あと三ヶ月じゃなくて
瀬尾拓真に関する一連の事件がひとまずの決着を見たのは、それから一週間後のことだった。
少年たちを巧妙に操った窃盗の指示。
犯行映像を利用した悪辣な恐喝。
盗品の換金ルートの解明。
さらに、瀬尾と裏でつながっていた複数の成人たちが、少年たちへ口止めや威圧を行っていた事実。
ばらばらに散らばっていたピースが一つずつ線で結ばれ、生活安全課と刑事課がそれぞれ水面下で集めていた情報も、ようやく一枚の明確な相関図として形になった。
もちろん、これで捜査が完全に終わったわけではない。
今後、余罪がぼろぼろと出てくる可能性は極めて高いし、関与したすべての大人たちに対して法的な処分が下されたわけでもない。
それでも、少なくとも。
彼らに利用されていた少年たちが、瀬尾からの着信音に怯えてスマートフォンを握りしめる必要はなくなった。
誰かに命じられるまま震える足で店へ入り、商品をコートに隠し、その惨めな様子を撮影されることもない。
断れば学校へばらす。親の職場に送りつける。仲間から外す。そんな呪いのような言葉に縛られ、眠れない夜を過ごさなくていいのだ。
それだけで、チョン・ミンホにとっては、この事件に首を突っ込んだ十分な意味があった。
※
午前十時十五分。品川署刑事課。
事件の区切りとなる、最後の合同打ち合わせが終了を告げた。
パイプ椅子が擦れる音が響き、張り詰めていた空気が解けた会議室から、出席者たちが次々と席を立っていく。
ミンホは机の上に散乱していた自分の資料をトントンと揃えながら、わざとらしく大きく息を吐き出した。
「終わった」
隣に座っていた桐生が、呆れたように片方の眉を跳ね上げる。
「終わってねえよ」
「分かってます。余罪の確認もあるし、少年側の継続支援もある」
「知ってるなら言うな。じゃあ、何が終わったんだよ」
「今日の、この長くて退屈な会議」
「小学生かお前は」
スーツの肩を竦めるミンホに、桐生はため息をついた。
「一時間半は長いです。人間の集中力には限界がある」
「お前、途中から明らかに飽きてたよな」
「飽きてないです」
「ペン三回回してた」
「脳を活性化して集中するためです」
「一回派手に落としてただろ」
「あれは不可抗力のアクシデント」
「よりによって鷹野課長の足元に転がって、拾われてたぞ」
「……さすがにあれは、ちょっと恥ずかしかった」
素直に非を認めたミンホの整った顔が僅かに歪むのを見て、桐生は堪えきれずに吹き出した。
その視線の先、会議室の前方では、当の鷹野が刑事たちへ大声でいくつか指示を出しているところだった。
相変わらずの強面で、相変わらず声がでかい。そして相変わらず、韓国警察から出向してきた生意気な若造であるミンホとは、完全に相性が良いとは言い難い相手だ。
ただ、最初の頃のように、露骨に「得体の知れないよそ者」として警戒され、排斥されることはなくなった。
それくらいの変化は、この数週間の激務の中で確かに生まれていた。
「チョン」
野太い声に呼ばれ、ミンホが面倒くさそうに顔を上げる。
「はい」
「ちょっと残れ」
「何でですか」
「返事した直後に理由を聞くな!」
「だって気になるじゃないですか」
「お前なぁ……!」
鷹野の眉間に深い皺が刻まれる。
桐生が隣で「ぷっ」と吹き出し、急いで口元を押さえた。
「じゃ、俺、先戻ってますから」
「ちょっと待って、嫌です。裏切り者」
「業務。これも給料のうち」
「同僚を非情に見捨てるのも日本の警察の業務ですか?」
「人間関係の構築、頑張れよ」
「別にコミュニケーションは苦手じゃないのに」
「そういう、自覚なく火に油を注ぐところが余計悪いんだよ」
逃げるように去っていく桐生の背中を恨めしげに見送ってから、ミンホはこれ見よがしなため息をつき、再びパイプ椅子に腰を下ろした。
広い会議室には、腕組みをして仁王立ちする鷹野と、座って見上げながら足をぶらぶらさせているミンホ。
少し離れた窓際の席に静かに座ったままの朝倉。
三人だけが残された。
ミンホは怪訝な顔で朝倉を見る。
「悠さんも残るの?」
「業務だ」
「またそれ。便利な言葉だよね。おれが言うと怒るくせに」
「お前はあまりにも息をするように便利に使いすぎるからだ」
「お前ら!」
鷹野が耐えきれずに長机をバンッと叩く。二人の視線が同時に彼に向いた。
「俺の前でその身内ノリみたいな調子をやめろ!」
「何がですか?」
ミンホが本気で分からないというように首を傾げると、鷹野は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「……もういい。朝倉管理官も、こいつを甘やかしすぎです」
「その自覚はあります」
「認めるんですか!?」
「はい」
「直してください!」
「難しいですね」
「なぜですか!」
「好きなので」
「…………」
鷹野が、文字通り完全に沈黙した。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
ミンホは静かに目を閉じ、天を仰いだ。
「悠さん」
「何だ」
「今は勤務中」
「知っている」
「それ、何言っても許される便利な免罪符だと思ってるでしょ」
「最近はそうだな」
「最悪」
鷹野はしばらくの間、宇宙の真理でも探求するかのような虚無の目で二人を交互に見ていたが、やがて肺の空気をすべて絞り出すような、深く重いため息をついた。
「……話を戻すぞ」
「はい」
「チョン」
「はい」
今度はミンホも、少しだけ姿勢を正して鷹野に向き直った。鷹野は手元の資料に視線を落とす。
「今回の件。お前の動きは……」
そこで一度言葉を区切り、鷹野は鋭い眼光でミンホを射抜いた。
「正直、何度か余計だった。前へ出すぎだ」
ミンホの端正な眉がピクリと動く。
「余計? でも、あれは捜査上必要でした」
「そういうところだ。組織の連携を無視して……」
「結果的には解決が早まったじゃないですか」
「だから最後まで聞け!」
「……はい」
不満げに唇を尖らせつつも、ミンホは黙った。
鷹野は呆れ半分、諦め半分の口調で続ける。
「勝手に動きたがる。すぐ現場へ出ようとする。相手を無駄に挑発する。殴りかかる」
「最後のは一回だけです」
「一回あれば大問題なんだよ!」
「……ですよね」
「少しは反省してるのか」
「してますよ、心から」
「顔がまったくしてないぞ」
「顔の問題ですか? 骨格から直せと?」
「態度だと言ってるんだ!」
怒鳴り合いに発展しそうな空気を、窓際の朝倉が静かな声で宥める。
「チョン」
「分かってます」
「本当に?」
「今はちゃんと鷹野課長の言葉を聞いてます」
「ならいい」
鷹野が再びこめかみを揉みほぐす。
だが、少しの間の後、再び口を開いた鷹野の声は、先ほどまでの刺々しさがほんの僅かに抜け落ちていた。
「ただ……」
ミンホが瞬きをする。
「少年たちから、巧みに話を引き出したこと。現場の微かな違和感を真っ先に拾い上げたこと。瀬尾という一個人の犯罪にとどまらず、その背後の黒いネットワークまで見据えて動いたこと」
一つずつ、確かめるように列挙し、鷹野はひどく言いにくそうに顔を背けた。
「そこは。……認めてやる」
ミンホは目を丸くした。珍しく、すぐには言葉を返さなかった。
沈黙を不審に思った鷹野が怪訝な顔をする。
「何だ」
「いや……」
「何だ、言いたいことがあるなら言え」
「今、褒められましたよね?」
「褒めてない!」
「『認める』って、間接的な『褒める』の一種じゃないですか?」
「違う!」
「じゃあ……」
ミンホの口角が、にやりと悪戯っぽく上がる。
「おれの顔も、認めてくれたってことでいいですか?」
「……は?」
鷹野が完全にフリーズする。窓際の朝倉が、堪えきれない様子で伏し目がちに肩を震わせていた。
「……何の話だ」
「よく言われるんです。顔がいいって」
「そういうふざけたところが最高に気に食わないんだよ俺は!」
会議室に鷹野の怒号が響き渡る。しかし、ミンホは楽しそうに笑い声を上げた。
「でも、刑事としての腕は認めてくれたんでしょ。ありがとうございます」
今度は、茶化すことなく。真っ直ぐに見据えて放たれた素直な感謝の言葉に、鷹野は一瞬だけ毒気を抜かれたように押し黙った。
「……まあな」
「じゃあ、これからもっと仲良くできますね、課長」
「それとこれとはまったく別だ!」
「なんでですか」
「お前が死ぬほど生意気だからだ!」
「そこ、今更蒸し返します?」
「チョン」
永遠に続きそうな不毛な口論を、朝倉が断ち切った。
「帰るぞ。業務が押している」
「はい」
「待て!」
立ち上がった二人を、鷹野が引き留める。
「まだ俺の説教は終わってないぞ!」
「え?」
「『え?』じゃない!」
本気で不思議そうな顔をするミンホを見て、朝倉はとうとう小さく声を上げて笑った。
*
午後。生活安全課の自席に戻ると、ミンホのデスクの上に、見慣れない紙袋がぽつんと置かれていた。
「何これ」
「ああ、相沢」
向かいの席から、書類仕事中の瀬川が顔を上げずに答える。 ミンホは目を瞬かせた。
「蓮くん?」
「学校の先生と一緒に来たよ」
「いつ?」
「お前が上の階で会議の延長戦やってる間」
「なんで待っててくれなかったの」
「午後から授業に戻るって言ってたからな」
ミンホは紙袋の中を覗き込んだ。中には、個包装された市販の焼き菓子と、小さく折りたたまれたメモ用紙が入っている。
警察官が個人的な謝礼を受け取るのはご法度だが、これなら「学校の先生を通してのささやかな差し入れ」としてギリギリ問題にならない形だ。
ミンホは丁寧にメモを開いた。そこには、鉛筆の大きな、少し乱暴な字でこう書かれていた。
『もう万引きしません。たぶん』
「……」
横から首を突っ込んできた桐生が、鼻で笑う。
「最後の『たぶん』の三文字」
「いらないね、これ」
「お前に似たんじゃねえの?」
「何が」
「そういう、素直になりきれずに変な保険かけるところ」
「失礼な」
ミンホは唇を尖らせたが、その視線はメモの下部に添えられた、さらに小さな文字に釘付けになっていた。
『今度は普通に会いに行きます』
『韓国帰っても忘れんな』
「……」
ミンホの生意気な瞳の奥が、ふわりと柔らかく解ける。
「可愛いな」
瀬川がパソコンの画面から目を離して笑う。
「お前が?」
「蓮くんが」
「分かってるよ。冗談だ」
ミンホはメモを捨てることなく、元の折り目に沿って丁寧に畳み直し、デスクの一番上の引き出しにそっとしまった。
その一連の動作を、桐生は何も言わずに見守っていた。
「野口の方は?」
ふと思い出したようにミンホが聞く。
「ああ。あいつも今日から部活に復帰したらしいぞ。顧問の先生がガッツリ絞った後、ちゃんと居場所を作ってくれたみたいだ」
「……ほんと?」
「ああ」
「よかった」
その声は、心の底からの安堵に満ちていた。
「よかったね」と、今度は自分自身に言い聞かせるように小さく呟く。
ミンホは椅子に深く座り直し、端末の画面を立ち上げた。仕事の山が待っている。
しかし、数秒後。彼は無意識のうちに再び引き出しを開け、先ほどのメモをチラリと見てから、パタンと閉じた。
「何やってんだ」
瀬川が可笑しそうに笑う。
「別に」
「嬉しい?」
「まあ、少しだけ」
「韓国、持って帰るのか?」
「……」
その問いに、ミンホのタイピングする手がピタリと止まった。
「……たぶん」
「そっか」
それだけの、何気ない同僚との会話。 しかし、「帰国」という二文字が、以前のように軽い響きを持たなくなっていることに、ミンホ自身が一番気づいていた。胸の奥に、じわりと重い鉛が沈んでいくような感覚。 タイムリミットは、確実に迫っている。
*
夕方。生活安全課長から、秋以降の人事異動に伴う正式な引き継ぎ日程が、課内全体に共有された。
ミンホの韓国警察への帰任まで、あと三ヶ月。
正確には、あと八十七日。
最後の一ヶ月は、煩雑な帰国手続きや本部への報告書作成、韓国側とのリモート打ち合わせなどで潰れるため、実務から外れる時間は日に日に増えていく。
「八十七日、か」
予定表を見つめながら、ミンホがぽつりと呟いた。
瀬川が反応する。
「わざわざ数えたのか?」
「予定表の端にカウントダウンが書いてある」
「気にしてる証拠じゃん」
「別に」
「昔のお前なら『約三ヶ月ですね』で済ませてたぞ。それが『八十七日』って、やけに細かい」
「警察官は細部への観察力が命ですから」
「うるせえよ」
ミンホは予定表を睨みつけた。 八十七日。それは永遠のように長くも思えるし、瞬きする間に終わってしまうほど短いようにも感じられた。
「ミンホ」
桐生が椅子を回して声をかけてきた。
「何」
「今日、仕事終わったら飲みに行くか?」
「急だね。何で?」
「事件も一区切りついたし、パーッとやりたい気分なんだよ。瀬川さんも行くって」
「行く行く」
ミンホは視線を宙に彷徨わせた。
「朝倉さんは?」
聞いてから、しまった、と口をつぐむ。
桐生と瀬川が、申し合わせたように同時にミンホの顔を見た。
「……何」
「いや」
「だから何」
「やけに自然に名前が出たなーと思って」
「仕事の打ち上げなら、管理官も来るかなって思っただけ」
「誰も『仕事の打ち上げ』とは言ってないぞ。ただの飲んべえの集まりだ」
「……」
ミンホが不満げに黙り込むと、桐生がニヤニヤしながら身を乗り出した。
「何? 朝倉管理官、呼びたいの?」
「違う」
「即答」
「違うってば」
ミンホの白い耳が、見る見るうちに赤く染まっていく。分かりやすすぎる反応に、桐生は肩を揺らして笑った。
「じゃあ、野郎三人でしっぽり行くか」
「え」
「朝倉管理官抜きで」
「……」
「何だよ」
「別に」
「じゃあ決まりな。店探すわ」
「……」
ミンホの整った顔が、これ以上ないほど露骨に「気に入らない」と語っていた。
瀬川が堪えきれずに噴き出す。
「もう無理だろこれ、見てらんない」
「何がですか」
「お前だよ。管理官がいない飲み会なんて、露骨に嫌そうな顔してんじゃん」
「嫌じゃないです」
「顔が『朝倉さんがいないなら行きたくない』って言ってる」
「普通です」
「出た、朝倉管理官と同じ『普通』返し」
「二人してうるさい」
その時、課の入口から、低く落ち着いた声が響いた。
「何を騒いでいる」
聞き慣れた、一番聞きたかった声。 ミンホの表情が、一瞬でパッと花が咲いたように明るくなった。
本人にはまったく自覚がないだろうが、劇的な変化だった。
「悠さん」
尻尾を振る犬のように自然に呼ぶミンホを見て、桐生と瀬川がまた「ほら見ろ」と目を合わせる。
朝倉が書類の束を抱えたまま近づいてきた。
「何だ、珍しく騒がしいな」
「今日、事件の区切りで飲みに行くんだって」
「そうか」
「悠さんも来る?」
ミンホが上目遣いで聞く。 朝倉は、少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
「俺も、か?」
「嫌ならいいけど」
「行く」
食い気味の即答。 桐生がすかさずツッコむ。
「早っ」
「ミンホに誘われたからな」
「仕事、まだ山積みじゃないですか?」
「終わらせる」
「飲み会、一時間後ですよ?」
「だから、一時間で終わらせる」
揺るぎない決意を込めて自席へ向かう朝倉の後ろ姿を見送り、瀬川が桐生の腕を小突いた。
「なあ、見た?」
「バッチリ見ました」
「どっちが重症だと思う?」
「両方っすね」
誰の目から見ても、完全に両想い。互いへの巨大な感情がダダ漏れ。 それなのに、いまだに「正式には付き合っていない」という信じがたいステータス。 その事実だけが、現在この品川署において最も解明困難なミステリーだった。
*
結果として、その夜の飲み会はかなりカオスでありながらも平和なものとなった。 参加者は、桐生、瀬川、ミンホ、朝倉。そして途中から、なぜか鷹野までが合流していた。
「何で課長がいるんですか」
ジョッキを持ったミンホが、心底嫌そうに眉をひそめる。
「お前が呼んだんじゃないだろうが!」
「おれは絶対に呼びません」
「さっき廊下で桐生に声かけられたんだよ! 『これから生安で飲むんですけど来ますか』ってな!」
「桐生さん、何余計なことしてるの」
「事件の区切りなんだから、部署の垣根を越えてノーサイドでいいだろ」 「ノーサイドにするにしても、もっと和やかでマイナスイオン出てる人呼んでよ」
「全部聞こえてるぞチョン!」
「聞こえるように言いました」
「お前なぁ……!」
個室の居酒屋に、鷹野の怒声とミンホの笑い声、桐生と瀬川の囃し立てる声が交錯する。
そんな喧騒の中、朝倉はミンホの隣に陣取り、静かに日本酒のグラスを傾けていた。
ミンホのジョッキの中身は烏龍茶だ。
酒が弱いわけではない。韓国仕込みのアルコール耐性はかなりのものだが、今日はただ、酔いたくない気分だった。
「おいお前、酒飲めねえのか」
鷹野が不思議そうに聞く。
「飲めますよ。今日は休肝日です」
「韓国人なら、水みたいに酒飲むくらい強いんじゃないのか?」
その言葉に、ミンホの目がスッと細くなった。
「それ、古い偏見」
ピシャリと言い放たれ、鷹野はグラスを持ったまま一瞬フリーズした。
「……悪い」
思いのほか素直な謝罪に、今度はミンホが目を丸くする。
「え、謝るんだ」
「失言には謝る。当たり前だろ」
「意外とちゃんとしてる」
「お前、俺をなんだと思ってるんだ!」
「すぐ怒鳴る怖いおじさん」
「おじっ……!」
鷹野が致命傷を負ったように言葉を詰まらせ、瀬川が腹を抱えて笑い転げる。桐生は笑いすぎて机に突っ伏していた。
ふと見ると、隣の朝倉までが肩を揺らして静かに笑っている。
「管理官!」
鷹野が恨めしそうに睨む。
「すみません」
「今、明らかに笑ってましたよね!?」
「少し」
「そこは嘘でも否定してくださいよ!」
「難しいですね」
見事な連携プレーに、ミンホが楽しそうに朝倉を見上げる。
「悠さん、今日よく笑うね」
「そうか?」
「うん。機嫌いいの?」
「お前が楽しそうにしているからだろうな」
さらりと、呼吸をするように落とされた甘い言葉。 ミンホは耳まで赤くして絶句した。
「……今の」
「何だ」
「勤務外だからって、何言っても許されると思ってる?」
「だいたいそう思っている」
「最悪」
「知ってる」
「その返し、まだ覚えてたんだ」
「韓国語での発音もな」
「もう二度と言わない」
「それは残念だ」
二人の間にだけ流れる、糖度が高すぎる謎の空間。 それを正面からまともに食らった鷹野は、虚無の顔でじっと二人を見つめた後、隣の桐生にそっと顔を寄せた。
「なあ」
「はい」
「あいつら……」
「はい」
「付き合ってるのか?」
「いいえ」
「……嘘だろ」
「まだです」
「まだ!?」
瀬川も笑いながら会話に加わる。
「本人たち曰く、ですけどね」
「曰くってなんだよ」
「お互い、好きだとは明言してるらしいです」
「……」
「両方とも」
鷹野の顔が、この世のすべての理不尽を集めたように歪む。完全に理解不能といった様子だ。
「じゃあ、何でさっさと付き合わないんだよ! 周りが気を遣うだろうが!」
桐生と瀬川が、声を揃えて力強く頷いた。
「「それです!」」
三人の妙な一体感に気づいたミンホが、怪訝な顔でこちらを覗き込む。
「何の話?」
「「何でもない」」
またしても見事に揃った返答に、ミンホはますます眉を寄せる。
「絶対おれの悪口言ってた」
「いいから飲め」
桐生がジョッキを押し付ける。
「ほら、唐揚げ食べろ」
瀬川が皿を寄せる。
鷹野までが「若いんだから食っとけ」と枝豆を勧めてきた。
「なんでみんな急におれを太らせようとしてるの」
そんな攻防の中、朝倉だけが静かに、ミンホの取り皿へ上品なだし巻き卵を一つ、箸で取り分けた。
「これくらいなら食べられるだろう」
ミンホは朝倉を見上げ、すんと大人しくなった。
「……うん」
「食べろ」
「はい」
素直にだし巻き卵を頬張るミンホを、向かいの三人が、まったく同じ「やれやれ」という顔で見つめていた。
「……何」
ミンホが咀嚼しながら睨む。
「「だから何でもない」」 三人の息は、最後までぴったりと合っていた。
*
賑やかな会がお開きになったのは、午後十時を少し回った頃だった。
鷹野は方向が違うと言って駅の反対側へ消え、桐生と瀬川も途中の乗り換え駅で手を振って別れた。
結果として、最後に残されたのはミンホと朝倉。 いつもの、二人だけの帰り道。
夜の品川は、まだ眠る気配を見せない。駅前のロータリーは眩いネオンに照らされ、家路を急ぐ会社員や、スーツケースを引く旅行客、絶え間なく行き交うタクシーとバスのヘッドライトで溢れている。
街の喧騒が、心地よいBGMのように絶えず流れていた。
「送る」
改札へ向かおうとするミンホの背中に、朝倉が当然のように声をかける。
「駅まででいいよ」
「家まででもいいが」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん。子供じゃないんだから」
二人は並んで歩き出す。 朝倉は背が高く、当然歩幅も大きい。しかし、いつだってミンホの歩調に合わせ、少しゆっくりと歩いてくれる。
ミンホは、その優しさに今更ながら気がついて、少し胸が苦しくなった。
「悠さん」
「何だ」
「歩くの、遅いね」
朝倉が横目でミンホを見る。
「今更か?」
「うん」
「お前に合わせているからな」
「いつも?」
「ああ」
「……」
立ち止まりそうになる足を無理やり動かす。
「知らなかった」
「そうだろうな」
「言ってよ。おれ、無理させてるみたいじゃん」
「言う必要がない」
「なんで」
「俺が、そうしたいからだ」
その言葉。以前にも、似たような台詞を聞いた気がする。 朝倉はいつもそうだ。ミンホに何かをしてくれる理由を、決して恩着せがましく語らない。ただ「自分がそうしたいから」「お前が好きだから」と、揺るぎない事実として提示してくるだけだ。
ミンホは、少しだけ俯いて、アスファルトの模様を見つめた。
「どうした」
「別に」
「嘘だな」
「何で分かるの」
「最近は手に取るように分かる」
「怖っ。ストーカー?」
「長く見ているからな」
「……長い?」
朝倉の声が、夜の空気に溶けるように柔らかくなる。
「三年だ。最初にお前を見た時から」
ミンホは弾かれたように顔を上げた。
「最初から好きだったの?」
「いや」
「じゃあいつから」
「知りたいか?」
「ちょっとだけ」
朝倉は少し考える素振りを見せ、夜空を見上げた。
「最初は……顔がいいと思った」
「そこ?」
「紛れもない事実だ。次に、仕事が異常に速い」
「それは褒めてる?」
「最大の賛辞だ。そして、生意気」
「それ悪口」
「他者との距離がバグっている」
「それも悪口だよね?」
「そのくせ、妙に人に好かれる」
「……うん」
「怖いくらい他人の機微をよく見ているくせに……」
少しだけ間を空けて、朝倉はミンホの目を真っ直ぐに捉えた。
「自分が他人からどう見られているか、どう愛されているかだけ、妙に分かっていない」
ミンホは痛いところを突かれたように眉を寄せた。
「……それ、昔からよく言われる」
「だろうな」
「で?」
「気づいたら、どうしようもなく惹かれていた」
「雑だな。恋愛なんてもっとドラマチックなきっかけがあるんじゃないの?」
「あるぞ」
朝倉の足が止まる。ミンホもつられて立ち止まった。
「お前が」
静かに、朝倉が言う。
「初めて俺に向かって、韓国語で思い切り悪口を吐き捨てた日だ」
「……え」
ミンホの口がポカンと開く。
「覚えてる。エレベーターの前だったな」
「……何て言った?」 「たぶん『最悪』とか『クソ野郎』とか、そういう類だ」
「それで好きになったの? ドM?」
「いや」
朝倉は声を上げて笑った。
「でもあの日、俺はお前が好きだと明確に自覚したんだ」
「……最悪」
「その顔も好きだ」
「何でもありじゃん」
「お前相手ならな」
その言葉は、これまで何度も聞いた。 でも、今日は。残された日数を自覚した今日は、いつもよりずっと深く、重く、胸の奥底まで届いて響いた。
二人は、駅へ向かう喧騒のルートから少し外れ、人の少ない川沿いの遊歩道へと足を踏み入れた。
遠くに立ち並ぶビルの灯りが、暗い水面に反射してゆらゆらと揺れている。
夜風が少しだけ冷たく、ミンホの前髪を微かに揺らした。
ミンホは遊歩道の手すりに軽く寄りかかり、水面を見つめた。
朝倉も少し離れて隣に立つ。
何を言うか、ここ数日、いや、もっと前からずっと考えていた。
好きだ。それはもう、痛いほど分かっている。 朝倉がいないと寂しい。構われないと無性に腹が立つ。あの低い声で笑ってくれると、たまらなく安心する。一緒にいると、誰といるよりも楽で、自分らしくいられる。
当初は当たり前だった「韓国へ帰る」という未来が、今はひどく色褪せて見える。
でも、ただ「好き」という感情だけで乗り切れるほど、二人の未来は単純ではない。
「恋人」になる。その言葉を口にするなら、その先の厄介な現実まで、すべて見据えた上で踏み出したかった。
「おれ」
ミンホが沈黙を破る。
「韓国、帰ります」
「ああ」
「八十七日後」
「正確に数えているんだな」
「予定表に書いてあっただけ」
「そうか」
朝倉は笑わない。ミンホも、真剣な横顔のまま続ける。
「戻ったら、仕事は多分今よりずっと忙しくなる」
「そうだろうな。お前は優秀だから」
「勤務地もソウルになるか分からない。日本にいつ来れるかも、未定」
「うん」
「悠さんも、管理官だし忙しいよね」
「ああ」
「お互い警察だし。休みなんて絶対合わない」
「そういう月もあるだろうな」
「時差はほぼないけど」
「一時間もないな」
「うん。飛行機は飛んでる」
「前も言っていたな」
「何度でも言うよ」
ミンホは、そこで少しだけ自嘲気味に笑った。 すぐに真顔に戻り、朝倉に向き直る。
「だから」
朝倉が静かに待つ。
「簡単じゃないと思う」
「ああ」
「普通に考えて」
一度、深く息を吸い込む。
「超、面倒くさい」
「そうだな」
「絶対に寂しいと思う」
「ああ」
「すれ違って、喧嘩もするかも」
「するだろうな」
「おれ、性格悪いし」
「知っている」
「そこは嘘でも否定してよ」
「警察官は嘘をつかない」
「悠さんも結構性格悪いし」
「知っている」
「重いし」
「それも自覚している」
「しつこいし」
「お前相手になら、どこまででも」
ミンホの口元が、堪えきれないように少しだけ上がった。
「あと」
「うん」
「おれ」
少し言いにくそうに、視線を逸らす。
「イラッとしたら、また誰か殴るかもしれない」
「誰をだ」
「悪い人」
「駄目だ」
即答だった。ミンホが不満そうに朝倉を睨みつける。
「正当防衛ならいいでしょ」
「必要な範囲でな」
「相手が死ななければ」
「駄目だ」
「厳しい」
「警察官だからな」
「悠さんも」
「そうだ」
「おれも」
「だから、止める」
「……」
「お前が間違えそうになったら、何度でも俺が止める」
あの日言われた言葉。
『お前が自分で止まれない時は、俺が止める』
ミンホは、その言葉の本当の意味を、今なら少しだけ違う形で理解できる。
縛りつけるのではない。共に背負い、守るということ。 ただ止めるのではない。隣に立ち続け、一緒にいるということだ。
「悠さん」
「何だ」
「おれ」
逃げずに、真っ直ぐに、朝倉の深い黒曜石のような瞳を見つめる。
「悠さんのこと、好きです」
朝倉の瞳が、僅かに揺らいだ。 それは、以前にも言った言葉だ。「たぶん好き」と、照れ隠しの保険をつけて。 でも、今日のこの言葉には、一切の濁りも迷いもなかった。
「たぶん、じゃなく?」
朝倉が確認するように聞く。 ミンホはわざとらしく眉をひそめた。
「そこ拾う?」
「俺にとっては最重要事項だ」
「……好き」
「うん」
「かなり」
朝倉の顔がほころび、ほんの少しだけ、嬉しそうに笑った。 ミンホがすぐに睨みつける。
「笑わないで」
「無理だ」
「ほら、また笑った」
「嬉しいんだから仕方ないだろう」
「知ってる」
「なら許せ」
「ちょっとだけね」
少しの沈黙。川面を撫でる夜風の音。遠くを通る車の駆動音。 世界から二人だけが切り取られたような時間の中で、ミンホは決定的な言葉を紡ぐ。
「だから」
「うん」
「付き合う?」
朝倉の動きが、完全に止まった。呼吸すら忘れたかのような硬直。
ミンホが不思議そうに首を傾げる。
「何」
「……今」
「うん」
「お前から?」
「何が」
「『付き合う?』と」
「そう言った」
「俺に?」
「ここに悠さん以外、誰がいるの」
朝倉は、数秒間、本当に一言も発さなかった。 常に冷静沈着な管理官が、完膚なきまでに言葉を失っている。
その珍しい姿に、ミンホの方が少しずつ不安になってきた。
「……嫌だった?」
「違う」
光の速さの即答。
「じゃあ何」
「ただ、ひどく驚いている」
「悠さんでも驚くことあるんだ」
「当然だ」
朝倉が一歩、ミンホに近づく。
「ずっと、狂おしいほど口説き続けてきた相手から」
もう一歩。つま先が触れそうな距離。
「突然、そんな決定的な言葉を言われたら」
「突然じゃないでしょ」
「俺には青天の霹靂だ」
「おれ、ここ数日、頭の中で六話分くらい悩んだんだけど」
「何だその単位は」
ミンホがふふっと笑う。朝倉も、つられて少し笑った。 でも、次に紡がれた朝倉の声は、どこまでも深く、真剣だった。
「付き合いたい」
「うん」
「俺と、でいいんだな?」
「何回確認するの。バカなの?」
「念のためだ」
「悠さんしかいない」
「分かった」
朝倉が、安堵と歓喜が入り交じったような、深いため息を吐く。
「付き合おう」
その承諾。 それだけで、ミンホの胸の奥で燻っていた不安や葛藤がすべて溶け去り、変に熱いものが込み上げてきた。
「……うん」
小さく、素直な返事。 朝倉の目が、これ以上ないほど甘く柔らかくなる。
「ミンホ」
「何」
「好きだ」
「それ、今日何回目?」
「覚えていない」
「重い」
「今日から恋人になったからな。これからはもっと増える」
「勘弁して。減らして」
「無理だ」
「じゃあ、別れる?」
「即刻却下する」
あまりの早さに、ミンホは声を上げて笑った。
「冗談だよ」
「分かっている」
「ほんと?」
「ああ」
「何で分かるの」
朝倉が、すっと手を伸ばし、ミンホの頬をそっと撫でる。
「お前が」
少し、顔を近づけて。
「こんなに綺麗に笑っているからだ」
距離が近い。いつも近いけれど、今は、明確に意味が違う。
ミンホは直視に耐えきれず、朝倉のスーツのネクタイに視線を落とした。
「悠さん」
「うん」
「恋人って」
「うん」
「具体的に何すんの」
朝倉の手が止まり、一瞬の沈黙が落ちた。
「……今、それを聞くのか?」
「知らないから聞いてる」
「付き合った経験くらいあるだろう」
「あるけど。でも」
ミンホは上目遣いで朝倉を見る。
「悠さんとは、初めてだから」
今度こそ、朝倉悠という男の理性が吹き飛ぶ音がした。完全にフリーズしている。 ミンホが小首を傾げる。
「何」
「いや……」
「何だよ」
「今の破壊力は、かなり効く」
「何が?」
「お前は一生分からなくていい」
「ずるい。教えてよ」
朝倉が耐えきれずに笑い出す。ミンホも、よく分からないまま釣られて笑った。
それから、ミンホは一歩、自分から朝倉に近づいた。 スーツの袖を、きゅっと掴む。以前にもやった動作だ。
でも、今日はそのまま指を滑らせて、朝倉の腕に自分の腕をしっかりと絡ませた。 朝倉が驚いたように見下ろす。
「ミンホ」
「何」
「それは」
「こういうの、恋人っぽい?」
「……かなり」
「じゃあ、いいでしょ」
「そうだな」
「うん」
二人は、腕を組んだままゆっくりと歩き出した。 ミンホは前を向いたまま。朝倉も、ミンホの歩幅に合わせて並んで歩く。 数歩進んだところで、ミンホが夜風に溶けるような小さな声で呟いた。
「오늘은 같이 있고 싶어(今日は一緒にいたい)」
朝倉の足がピタリと止まる。
「……何て?」
ミンホは、パッと腕を解いて前に進み、振り返って悪戯っぽく笑った。
「秘密」
「聞き取れなかった。もう一度言ってくれ」
「だから秘密」
「ミンホ」
「やーだ」
「教えろ」
「絶対嫌」
「また悪口か?」
「違う」
「なら教えてくれてもいいだろう」
「嫌だ」
「気になる」
「警察官なら、自力で調べて」
朝倉が少し考える。
「発音だけ、もう一度頼む」
「やだ」
「じゃあ録音させろ」
「もっとやだ。変態」
「ミンホ」
「しつこい!」
夜の遊歩道を、二人は他愛のない言い合いをしながら歩いていく。 いつもの、くだらない応酬。でも、少しだけ、何かが根本から違っている。
ミンホは、再び朝倉の腕を取り、今度は自分から離そうとしなかった。朝倉も、歩幅を合わせたまま、その温もりを確かに受け止めている。
帰る場所。所属する国。職場。これからの生活。
そのすべてが、完全に同じになるわけではない。 むしろ、これから先、違うものの方がどんどん増えていくだろう。
海を隔てた距離。すれ違う時間。激務。会えない日々の焦燥。寂しい夜。 きっと、簡単な道のりではない。
それでも。
「悠さん」
「ん?」
「帰国まであと三ヶ月」
朝倉が、隣を見下ろす。 ミンホは、少しだけ前を向いたまま、きゅっと腕の力を強めた。
「でも」
「うん」
「終わるまで、じゃないんだよね」
その言葉に、朝倉は少しだけ目を細め、愛おしそうに微笑んだ。
「違う」
迷いのない、力強い断言。
「帰国まで、三ヶ月だ」
「うん」
「俺たちが終わるまで、じゃない」
ミンホが、小さく笑い声をこぼす。
「知ってる」
今度は、自分から、はっきりと言えた。 それだけで、もう十分だった。
*
翌朝。品川署、生活安全課。
午前八時五十八分。
「おはようございます」
ミンホがいつも通りに出勤し、課のドアを開けた。 書類の山と格闘していた桐生が顔を上げる。
「おはよ」
コーヒーを啜っていた瀬川も声をかける。
「おはよう」
ごく普通の、日常の風景。 ミンホも欠伸を噛み殺しながら自席へ座り、鞄を置き、パソコンの電源を入れた。
ふと視線を感じて顔を上げると、桐生と瀬川が、穴が開くほどミンホをガン見していた。
「何」
ミンホが怪訝に尋ねる。
「いや」
「めっちゃ見てるじゃん」
「見てる」
「なんで」
「昨日」
桐生が探るように言う。
「朝倉管理官と、最後一緒だったよな」
「うん」
「何時まで一緒にいたんだ?」
「秘密」
瀬川がピクッと反応する。
「秘密?」
「うん」
「何だよ、そのなんかこう、潤った顔」
「普通ですけど」
「絶対普通じゃない。なんかツヤツヤしてる」
「化粧水変えただけ」
「耳赤いぞ」
「冷房が寒かったから」
「八月だぞ。しかもまだ来たばっかりだろ」
「二人の視線が暑苦しいから」
「うるせえ」
二人が顔を見合わせ、「怪しい」と念波を飛ばし合っているその時、生活安全課のドアが開き、カツカツと整った足音が響いた。
朝倉悠だ。 いつも通りの完璧なスリーピーススーツ。手には決裁用の書類の束。隙のないエリート管理官のオーラ。
「おはよう」
落ち着いた声が課内に響き、署員たちが口々に挨拶を返す。ミンホも、何食わぬ顔で頭を下げた。
「おはようございます」
普通。あまりにも普通の態度。 桐生と瀬川が「なんだ、気のせいか」と拍子抜けした、その直後だった。
朝倉は自分のデスクへは向かわず、そのまま一直線にミンホの席まで歩いてきた。そして、持っていた小さな紙袋を、コトッとミンホの机の上に置いた。
「何これ」
「朝食だ」
「家で食べてきました」
「嘘だな」
「缶コーヒーは飲みました」
「それは朝食とは呼ばない」
「付き合った途端、さらにうるさ―――」
ピタッ。 課内の空気が、完全に、一ミリの狂いもなく停止した。
ミンホの口も、中途半端に開いたまま止まった。
朝倉が、静かに、そしてひどく優しげな目で見下ろしている。 桐生。瀬川。周囲の署員たち。 全員が、彫像のように固まり、ミンホを凝視していた。
「……」
ミンホの耳から首筋にかけて、一気に沸騰したように真っ赤に染まっていく。
「……いまの」
桐生が、震える声で絞り出す。
「いま」
瀬川も、信じられないものを見るような目で続く。
「何て?」
「…………」
ミンホは、両手で顔を覆い、机に突っ伏した。
「最悪……」
朝倉が、楽しそうに喉の奥で笑う。
「付き合った途端、何だ?」
「悠さんっ!!」
課内が、爆発した。
「ええええええ!?」
「付き合った!? お前ら!?」
「ついに!?」
「いつ!? いつから!?」
「昨日!? あの後!?」
「どっちから!? ねぇどっちから告ったの!?」
「管理官ですか!? チョンから!?」
「待って、うるさい! 質問が多い!」
顔を真っ赤にしたミンホが抗議の声を上げるが、野次馬と化した生安メンバーの耳には届かない。 桐生がバンバンと机を叩きながら叫ぶ。
「お前からかチョン!?」
「何でそこピンポイントで聞くの!」
「一番大事なとこだろうが!」
瀬川も身を乗り出して朝倉に迫る。
「管理官! 本当ですか!?」
朝倉は、まったく動じることなく平然と答えた。
「ああ。ミンホからだ」
「悠さん! 言わないでってば!!」
さらに上がる大歓声と拍手。ミンホは本気で荷物をまとめて韓国へ帰りたくなった。
「最悪だ……」
「おめでとう!!」
「うるさい!」
「三年越しの純愛!」
「知らない!」
「帰国前に駆け込みで!」
「それ言うな!」
その時、騒ぎを聞きつけたのか、書類を持った鷹野が入口に姿を現した。
「……朝から何の騒ぎだ。動物園かここは」
桐生が、満面の笑みで振り返り、最高に良い発音で報告した。
「課長! チョンと朝倉管理官、昨日付き合いました!」
鷹野の顔が、「無」になった。 手から書類がバサッと床に落ちる。
そして、大音量が署内に響き渡った。
「まだ付き合ってなかったのかお前らぁぁ!?」
課内が再び爆笑の渦に包まれる。 ミンホはもう何もかも諦めて、完全に机へ突っ伏した。
「もうやだ……死にたい……」
朝倉が、項垂れるミンホの頭の横に、紙袋から取り出した小さな高級プリンをそっと置いた。 ミンホが、腕の隙間から片目だけ覗かせる。
「……何それ」
「付き合った祝いだ」
「餌付け?」
「恋人への、ささやかな贈り物だ」
「……じゃあ、食べる」
桐生がすかさずツッコむ。
「そこで納得すんな!」
瀬川も笑いながら追撃する。
「もうそのポジション受け入れるんだな!」
ミンホは起き上がり、真っ赤な顔のままプリンの蓋を開けた。 スプーンですくって、一口。 口の中に広がる、濃厚で甘い、いつもの味。
でも、今日は。これまで食べてきたどんなスイーツよりも、特別に甘く感じられた。
「맛있다(美味しい)……」
無意識に、小さく韓国語が零れる。 朝倉が、じっとミンホを見る。ミンホも、上目遣いで見返す。
「分かった?」
「美味しい、だろう」
「正解」
「他は?」
「何が?」
「昨日の言葉」
朝倉が、少しだけ身を乗り出し、ミンホの耳元で静かに囁いた。
「調べたぞ」
ミンホのプリンを持つ手が、ピクリと止まる。
「……」
「今日は」
さらに近づく。吐息がかかる距離。
「一緒にいたい、だろう」
ミンホの顔から火が出そうになった。
「……調べたの!?」
「言われたからな。気になって」
「本当に調べる人がいる!?」
「お前のことなら、何でも調べる」
「最悪! 職権乱用!」
朝倉の口元が、堪えきれないように柔らかく弧を描く。
「最高に嬉しかった」
ミンホは、何も言い返せなかった。 悔し紛れにプリンをもう一口、大きめに頬張る。 それから、朝倉にだけ聞こえるような小さな声で、ぽつりと呟いた。
「……今日も」
「ん?」
「……別に」
「何だ、気になる」
「言わない」
「ミンホ」
「しつこい管理官は嫌われます」
周囲の署員たちは呆れたように笑い合い、またそれぞれの仕事へ戻っていく。
電話のコール音。キーボードを叩く音。書類をめくる音。
いつもの、慌ただしくも愛おしい日常。 でも、その中に、新しくて確かなものが、一つだけ増えた。
恋人。
韓国警察からやってきた、若くて、生意気で、異常に有能で、人懐っこくて、人の懐に入るのが上手くて、時々笑顔で物騒なことを言う警察官チョン・ミンホ。
ミンホ本人は、これまで生きてきて、誰かに好意を持たれることには慣れきっていた。
けれど、一人の人間を、自分から「絶対に手放したくない」と強く願ったのは、たぶん、これが初めてのことだった。
帰国まで、あと三ヶ月。八十七日。 それは、別れまでのカウントダウンではない。 恋人になって、第一日目。 その先の未来がどうなるかは、まだ誰にも分からない。
だからこそ、いい。
簡単じゃなくても。海を隔てて遠くても。お互い忙しくても。すれ違って面倒でも。 その時は、また二人で考えればいい。 一人で抱え込むのではなく、二人で。
ミンホは、もう一度プリンを口へ運ぶ。 隣には、見上げるほど背の高い、重くて過保護な管理官がいる。 それだけで、今日という日も悪くない。 いや、むしろ。かなり、いい。
帰国まで、あと三ヶ月。 恋人になって―――一日目。




