いないと困るなんて聞いてない
チョン・ミンホが品川署の正面玄関をくぐり抜けたのは、平素の登庁時刻より正確に七分早いタイミングだった。
もちろん本人に早起きをしたつもりも、ましてや先を急いだつもりも微塵もない。
今日はたまたま電車が空いており、乗り換えもスムーズで、信号にも一切引っかからなかっただけだ。
ついでに歩行速度が通常の1.2倍ほどに跳ね上がっていた気もするが、今朝の快適な気温のせいということにしておく。
少なくとも絶対に、天地がひっくり返っても昨日「お前が帰るから終わるとは思っていない」などという激重な台詞を真顔で吐き捨ててきたあの男に会いたくて早足になったわけではなかった。
「おはようございます……」
まだ人影のまばらな生活安全課へ入ると、窓際のブラインドの隙間から朝の光が差し込み、昨夜の残業の匂いを残す室内を塗り替えていた。
いつもと変わらない朝だ。
すでに自席について朝刊を広げていた桐生が、紙面の上から視線だけを向けた。
「おう。……早いな」
「桐生さんもね」
「俺はいつも通りの定時十五分前だ。お前は普段より『七分』早い」
鞄をフックへ掛けようとしていたミンホの手が、ぴたりと止まった。
「……七分?」
「ああ。きっかり七分だ」
「わざわざ数えたの?」
「壁の時計を見れば分かるだろ」
「怖。警察官の観察眼ってそういう無駄なところで発揮されるんだ」
「お前が普段、秒単位で定時ぴったり滑り込んでくるから目立つんだよ」
「遅刻してないんだから褒められてもよくない?」
「はいはい、偉い偉い」
「雑」
ミンホは口を尖らせながら椅子へ腰を下ろした。
端末の電源を入れ、資料を机に並べ、愛用の黒ボールペンを右上に正確に配置する。
それからごく自然な動作を装ってチラリと入口ドアへ視線を滑らせた。
誰もいない。
すぐ資料へ視線を落とす。
三十秒経過。手元のペンを一度回し、再び入口を見る。誰もいない。
さらに一分経過。廊下の向こうから足音が聞こえ、ミンホの首が弾むように跳ね上がった。
……交通課の巡査が通り過ぎただけだった。
「……」
「なあ」
真横から呆れた声が飛んできた。
ミンホは視線を資料から動かさずに答える。
「何」
「誰待ってんの?」
資料を捲る指先が、ぴくりと硬直した。
「待ってないです」
「じゃあ、さっきから一分間に四回のペースで入口を凝視してるのは何なんだ?」
「人が来るかなと思って。安全確認」
「来るだろ、警察署なんだから。不審者じゃなくて署員がな」
「そういう一般的な意味じゃなくて」
反射的に口を滑らせ、ミンホは「しまった」という顔で口を噤んだ。桐生の唇が悪代官のように意地悪く持ち上がっていく。
「どういう意味?」
「……知らない」
「出た。お前の十八番『知らない』」
「本当に知らない時に言ってるんだから仕方ないでしょ!」
「都合が悪くなると発動する便利なバリアだよな」
「韓国語で文句言おうか? 『모른다고 했잖아(知らないって言ったでしょ)』って」
「もっと分からなくなって俺が困るだけだからやめろ」
ミンホは「ふん」と鼻を鳴らし、キーボードへと荒々しく向き直った。
五分が経過しても、十分が経過しても、十五分が経過しても、待っている男は姿を見せなかった。
管理官という立場上、朝から本庁へ出向くこともあれば会議に捕まることもある。
毎朝わざわざ顔を出す義務などどこにもない。
分かっているのに、足音が聞こえるたび勝手に入口へ目が向いてしまう。
来たところで、低い声で「チョン」と呼ばれ、「朝飯は食べたか」とお節介を焼かれ、機嫌が悪そうならプリンが出てくるだけだと自分に言い聞かせるが、妙に落ち着かない。
「瀬川さん」
九時を過ぎた頃、出勤してきた瀬川を捕まえた。
「ん? なに、ミンホちゃん」
「朝倉さん、今日いる?」
瀬川はロボットのようにぎこちなく振り返り、ミンホの顔をまじまじと見つめた。
「……いるんじゃない? たぶん」
「何その適当な答え」
「なんで俺が管理官のスケジュールを完全把握してると思ったんだよ」
「瀬川さん、噂話なら何でも知ってるじゃん」
「噂限定な! 公式動静は秘書室に聞け!」
「役に立たないなあ」
「朝一番から理不尽な評価の下げられ方したんだけど!?」
ぶつぶつ文句を言いながらも、瀬川は天井を見上げて記憶を探る。
「あー、確か朝一で本部の会議が入ってた気がするな。午後は知らん。本人に直で聞けよ」
「わざわざ連絡するほどのことじゃないし」
「じゃあ気にすんな!」
「気にしてない」
「気にしてるだろ!」
「してない!」
かぶせ気味の即答だった。瀬川と桐生が無言で深々と頷き合う。
「「めちゃくちゃ気にしてる」」
「うるさい!」
ミンホが二人を睨みつけたその時、廊下から重厚な革靴の足音が近づいてきた。反射的に入口を直視するミンホ。
「失礼しまーす」
入ってきたのは地域課の若い巡査だった。ミンホの顔から一瞬で光が消え去る。
「今の、期待したろ?」
「してない」
「否定が速い。耳がリンゴみたいに赤いぞ」
「室温が高い! 暑いだけ!」
「冷房二十四度設定だけど」
「じゃあ寒すぎて血行障害を起こして赤い!」
「どういう生理現象だよ」
瀬川が耐えきれずに吹き出し、ミンホは二人を般若の顔で睨んだあと、いつも以上の打鍵音でキーボードを叩き始めた。
*
午前十一時四十七分。
結局朝倉は姿を見せず、ミンホの端末に一通のメールが届いた。差出人は朝倉悠。
件名は「午後の案件共有について」。
本文には捜査の追加情報と共有会議までの確認事項が簡潔に記されていた。完全なる、冷徹な業務連絡だ。
「お前、そのメール何回熟読する気だ?」
背後から覗き込んできた瀬川に、ミンホは画面を慌てて最小化した。
「見てないです!」
「機嫌悪いな。朝倉管理官から仕事メールしか来なかったからか?」
「違います!」
「昨日、一緒に帰ったんだろ? 管理官のスーツの袖をキュッと掴みながらエレベーターに吸い込まれていったらしいじゃん」
ミンホが勢いよく立ち上がった。
「なんでそこまで知ってるんですか!?」
「当直の交通課がバッチリ目撃してた。『甘えるように掴んでた』って署内LINEで広まったぞ」
「甘えてない! ちょっと引っ張っただけ!」
「なんで引っ張ったの?」
「……知らない」
「出た」
ミンホは不満げに口を噤んだ。毎日当たり前のように「昼飯を食べろ」「無理をするな」「帰るぞ」と過保護に構われていた。その日常が今日突然なくなって、どうにも調子が狂う。
「一人で昼飯行くか?」
「行きますよ。コンビニへ」
「昨日、管理官と洋食屋でデートしてたやつが?」
「デートじゃない!!」
財布を引っ掴み、逃げるように課を飛び出した。 一人でエレベーターに乗り込み壁面の鏡を見る。
そこに映っていたのは、眉間にシワを寄せた不機嫌な自分の顔だった。
「……何、その顔。一人で昼ご飯食べるなんて普通じゃん」
鏡の中の自分へ悪態をつく。
「아, 진짜……미치겠네(あー、もう……本当におかしくなりそう)……」
胸の奥がすっぽり抜け落ちたような情けない感覚に、自分が一番腹立たしかった。
*
午後一時十二分。
コンビニで買った小さなおにぎりとカスタードプリンを自席で食べる。
プリンを見た瞬間に顔が浮かんだが、「自分が奴を理由にプリンを諦める筋合いはない」と対抗心で購入したものだ。
「……味、一緒だし」
「そりゃそうだろ。市販品なんだから」
隣から瀬川の声が聞こえる。
「声に出てたぞ。『味、一緒だし』って悲しそうに」
「最悪……」
「ミンホちゃん、それ客観的に見てめちゃくちゃ『寂しい』状態だぞ」
「違います!」
「まあ、毎日当たり前にそばにあるものってさ、失いかけて初めてどれだけデカかったか気づくんだよ」
瀬川の言葉が重く突き刺さる。
失う。あと三ヶ月で任期が終わり、自分は韓国へ帰国する。
朝倉との別れ。たった一日会わないだけでこれほど心が乱れるのに、三ヶ月後どうなってしまうのか。 急にプリンが味気なくなった。
*
午後四時二十分。
「失礼する」
重低音の声が響いた瞬間、ミンホの背筋がピンと伸びた。
意地でも顔を上げまいと画面を凝視する。
朝倉はパリッとしたスーツを着こなし、いつも通り冷静沈着に指示を出していく。完全に仕事モードだ。
「チョン。今日の報告書、十九時までに頼む」
「……分かりました」
「以上だ」
それだけ言うと、朝倉は別の席へ去っていった。食べたか、も聞かない。
プリンもない。
昨日のことにも触れない。
まともな上司として振る舞っているだけなのに、腹が立つ。
「意味分かんない……!」
行き場のない苛立ちをキーボードへぶつけた結果、十九時締め切りの報告書は十八時二十二分に完成した。
*
朝倉のデスクへ報告書を置きに行くと、無人だった。
しかしデスクの端に、朝倉が時折買ってくる老舗洋菓子店の紙袋が置かれているのに気づく。
自分には渡されなかったお菓子。
誰のために買ったのかと視線を注いでいると、背後から声がした。
「何をしている」
戻ってきた朝倉に、ミンホは跳ね上がる。
「報告書、置きました」
「早いな。助かる」
朝倉が紙袋に手を伸ばすと、ミンホの視線が露骨にそれを追った。
「これか? 本部の会議で配られた余りだ。一つ食べるか?」
「……いらない」
「そうか」
朝倉が素直に袋を閉じると、ミンホの眉間にシワが寄った。
「……普通、もう一回くらい『遠慮するな』とか聞かない?」
「いらないと言ったのだろう。前は強引に渡したが、今日は言わない」
「なんで」
「……少し、お前と距離を置こうと思ってな」
ドスンと胸に冷たい塊が落ちた。
「お前が困っていたからだ。『帰るのが嫌になる』と言っていたろう。少し離れた方が自分で感情を整理できる」
正しい。腹が立つくらい正しい配慮だった。
「じゃあ……今日ずっと冷たかったの、それのせい?」
「業務に徹した。嫌だったか?」
「……別に。でも! 朝倉さん来ないし、昼一人だったし、プリンも美味しくなかったし!」
「プリンはメーカーの責任だ」
「分かってるよ!! あー本当にもう、分からない아 진짜, 모르겠어(あー本当にもう、分からない)!」
「『本当にもう分からない』か?」
「韓国語リスニングできるの腹立つ!」
「お前のために勉強しているからな」
「최악이야(最悪)!」
「それも分かる」
朝倉が今日初めて柔らかく笑った。その顔を見た瞬間、胸の重苦しさがフッと軽くなる。
「……普通に仕事してるだけなのに、私に構ってくれないとムカつく」
「……それは『寂しい』んじゃないのか?」
「……寂しいって、こういう嫌な感じのことなの?」
「俺には分からない。お前が目の前にいない時は常に寂しさ最大値だからな」
「悠さん、今のかなりキモい」
「知っている。お前相手なら仕方ない」
呆れつつも、ミンホの唇は少しだけ緩んでいた。
*
翌日。事件は解決に向かい、課内には穏やかな時間が戻っていた。
デスクに突っ伏して悩むミンホに、瀬川と桐生が容赦なく突っ込む。
「それさあ、普通に『好き』なんじゃないの?」
「違います! 好きって言ったら負けみたいじゃないですか!」
「恋愛を勝ち負けにするな!」
「だって悠さん、調子に乗るもん!」
「喜ばせてやれよ!」
「やだ! 調子こくから!」
「付き合う前から熟年夫婦みたいな喧嘩すんな!」
耳を真っ赤にしながら叫ぶミンホ。
夕方、まだ少し距離を置いている朝倉を、ミンホは意を決して階段の踊り場へ呼び出した。
夕日の差し込む階段踊り場。
「……本気で距離置くつもり?」
「お前が整理できるまでな」
「……整理できた」
朝倉の身体が固まる。
「悠さんがいないと、思ってたよりずっと困る。他の人におれにすると同じことするの、絶対嫌」
「上から目線だな」
「そっちが先に好き好き言ってきたんだから当然でしょ!」
「……チョン」
「ミンホ」
朝倉が息を呑む。ミンホは朝倉のネクタイを指先で摘まんだ。
「チョンじゃなくて……ミンホって呼んで」
「……ミンホ」
「……たぶん、好き」
「『たぶん』か?」
「保険! でも……今日は嫌じゃない」
朝倉が心底愛おしそうに笑った。
その笑顔を見て、ミンホは心の中で白旗を揚げる。 やっぱり、この男がいないと困るのだ。
悔しいけれど、チョン・ミンホは朝倉悠のことがたまらなく好きだった。




