ダルガンも肩をすくめた。


「明日の道が変わるわけじゃねえだろ」


「僕、王弟なんだけど」


「知ったよ」


「王国司祭でもある」


「それもさっき聞いた」


「驚かないの?」


「驚いてるよ」


ダルガンは僕を見た。


「でも、湿った薪は明日も燃えにくいぞ」


僕は黙った。


ナディラが吹き出した。


僕も笑った。


「それは分かってるよ」


「ならいい」


火が燃えていた。


水が流れていた。


僕はまだ、自分が何をするべきなのか知らない。


兄が生きているのかも知らない。


誰を信じていいのかも分からない。


それでも明日、どこへ行くのかだけは決まっている。


北門だ。


その向こうへ出て、サルマーンへ行く。


僕は暗闇の中に横たわる巨大な堰を見た。


紙の上で何度も読んだ場所。


今日初めて、自分の目で見た場所。


「この堰ね」


僕は言った。


二人が僕を見る。


「父が造ったんだ」


「父?」


「ダルシャン王」


水の音が続いている。


「だから、ここは――父が造った、ダルシャン大堰だ。」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。