僕の神官領
三日目の午後、道の先に城壁が見えた。
「あれが神官領?」
ナディラが目を細めた。
「うん」
僕は答えた。
答えてから、少し変な気持ちになった。
知っている場所だった。
というより、僕の領地だった。
カルバーブの王国司祭には、代々与えられている土地がある。
中央には五つの神殿があり、その周囲を神官の住居や役所、倉庫、宿坊、施療所が囲んでいる。
さらにその外には商人や職人の住む町があり、全体を城壁が囲んでいた。
僕も何度も来たことがある。
ただし、こんなふうに街道から馬に乗って近づいたことはなかった。
いつも王宮から使者が先に出た。
門では神官たちが待っていた。
僕が到着すると鐘が鳴った。
今日は鳴らない。
「ずいぶん立派だな」
ダルガンが言った。
「神官の町っていうから、寺がいくつかあるだけかと思ってた」
「昔から少しずつ大きくなったんだよ」
「詳しいな」
「……本で読んだ」
嘘ではない。
実際に読んだこともある。
ダルガンは「ふうん」と言っただけだった。
門の手前まで来ると、道が少し混み始めた。
荷車が並んでいる。
巡礼者もいる。
商人もいる。
荷を背負った人たちが歩いている。
門番が一組ずつ簡単に確認していた。
僕は少し緊張した。
顔を知られていたらどうしよう。
でも、すぐに気づいた。
門にいるのは下級の神官と、領内の兵士ばかりだった。
知っている顔はない。
白河宮が燃えたのだ。
王国司祭も死んだことになっている。
上位の神官たちは、ほとんど王都へ呼び出されているはずだった。
僕たちの番が来た。
「三人?」
「三人だ」
ダルガンが答える。
「馬は五頭」
「見りゃ分かる」
門番が荷を見る。
「商いか?」
「旅商いだ。サルマーン方面へ抜ける」
「武器は?」
「護身用が少し」
ダルガンは正直に答えた。
門番は荷をざっと確認した。
それから僕を見る。
「この子は?」
一瞬、困った。
ダルガンが答えるより先に、僕は言った。
「アシャンです」
「いや、名前じゃなくて――」
門番が止まった。
僕を見る。
「アシャン?」
「はい」
もう一度、僕を見る。
心臓が少し速くなった。
「王国司祭様と同じ名前だな」
「……そうですね」
「最近はたまにいるんだよな。殿下がお生まれになったころから増えたんだっけ?」
隣の兵士が言った。
「さあな」
それで終わった。
「通っていいぞ」
門が開いている。
僕たちは普通に入った。
誰も跪かなかった。
鐘も鳴らなかった。
神官たちが集まってくることもない。
僕は馬に乗ったまま、自分の領地へ入った。
「どうした?」
ダルガンが聞いた。
「なんでもない」
僕は答えた。
町は、僕の知っている神官領と少し違っていた。
いや。
たぶん町は同じだった。
違うのは僕の方だ。
以前ここへ来たとき、僕が歩く道は決められていた。
門から中央神殿。
中央神殿から王国司祭の館。
必要があれば別の神殿。
会う人も決まっていた。
今日は違う。
ダルガンが馬草の値段を聞くため、通りの店へ寄る。
ナディラは露店の銀細工を眺める。
巡礼者が道端で水を飲んでいる。
子供が走っている。
神官が荷車を押している。
「神官って荷車も押すんだ」
僕は思わず言った。
ナディラが振り返った。
「押すでしょう」
「そうだね」
当たり前だった。
でも、僕は見たことがなかった。
中央へ進むと、五つの神殿の塔が見えてきた。
そのうち一つを見上げて、僕は足を止めそうになった。
僕の神殿だった。
正確には、王国司祭の神殿だ。
僕個人の所有物ではない。
歴代の王国司祭が祭儀を行い、神学上の裁定を下し、古い記録や聖具を管理してきた場所だ。
僕もそこで何度も儀式を行った。
今日は、その前を旅人として通った。
参拝に来た老人が僕の横を追い越していった。
僕には気づかない。
当然だった。
「大きいわね」
ナディラが神殿を見上げた。
「入ってみる?」
僕は少し迷った。
「……今日はいい」
「そう?」
「うん」
今入ったら、知っている場所が多すぎる。
知らないふりをする自信がなかった。
ダルガンはそんな僕たちを待たず、別のものを見ていた。
「宿坊あるじゃねえか」
ナディラも看板を見る。
「安いわね」
「馬も預かるって書いてあるな」
「今日はここにしましょう」
ダルガンが空を見上げた。
晴れている。
「天気いいぞ」
「だから?」
「外で寝られる」
「宿坊」
「川もある」
「宿坊」
「飯だって作れるぞ」
「宿坊」
ダルガンが僕を見る。
助けを求めているらしい。
僕は少し考えた。
「僕は野営でもいいけど」
ダルガンが笑った。
「ほら」
ナディラが僕とダルガンを交互に見た。
「……増えた」
「何が?」
「なんでもないわ」
結局、宿坊になった。
ダルガンは最後まで不満そうだった。
でも、馬を預けられると聞くと、
「まあ、それなら悪くねえな」
と言った。
受付にいたのは若い神官だった。
僕より少し年上だろうか。
「三名ですね」
「そう」
ナディラが宿代を払う。
僕は横で見ていた。
妙な感じだった。
王国司祭が、自分の神官領の宿坊へ金を払って泊まる。
たぶん歴代でも、あまりやった人はいない。
若い神官が宿帳を出した。
「お名前を」
ダルガンが書く。
次にナディラ。
最後に僕。
僕は少し迷ってから書いた。
アシャン。
若い神官の手が止まった。
「アシャン?」
まただ。
「はい」
彼は宿帳と僕を見比べた。
「王国司祭殿下と同じお名前ですね」
「……よく言われます」
今日二回目だった。
「字もきれいですね」
今度は別のところを見られた。
「習ったので」
「神学校に?」
「家で」
「へえ」
それ以上は聞かれなかった。
僕は少し安心した。
同時に、少しだけ寂しいような気もした。
部屋へ荷物を置いてから、僕はダルガンに聞いた。
「偉い神官たちはいないのかな」
「俺に聞くなよ」
それもそうだった。
夕食まで時間がある。
僕は宿坊の受付へ戻った。
さっきの若い神官が帳簿を整理していた。
「すみません」
「はい?」
「この町の偉い神官の方たちは、今はいないんですか?」
「ああ」
若い神官はすぐに頷いた。
「王都ですよ」
「王都?」
「白河宮の火事があったでしょう」
胸の奥が少し固くなった。
「それで?」
「王家のことだけじゃなくて、王国司祭殿下まで亡くなられたから。中央の方々はほとんど呼ばれましたよ」
亡くなられた。
僕はここにいる。
「……大変ですね」
「大変ですよ」
若い神官はため息をついた。
「上の人がいないから、こっちはこっちで仕事が増えるし」
僕は少しだけ笑った。
それも、僕の知らない神官領だった。
王国司祭が死ぬと、下の神官の仕事が増える。
神学書には書いていない。
「王国司祭様って、どんな人だったんですか?」
聞いてから、自分でも変な質問だと思った。
若い神官は少し考えた。
「俺は直接お会いしたことないですよ」
「そうなんですか?」
「遠くからならありますけど。祭礼のときとか」
「じゃあ、顔は?」
「そこまでは」
そう言って笑った。
「偉い人なんて、そんなもんでしょう」
僕も笑った。
「そうかもしれませんね」
部屋へ戻る途中、もう一度、中央の神殿が見えた。
僕の名前を知っている人はたくさんいる。
僕のために祈った人もいる。
僕が死んだと聞いて悲しんだ人もいるのかもしれない。
けれど、僕の顔を知らない。
それが今は僕を守っていた。
夕方になり、神殿の鐘が鳴った。
僕は宿坊の窓から町を見た。
よく知っていると思っていた。
僕の神官領。
でも、僕が知っていたのは神殿と、儀式と、書類と、そこにいる偉い人たちばかりだった。
道端の店で馬草がいくらするのか知らない。
宿坊がいくらなのかも知らない。
下級神官が上役の留守に仕事が増えたとぼやくことも知らなかった。
知らないことばかりだった。
それでも、ここは僕の神官領だった。
いや。
僕は窓の外を見ながら思った。
ここに住んでいる人たちの神官領なのかもしれない。
その夜。
夕食を食べに下へ降りた僕は、自分が死んだという話を聞いた。




