あと三ヶ月で終わるなら
正午を知らせる庁内放送が流れた瞬間、チョン・ミンホは机上の書類を一枚だけ裏返した。
それから、何事もなかったかのように新しい資料へ手を伸ばす。
「ミンホ」
向かいから桐生の声が飛んでくる。
「何」
「昼」
「うん」
「十二時」
「時計は読めます」
「そうじゃねえよ」
桐生が顎で示した先、生活安全課の入口近くに朝倉悠が立っていた。
いつもの濃紺のスーツ。
いつもの整った顔。
いつもの、いかにも仕事のできる管理官らしい隙のなさ。
ただし、今日は片手に何も持っていない。
書類も、ファイルも。
つまり完全に私用で来ている。
ミンホは見なかったことにして端末へ視線を戻した。
「チョン」
朝倉が呼ぶ。
「はい」
「行くぞ」
「どこに」
「昼」
「一人で行ってきてください」
「昨日、嫌ではないと言っただろう」
「嫌ではないことと、行くことは別です」
「詭弁だな」
「言葉の精度です」
「チョン」
「何ですか」
「逃げるな」
ミンホの指が止まる。
桐生が吹き出した。
「昼飯で逃げるって何だよ」
「逃げてない」
「朝倉管理官が来てから、一度も顔を上げてねえぞ」
「仕事をしています」
瀬川が横から口を挟む。
「さっきから同じ資料を三回開いてるけど」
「……」
「しかも今、上下逆」
ミンホは黙って資料をひっくり返した。
課内に笑いが起こる。
朝倉だけは表情を変えない。
「十二時二分だ」
「細かい」
「お前が来ないからだ」
「五分だけ」
「十分待つ」
「増やさないでください」
「なら、今来い」
ミンホはしばらく朝倉を睨んでいた。
しかし、相手が引く気配はない。むしろ、昼食の誘いにしては妙に堂々としている。逃げ道を塞ぐというより、最初から逃げることなど想定していない顔だった。
「……分かりました」
渋々立ち上がる。
桐生と瀬川がにやにやしている。
「何」
ミンホが睨む。
「別に」
「楽しそうですね」
「いやあ」
桐生が笑う。
「管理官との昼デート、楽しんでこいよ」
「デートじゃないです」
「本人がデートって言ってたぞ」
ミンホが朝倉を見る。
「言いました?」
「ああ」
「なぜ認めるんですか」
「俺は最初から、そのつもりだからだ」
課内が静かになる。
数秒の間。
「うわ……」
誰かが小さく漏らした。
ミンホは額を押さえる。頭痛の予兆がした。昼食前なのに、すでに胃が重い。原因は空腹ではなく、目の前の男の発言だ。
「悠さん」
「何だ」
「そういうことを職場で言うのはやめてください」
「二人きりならいいのか」
「そういう意味じゃない!」
「分かった」
「絶対に分かってない」
朝倉は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、ミンホはまた何か言い返そうとしたが、やめた。
なぜか今日は少しだけ、その顔に弱い。
*
店は署から徒歩七分ほどの場所にあった。
大通りから一本入ったところにある、小さな洋食店。
外観は派手ではない。
白い壁。
木製の看板。
窓辺には小さな鉢植え。
平日の昼時ということもあり、店内は会社員や近隣住民で埋まりつつあった。厨房からはバターの香りが漂い、入口近くのテーブルでは、昼休みを一秒でも長く楽しもうとする会社員たちが、料理を待ちながらスマートフォンを覗き込んでいる。
「ここですか?」
ミンホが看板を見る。
「ああ」
「朝倉さんが選んだんですか?」
「そうだ」
「意外です」
「何が」
「もっと堅い店に行きそうなので」
「堅い店とは」
「ホテルのレストランとか」
「昼休みに?」
「悠さんならやりそうです」
「偏見だな」
「偏見ではなく、実績に基づく予測です」
「俺は昼からフルコースを食べるような人間に見えるのか」
「見えます」
「そうか」
「否定しないんですね」
「否定するほどでもない」
「やっぱりそういう人じゃないですか」
二人で店へ入る。
店員に案内されたのは、奥の二人掛けの席だった。
ミンホは反射的に店内を見渡した。
入口。
厨房。
非常口。
窓。
人の動き。
癖だ。
本人にとっては、もう意識して行う行為ですらない。席に着く前に、逃走経路と死角と店員の配置を確認してしまう。洋食店に来てまで警戒態勢を敷く自分に、我ながらどうかと思うこともあるが、直す気はなかった。
それを、朝倉は何も言わず見ていた。
「何ですか」
ミンホが気づく。
「いや」
「見ていましたよね」
「見ていた」
「なぜですか」
「癖なんだなと思って」
「何が」
「入った場所の出口を見ること」
ミンホは少し黙る。
「警察官だから」
「そうか」
「悠さんも見るでしょう」
「見る」
「じゃあ同じです」
「俺はお前ほど速くない」
「そうですか?」
「三秒くらいだったぞ」
「数えていたんですか?」
「なんとなく」
「怖いですね」
言いながら、ミンホはメニューを開く。
朝倉も開く。
「量の少ないものはありますか?」
「小皿のセットがある」
「本当だ」
「デザートもつく」
ミンホの目が少し止まる。
朝倉が気づく。
「それにするか」
「まだ決めていません」
「顔に書いてある」
「書いていません」
「プリン」
「……」
「好きだろう」
「別に」
「昨日も食べた」
「昨日のは悠さんが買ってきたからです」
「美味いと言っていた」
「それはそれです」
「今日もプリンだ」
「決めつけないでください」
「では、プリン以外を頼むのか」
「……」
「どうした」
「メニューを見ています」
「プリンのページを?」
「偶然です」
「三分間ずっと?」
「偶然が長いだけです」
結局、ミンホはプリン付きの小皿セットを注文していた。
朝倉は何も言わなかった。
ただ、少し笑っていた。
「何ですか」
「何でもない」
「絶対に何かあります」
「ない」
「笑っています」
「嬉しいだけだ」
「何がですか」
「予想が当たった」
「最悪です」
「悪口が日本語になったな」
「韓国語を覚えられたから、言いません」
「残念だ」
「なぜ残念なんですか」
「お前が油断して喋るのが好きだった」
ミンホが瞬きをする。
「……そういうことを普通に言いますよね」
「普通ではない」
「自覚があるんですね」
「お前にだけ言っている」
「もっと悪いです」
「なぜ」
「知りません」
「またそれか」
朝倉は笑った。
料理が運ばれてくる。
小さなハンバーグ。
サラダ。
スープ。
パン。
全体的に量は控えめ。
ミンホにはちょうどいい。
一口食べる。
「どうだ」
「美味しいです」
朝倉の目元がわずかに緩む。
「よかった」
「悠さんは?」
「美味い」
「それだけですか?」
「何を求めている」
「感想です」
「肉の焼き加減がちょうどいい」
「真面目ですね」
「聞いたのはお前だろう」
ミンホが笑う。
平和だった。
仕事の話をしなくていい。
事件の話もしなくていい。
少年たちのことも、瀬尾の供述も、資料も、報告書も、何も。
ただ昼休みに二人でご飯を食べる。
そのことが、思ったより嫌ではなかった。
むしろ、料理の味よりも、向かいに朝倉がいることのほうが気になっている自分に気づき、ミンホは密かに困っていた。
食事に集中したいのに、朝倉が水を飲むだけで目が行く。スープを口に運ぶだけで、なぜか確認してしまう。これは警察官としての観察力ではなく、ただの意識しすぎだ。
「悠さん」
「ん?」
「これ」
ミンホが自分の皿から小さく切ったハンバーグをフォークに乗せる。
朝倉が見る。
「食べますか?」
「いいのか」
「多いので」
「そういう理由か」
「嫌ならいいです」
「食べる」
朝倉が身を寄せる。
そのまま、ミンホのフォークから食べた。
動作は自然だった。
あまりにも自然で、ミンホも一瞬は気づかなかった。
数秒後、ぴたりと手が止まる。
「……」
「どうした」
「今」
「うん」
「普通に食べましたよね」
「ああ」
「おれのフォークで」
「ああ」
「……」
「何か問題があるのか」
「あるでしょう」
「何が」
「間接―――」
途中で言葉を飲み込む。
朝倉の眉が少し上がる。
「間接?」
「言いません」
「言いかけたのはお前だ」
「忘れてください」
「無理だな」
ミンホは耳を赤くして水を飲む。勢いがよすぎて、危うくむせそうになった。
朝倉が背中を叩こうと手を伸ばすが、その前にミンホが片手を上げて制する。
「悠さんって」
「うん」
「絶対にわざとやっていますよね」
「今回は違う」
「信用がありません」
「日頃の行いか」
「自覚があるじゃないですか」
朝倉は楽しそうだった。
ミンホは不満そうにパンを小さくちぎる。
でも、嫌そうではない。
それを、朝倉はちゃんと見ていた。
*
食後、プリンが運ばれてきた。
小さなガラスの器。
固めのプリン。
上には生クリーム。
ミンホの機嫌が目に見えて良くなる。
さっきまでフォークの件で赤くなっていた耳が、今度は別の理由で少しだけ緩む。スプーンを手に取る動作まで、どこか慎重で、しかし期待を隠しきれていない。
「分かりやすいな」
「何がですか」
「顔」
「普通ですけど」
「さっきより口角が上がっている」
「見すぎです」
「好きだからな」
「……」
ミンホがスプーンを持ったまま固まる。
「今の」
「何だ」
「さらっと言うのはずるいです」
「何が」
「知りません」
「また?」
「知らないと言っているでしょう」
「またそれか」
一口含む。甘い、柔らかい、少し苦いカラメル。
「맛있어(美味しい)……」
小さく漏れる。
朝倉が笑う。
ミンホがすぐに睨む。
「何ですか」
「今のは分かる」
「言わなくていいです」
「美味しい」
「翻訳しないでください」
「合っているだろう」
「合っていますけど」
「よかったな」
「……はい」
その返事があまりにも素直だったので、朝倉はまた笑いそうになった。
しかし、これ以上笑えば本気で怒られる。
ミンホは怒ると頬を膨らませる。本人は威嚇のつもりらしいが、朝倉から見ると、プリンを守る小動物にしか見えない。
それから、しばらく本当に何でもない話をした。
署の近くに新しいカフェができたこと。
桐生が最近太ったと騒いでいること。
瀬川がまた寝坊したこと。
朝倉が意外にも辛いものが苦手なこと。
「辛いものが苦手なのに、韓国料理は食べられるんですか?」
「努力はする」
「努力して食べるものではないでしょう」
「お前が食べたいなら食べる」
「無理しなくていいです」
「無理ではない」
「顔が無理だと言っています」
「顔で判断するな」
「汗は出ますか?」
「体温調節だ」
「目は赤くなる?」
「刺激に反応しているだけだ」
「それを辛いものが苦手と言うんです」
朝倉は反論しようとしたが、ミンホが楽しそうに笑っているのを見て、黙った。辛い料理に挑む価値は、どうやら味ではなく、この顔を見ることにあるらしい。
ミンホが韓国へ帰ったら食べたいもの。
「何が食べたい」
朝倉が聞く。
ミンホは少し考える。
「母さんのキムチチゲ」
「好きなのか」
「うん」
「他は」
「サムギョプサル」
「少食なのに?」
「少しでいい」
「なるほど」
「あと」
言いかけて、止まる。
朝倉が待つ。
「……別に」
「何だ」
「何でもない」
「言え」
「嫌です」
「気になる」
「知りません」
「またそれか」
ミンホが笑う。
でも、その笑いは少しだけ薄かった。
朝倉はそれに気づいた。
「帰ったら」
静かに言う。
ミンホのスプーンが止まる。
「何ですか」
「会いに行く」
一瞬、時間が止まったようだった。
店内のざわめきは変わらない。
食器の音。
店員の声。
誰かの笑い声。
全部聞こえている。
なのに、ミンホには、その一言だけが妙に近く聞こえた。
「……どこに」
分かっているのに、聞く。
「韓国」
朝倉は当然のように答える。
「お前に」
「……仕事で?」
「私用だ」
「なぜですか」
「会いたいからだ」
「……」
「休みが取れれば行く」
ミンホは目を逸らした。
「わざわざ?」
「ああ」
「飛行機に乗って?」
「ああ」
「そこまでして?」
「そうだ」
「……変です」
「知っている」
「普通はしません」
「普通かどうかはどうでもいい」
ミンホの指先がスプーンを軽く回す。
「でも」
「うん」
「おれ、向こうで働きますよ」
「知っている」
「忙しいと思います」
「知っている」
「会えないかもしれません」
「その時はまた行く」
「何度も?」
「ああ」
「……なぜですか」
朝倉が少しだけ眉を寄せる。
「何度言わせる」
ミンホは黙る。
「好きだからだ」
真正面。
逃げ道がない。
「……悠さん」
「何だ」
「そういう話は」
「うん」
「今しなくてもよくないですか?」
朝倉の表情が僅かに変わる。
「なぜ」
「まだ三ヶ月ありますし」
「だから今している」
「……」
「三ヶ月後の話をしておきたい」
「おれは別に」
反射だった。
「そこまで考えなくてもいいと思います」
朝倉が黙る。
ミンホも。
言ったあと、胸の奥が少しざらつく。
「どういう意味だ」
朝倉の声は静かだった。
怒ってはいない。
でも、さっきまでより少し低い。
「そのままです」
「帰ったら終わりでいいと?」
「……」
「チョン」
「だって」
ミンホは視線を落とした。
「普通、そうでしょう」
「何が」
「職場も変わりますし」
「うん」
「国も変わりますし」
「うん」
「今のようには会えません」
「それで?」
「それでって」
「だから終わるのか」
ミンホの喉が僅かに詰まる。
「付き合ってもいないのに、終わるとか言われても」
「俺は今、その先の話をしている」
「おれはしていません」
「なぜ」
「……」
答えられない。
本当に分からない。
ただ、帰国後も続く前提で話されると、怖かった。
期待することが。
朝倉がそこまで自分を好きでいると信じることが。
そして、自分もそれを欲しいと思ってしまうことが。
「ミンホ」
仕事でも、普段でも、朝倉は基本「チョン」と呼ぶ。
だから、余計に心臓が変に跳ねた。
「無理に答えろとは言わない」
朝倉は言う。
「……」
「ただ」
少しだけ間を置いて。
「お前が帰るから終わる、とは俺は思っていない」
ミンホは何も言えない。
「それだけ覚えておけ」
朝倉はそれ以上追及しなかった。
食事を終える。
店を出る。
署までの七分間、二人の間に少しだけ気まずい沈黙が続いた。
ミンホは隣を歩きながら、何度も口を開きかけた。
謝るべきか、話題を変えるべきか、それとも今の話をなかったことにするべきか。
だが、どれも選べない。朝倉は急かさず、ただ歩幅だけをミンホに合わせていた。
そのことが、余計に苦しかった。
*
午後。
ミンホの仕事は異常に速かった。
速いというより、逃げるように資料を処理し、電話を取り記録を確認し、依頼されたものを片っ端から終わらせていく。
「ミンホ」
桐生が声をかける。
「何」
「朝倉管理官と喧嘩した?」
「してない」
即答。
「デート失敗?」
「デートじゃない」
「じゃあ何」
「昼ご飯」
「機嫌悪いじゃん」
「悪くない」
「朝倉管理官と同じこと言ってるぞ」
ミンホの手が止まる。
「……最悪」
「何が」
「知りません」
桐生は少し笑った。
それ以上は聞かなかった。
ミンホも話したくなかった。
帰ったら終わり。
普通、そうだ。
そう思っていた。
国が変わる。
職場が変わる。
生活が変わる。
人間関係も自然に少しずつ離れていく。
それが普通。
だから、最初から期待しなければいい。
なのに朝倉は会いに行くと言った。
好きだから。
当たり前のように。
「……」
ミンホは端末へ視線を戻す。
集中できない。
腹が立つ。
自分に。
「진짜 미쳤다(マジでヤバい)……」
小さく漏れる。
「何?」
瀬川が反応する。
「何でもない」
「今の悪口?」
「違う」
「朝倉管理官?」
「違う!」
声が大きくなる。
瀬川と桐生が目を合わせる。
絶対に何かあった。
二人とも、同じことを思った。
*
夕方五時過ぎ。
一本の電話が入った。
相手は、相沢蓮の母親。
「はい、生活安全課少年係、チョンです」
ミンホは受話器を耳へ当てる。
最初は普通だった。
だが、内容を聞くうちに表情が変わる。
「……はい」
椅子から立ち上がる。
桐生が気づいた。
「いつですか」
声が低くなる。
「分かりました。こちらからも確認します。お母さんは家にいてください。蓮くんから連絡が来たら、すぐに」
受話器を置く。
「何だ」
桐生が聞く。
ミンホが上着を取る。
「蓮くん、学校から帰っていない」
「何時から」
「下校は三時半。母親には五時までには帰ると言っていた」
「携帯は?」
「電源が切れている」
瀬川が立つ。
「友達は」
「一人、一緒に学校を出ている。でも途中で別れたって」
「瀬尾の関係者?」
桐生の声が変わる。
「分からない」
ミンホの顔から、昼の気まずさも苛立ちも、全部消える。
完全に仕事モード。
「防犯カメラを確認します」
「俺、学校に連絡する」
「瀬川さん、母親から最近接触した友人をすべて聞いて」
「了解」
ミンホは端末を操作する。
速い。
数分後、画面を見つめたまま眉が寄る。
「……おかしい」
「何が」
「帰宅方向じゃない」
防犯カメラ内で、蓮は駅とは逆方向へ一人で歩いている。
「どこへ向かっている」
桐生が画面を覗く。
ミンホは地図を開く。
位置。
時間。
方向。
頭の中で組み合わせる。
「……野口くん」
「何?」
「病院」
瀬川が顔を上げる。
「見舞いか?」
「違う」
ミンホが立ち上がる。
「野口くん、退院している」
「じゃあ」
「家」
地図を見る。
「この方向、野口くんの家です」
桐生が息を吐く。
「なんだ」
「でも」
ミンホの表情は緩まない。
「携帯を切る必要がある?」
三人とも黙る。
嫌な感覚。
同時に内線が響く。
瀬川が取る。
「はい―――」
表情が変わる。
「分かりました!」
受話器を切る。
「野口の母親から」
「何」
「家の近くで若い男がうろついている。野口を呼び出そうとしているらしい」
ミンホが走り出した。
*
「チョン!」
廊下をかけ出そうとした時、呼び止められた。
後ろから朝倉の声。
ミンホは止まらない。
「今は無理!」
「状況は聞いた」
朝倉が追いつく。
「俺も行く」
「刑事課は?」
「向かっている」
「悠さん」
「何だ」
「昼の話は、今しないでください」
朝倉が一瞬止まる。
「するか」
「ならいい」
「車」
「おれが運転します」
「駄目だ」
「なぜですか」
「今のお前は急ぎすぎる」
「急いでいるからです」
「だから俺が運転する」
反論しようとして、やめる。
「……分かりました」
車へ乗る。
ミンホは助手席で地図を見ながら情報を整理していた。
「野口くんの家まで十二分」
「分かった」
「蓮くんの最後の確認地点から徒歩なら」
「八分程度か」
「うん」
「先に着いている可能性が高いな」
「……」
「チョン」
「何」
「最悪の想定だけで動くな」
ミンホが横を見る。
「分かっています」
「本当に?」
「……分かっています」
朝倉はそれ以上言わない。
赤信号で停止。
ミンホは指先を握っていた。
強く、爪が掌に食い込むほどだった。
朝倉がそれを見る。
「大丈夫だ」
「何が」
「まだ何も起きていない」
「起きているかもしれない」
「だから向かっている」
「……」
「お前一人じゃない」
その言葉は、今、なぜか昼間の話よりもずっと深く入ってきた。
お前一人じゃない。
ミンホは窓の外を見る。
「……うん」
小さく、返事をした。
朝倉は聞こえないふりをした。聞こえたと伝えれば、ミンホはまた意地を張るだろう。だから、ただアクセルを踏み込む。赤信号が青に変わる。
*
野口家の近く。
住宅街の真ん中。日が落ち始め、空が暗くなってきている。
警察車両は少し離れた場所に止めた。
朝倉とミンホが歩く。
「いた」
ミンホが先に気づく。
角を曲がった先、電柱の近くに蓮の姿。
そして、その前に二十代前半くらいの男が二人。
一人が蓮の肩を掴んでいる。
「離せよ!」
蓮の声。
「うるせえな」
男が壁へ蓮を押す。
ミンホの表情が変わる。
「チョン」
朝倉が低く呼ぶ。
「分かっています」
今度は止まった。
深く息をする。
それから、歩く。
「すみませーん」
明るい声。
男たちが振り返る。
ミンホは笑っていた。
いつもの、柔らかく、少し人懐っこい笑顔。
「その子、おれの知り合いなんですけど」
「誰だよ」
「警察です」
笑顔のまま、警察手帳を見せる。
空気が固まる。
蓮の顔が明るくなる。
「ミンホさん!」
「うん」
ミンホはそちらを見ない。
男たちだけを見る。
「手を離してもらえますか?」
「何もしてねえよ」
「肩を掴んでいる」
「話していただけだ」
「では、離せますよね」
男が舌打ちして手を離す。
蓮がすぐにミンホの側へ来る。
「後ろ」
「うん」
短い指示に蓮が従う。
「瀬尾さんの知り合い?」
ミンホが聞く。
男の表情が変わる。
「知らねえ」
「へえ」
「誰だよ、それ」
「知らないんだ」
ミンホの笑顔が少し深くなる。
「では、署で話しましょうか」
「は?」
「未成年者への接触について」
「だから何もしてねえって」
「それを確認するために」
「任意だろ?」
「今のところは」
その瞬間、一人が走った。
「おい!」
朝倉が叫ぶ。
しかし、ミンホはもう動いている。
数歩で追いつき男の腕を取る。
身体を捻る。
体勢を崩して地面へ。
無駄がない。
「いっ――!」
「暴れないで」
ミンホの声は冷静。
「痛い痛い!」
「逃げるからでしょう」
もう一人も逃げようとする。
朝倉が進路を塞ぐ。
「動くな」
低い声に男が止まる。
そのまま応援が到着した。
刑事課、桐生、瀬川。
そして、鷹野。
「またお前が前に出てんじゃねえか!」
鷹野の第一声がそれだった。
ミンホが地面の男を押さえたまま顔を上げる。
「逃げたからです」
「だから刑事を待てって言ってるだろ!」
「目の前で逃げたんですよ」
「チョン!」
「はいはい」
「返事!」
「はい!」
鷹野が額を押さえる。
桐生が蓮を見る。
「怪我はないか」
「大丈夫」
「何でここに来た」
蓮が少し俯く。
「野口に」
「うん」
「謝ろうと思って」
「なぜ」
蓮が唇を噛む。
「俺も巻き込んだし」
ミンホが男を刑事へ引き渡す。
それから蓮の前へ立つ。
「蓮くん」
「……」
「怒っていい?」
蓮が恐る恐る見る。
「何で」
「連絡なしで一人で来たこと」
「……」
「携帯を切ったこと」
「……」
「危ないって分かっていたでしょう」
「……ごめん」
「本当に」
ミンホの声が少しだけ揺れる。
「心配した」
蓮が目を上げる。
「……ミンホさんが?」
「当たり前でしょう」
「……」
「おれが何のためにあんな自転車を追いかけたと思っているの」
「それ、関係ある?」
「ある」
「どこが」
「知りません」
「またそれ」
蓮が少し笑う。
ミンホも笑う。
その笑顔は心底安心した人間のものだった。
朝倉は少し離れたところから、それを見ていた。
ミンホが蓮の頭を軽く撫でる。撫でた本人は、子ども扱いしたつもりなどないのだろう。蓮が照れくさそうに顔を背けたので、ミンホはすぐに手を引っ込めた。
その一連の動作を見ながら、朝倉は思う。
この男は、誰かを守る時だけ、驚くほど迷いがない。
自分のことになると、途端に逃げるくせに。
*
事情確認が終わったのは、午後九時を回ってからだった。
蓮は母親が迎えに来た。
野口も無事。
男二人は瀬尾とつながりがあり、少年たちへ口止めをしていた可能性が高い。
大きな被害が出る前に止められた。
それだけで、十分だった。
品川署、生活安全課。
ほとんど人がいない。
ミンホは自席へ戻る。
そして、珍しくそのまま机へ突っ伏した。
「疲れた?」
朝倉の声。
「……うん」
顔を上げない。
「珍しいな」
「何が」
「素直」
「今は喋る元気がない」
「そうか」
朝倉が近くの椅子へ座る。
空調の音だけが、がらんとした課内に響いている。
昼間はあれほど騒がしかった場所なのに、今は机と椅子と消し忘れたモニターの光ばかりが残っていた。
「悠さん」
「なんだ」
「今日」
「うん」
「来てくれてよかった」
朝倉の表情が止まる。
ミンホはまだ机へ顔を伏せている。
だから、見えていない。
「何が」
「全部」
「全部?」
「車を運転してくれたことも」
「うん」
「止めてくれたことも」
「うん」
「一緒にいてくれたことも」
声が少し小さくなる。
「……一人だったら」
朝倉は待つ。
「もっと焦っていたと思う」
「そうか」
「たぶん」
「うん」
「おれ」
ゆっくり顔を上げる。
「悠さんがいると」
朝倉を見る。
「安心する」
朝倉は、すぐに返事をしなかった。
それは、あまりにも欲しかった言葉だったから。
けれど、ミンホは言ったあとで、自分が何を言ったのかに気づく。
「あ」
耳が赤くなる。
「今の」
「聞いた」
「忘れて」
「無理だ」
「最悪」
「それも聞いた」
「悠さん」
「嬉しい」
ミンホが黙る。
朝倉は笑っていない。
本気だ。
「そんな顔をしないでください」
「どんな顔だ」
「嬉しそうな顔です」
「嬉しいからな」
「……」
ミンホは視線を逸らす。
「昼の話」
ミンホの肩が僅かに止まる。
「……今ですか?」
「嫌ならやめる」
「……」
少し考える。
「逃げません」
朝倉の目が僅かに細くなる。
ミンホは机の端を指でなぞる。
「帰ったら終わりって」
「うん」
「おれ」
言葉を探す。
「そう思っていました」
「なぜ」
「普通だから」
「普通ではないと言った」
「分かっています」
「うん」
「でも」
少し、長い沈黙。
「悠さんが韓国まで会いに来ると言った時」
「うん」
「なんか」
胸の辺りを押さえる。
「困りました」
「嫌だった?」
ミンホがすぐに首を振る。
「違います」
その返事は、思ったより早かった。
本人も少し驚く。
「嫌ではないです」
「……」
「むしろ」
続きが出ない。
朝倉は急かさない。
「嬉しかった?」
ミンホが睨む。
「言わせないでください」
「当たりか」
「うるさい」
「そうか」
朝倉が小さく笑う。
「笑わないでください」
「無理だ」
「……」
ミンホは唇を尖らせる。
「でも」
「うん」
「嬉しいと思ったら」
「うん」
「そのあと帰るのが、もっと嫌になる気がします」
朝倉の表情が変わる。
ミンホは、自分の言葉を自分で聞く。
帰るのが、嫌。
その事実に、初めて触れた。
「……あれ」
小さく呟く。
「おれ」
朝倉は何も言わない。
「帰るの」
「うん」
「嫌なのかな」
その声は、子どものように、本当に分からないという声だった。
朝倉は少しだけ身を乗り出す。
「分からなくていい」
ミンホが見る。
「前も言っただろう」
「何を」
「分からないなら、今すぐ答えを出さなくていい」
「……」
「ただ」
朝倉は静かに言う。
「嫌だと思ったことだけは、なかったことにするな」
ミンホの目がゆっくり瞬く。
「なぜ」
「お前はすぐ、合理的ではない感情を切り捨てようとする」
「……」
「でも」
少しだけ、声を柔らかくする。
「そういうのも、お前だろう」
ミンホは何も言えなかった。
胸の奥が、昼からずっとざわついていた。
理由の分からない不快感。
逃げたい感じ。
朝倉の言葉を聞きたくないような。
でも、本当はもっと聞きたいような。
それが、少しだけ形になる。
「悠さん」
「うん」
「今日」
「うん」
「一緒に帰りますか?」
朝倉が一瞬黙る。
「家まで送れという意味か」
「違います」
ミンホは少しだけ顔を逸らす。
「駅まで」
「……」
「別に」
すぐに言い訳する。
「夜ですし」
「お前一人で帰れるだろう」
「それはそうです」
「なら」
ミンホが睨む。
「いいから」
朝倉の口元が緩む。
「分かった」
「笑わないでください」
「無理だ」
「なぜですか」
「嬉しい」
「またそれですか」
「本当だからな」
ミンホは立ち上がって鞄を持つ。
「悠さん」
「何だ」
「帰りますよ」
「ああ」
二人で生活安全課を出る。
誰もいない廊下。
白い照明。
自動販売機の低い音。
隣同士でエレベーターを待つ。
少し近い。
ミンホは、何となく朝倉の袖を見る。
そして、ほんの先だけ、指先で掴んだ。
朝倉が見る。
「……何ですか」
ミンホが先に言う。
「何も」
「袖」
「ちょっとだけ」
「なぜ」
「知りません」
「またか」
「うるさい」
エレベーターが来る。
扉が開く。
それでも、ミンホはすぐには手を離さなかった。
朝倉も、何も言わなかった。
ただ、掴まれた袖を見下ろし、それからミンホの横顔を見る。ミンホは前だけを見ている。耳は赤い。表情は平静を装っているが、指先だけが正直だった。
帰国まで、あと三ヶ月。
それは、終わるまでの残り時間ではない。
そう言った男の隣で、チョン・ミンホは、初めて終わらせたくないかもしれないという感情を、ほんの少しだけ知り始めていた。
そして、その感情を知ってしまった以上、もう「普通だから」という言葉だけでは、簡単に逃げられそうになかった。




