帰るって、そういうこと
瀬尾拓真の身柄が正式に確保されてから、品川署の空気は少しだけ落ち着いた。
もちろん、事件そのものが終わったわけではない。
瀬尾の供述は曖昧で、少年たちに万引きを指示していたことも、映像を撮影していたことも、一部は認めながら一部は否認している。閉鎖型コミュニティへの動画流出についても、引き続き裏付け捜査が必要だった。
それでも少なくとも。
少年たちが瀬尾の顔色を窺いながら生活しなくていい状況にはなった。
そのことだけで、生活安全課の空気は少しだけ軽くなっていた。
空気が軽くなると当然のように、チョン・ミンホは元気になる。
「桐生さん」
「何だ」
「これを見てください」
「嫌な予感しかしない」
「ひどいですね」
午前十時。
生活安全課。
ミンホがスマートフォンを片手に桐生の席までやってきた。歩き方からして、すでに仕事ではない。肩が軽く、目が輝き、口元には「今からあなたの貴重な時間を三分ほど奪います」という、本人だけが無自覚な笑顔が浮かんでいる。
画面には犬の動画が映っていた。
小型犬が、飼い主の投げたボールを完全に無視して寝転がっている。しかも、ボールを追いかけるどころか、投げた飼い主のほうを「なぜ私が?」という顔で見上げ、最後には小さくあくびまでした。
「可愛くないですか?」
「……可愛いけど」
桐生は認めざるを得なかった。犬は可愛い。動画の犬は、仕事を放棄しているという点で、今の生活安全課における理想の働き方にも見えた。
「でしょう」
ミンホは満足そうに頷く。
「なぜ仕事中に見せに来た」
「休憩です」
「今か?」
「三分前からです」
「細かいな」
「権利ですから」
堂々としている。あまりにも堂々としているので、桐生は一瞬、自分のほうが休憩時間を侵害しているのではないかという錯覚に陥った。
「お前、事件が一段落した途端、本当に元気だな」
「終わってはいませんけど」
「分かっている」
「でも、瀬尾はいま自由に動けないし」
ミンホの声が少しだけ柔らかくなる。
「蓮くんも野口くんも、昨日はちゃんと学校に行けたそうです」
「聞いたのか」
「学校から連絡が来ました」
「よかったな」
「はい」
小さく、しかし、明らかに嬉しそうに笑う。
その笑顔は、さっき犬を見せていた時よりもずっと自然だった。ミンホは事件が解決したから喜んでいるのではない。少年たちが、昨日より少しだけ普通の朝を迎えられたことを喜んでいる。
桐生はそれを見て、ふと思う。
こういうところなのだろうな、と。
チョン・ミンホは妙に人に好かれる。
顔がいいから。
距離が近いから。
明るいから。
それもある。
しかし、たぶん一番大きいのは、人を適当に扱わないことだ。
どうでもいいふりをしながら、相手が口にした小さなことを覚えている。好きな飲み物、苦手な教師、昨日眠れなかった理由。本人は意識していない。だからこそ、余計に厄介だ。
「そういえば」
桐生が言う。
「昨日、野口の母親からも礼の電話が来ていたぞ」
「へえ」
「お前に、だ」
ミンホが眉を上げる。
「なぜですか」
「『息子が、あの若い警察官の人なら話せると言っていた』って」
「よかったじゃないですか」
「それだけか?」
「何がですか」
「いや」
桐生は、それ以上何も言わなかった。
ミンホは本当に分かっていない顔をしている。自分が誰かの支えになっていることも、周囲からどれだけ頼られているかも、たぶん半分も理解していない。
その時、背後から声がした。
「チョン」
ミンホが振り返る。
「朝倉さん」
朝倉悠が立っていた。
今日も隙がない。濃紺のスーツ。整えられた髪。書類を片手に持っているだけなのに、なぜかその場の空気が引き締まる。彼が立っているだけで、さっきまで犬の寝姿に心を奪われていた生活安全課が、急に「ここは警察署です」と思い出す。
「何をしている」
「休憩です」
「そうか」
「犬を見ていました」
「そうか」
「ご覧になりますか?」
「いや」
「可愛いのに」
「後でいい」
ミンホが目を丸くする。
「後で見るんですか」
「お前がそこまで薦めるなら」
桐生は聞かなかったことにした。朝倉が犬の動画を見る姿など、想像したくない。いや、少し見てみたい気もする。だが、見たら最後、何か大切なものが壊れる気がした。
「それより」
朝倉が一枚の紙を差し出す。
「午後、学校側とのケース会議が入った」
ミンホが受け取る。
「何時ですか?」
「十四時」
「出席者は?」
「校長、生活指導、スクールカウンセラー。それから児相だ」
「児相もですか?」
「ああ」
ミンホの顔つきが少し変わる。
「蓮くんですか?」
「野口も含めて数人だ」
「分かりました」
「お前も出ろ」
「はいはい」
「返事」
「はい」
朝倉が小さく息を吐く。ミンホはその様子を見て笑った。
「朝倉さん、最近細かいですね」
「最近?」
「以前からですか?」
「以前からだ」
「自覚があるんですね」
「お前が雑すぎる」
「そんなことはありません」
「昨日の報告書、誤字が二つあった」
「二つだけでしょう」
「二つも、だ」
「意味は通じますし」
「公文書だ」
「真面目ですね」
「お前に言われたくない」
ミンホが笑う。
その時、課の入口から女性職員が顔を覗かせた。
若い。交通課の制服。手には小さな紙袋がある。彼女はミンホを見つけると、ぱっと表情を明るくした。
「あ、チョンさん」
「はい?」
ミンホが振り返る。
女性職員は小さな紙袋を持っていた。
「これ、この前のお礼です」
「何のですか?」
「忘れ物の件です。駅まで一緒に探してくれたじゃないですか」
「ああ」
ミンホは思い出したらしい。数日前、彼女が落とした定期入れを、勤務時間ぎりぎりまで駅構内を歩き回って探した件だ。本人にとっては大したことではなかったのだろう。だが、相手にとっては大事なものだった。
「お礼です」
ミンホが紙袋を見る。
「いえ、通常の業務ですから」
「でも」
「受け取れません」
「お菓子だけです」
「それでも駄目です」
「では、一つだけでも!」
「一つでも駄目です」
笑いながら押し問答をする。
女性職員も笑う。ミンホも笑う。朝倉だけが、紙袋と女性職員とミンホを順番に見ていた。表情は穏やかだ。穏やかすぎる。嵐の前の海のように、妙に静かだった。
「本当に優しいですよね、チョンさん」
「そうですか?」
「はい」
「初めて言われました」
「嘘ですよね」
「本当です」
「絶対にモテるでしょう」
「どうでしょう」
「彼女はいるんですか?」
桐生が目を閉じた。
来た。
この手の話題が始まると、ミンホは驚くほど無防備になる。相手の意図も、周囲の視線も、朝倉の空気が一度凍ったことも、何も察しない。
「いませんよ」
ミンホは普通に答える。
「彼氏は?」
「いません」
「では」
そこで。
「チョン」
朝倉が呼んだ。
低く、とても静かな声。
ミンホが振り返る。
「何ですか?」
「会議資料を先に確認しろ」
「今ですか?」
「ああ」
「まだ休憩中です」
「あと何分だ」
ミンホが時計を見る。
「一分です」
「なら、一分後に」
「分かりました」
女性職員が朝倉を見る。
「あ、朝倉管理官。すみません、お邪魔しました」
「いや」
完璧な微笑み。
穏やか。
一切怒っていない。
ただし、目だけがまったく笑っていなかった。
女性職員が去ったあと。
桐生が横目で見る。
「管理官」
「何だ」
「今のは」
「何だ」
「嫉妬ですか」
朝倉が一秒止まった。
「違う」
「即答ですね」
「違う」
「しかし、タイミングが」
「業務上の指示だ」
「一分待つと言っていましたが」
「休憩時間は守らせる」
「なるほど」
桐生は笑いを堪える。口元が震えた。隣の瀬川がそれを見て、何かを察したように書類で顔を隠す。
ミンホは二人を交互に見る。
「何の話ですか?」
「何でもない」
朝倉が言う。
桐生も頷く。
「何でもない」
「怪しいですね」
「仕事をしろ」
「まだ一分あります」
「あと三十秒だ」
「数えているんですか?」
「管理だからな」
「怖いですね」
ミンホは笑った。
完全に分かっていない。
朝倉はそんなミンホを見て、わずかに眉間を押さえた。嫉妬ではない。断じて違う。業務上の指示だ。そう自分に言い聞かせている顔だった。
*
午後二時。
高校でのケース会議は、思ったより長引いた。
少年たちの家庭状況。学校での交友関係。今後の支援。瀬尾との接触を避けるための具体的な対応。万引きをしたという事実だけで生徒を切り捨てず、再発防止と安全確保を両立する必要がある。
会議室の机には資料が何枚も並び、ホワイトボードには支援方針が書き込まれていった。校長が慎重な言葉を選び、生活指導の教師が現場の事情を説明し、スクールカウンセラーが少年たちの心情を補足する。そのたびに、ミンホは資料の端を指で押さえながら、必要な箇所に小さく印をつけていった。
いつもの軽い調子は、ほとんど見せなかった。
資料を読み、話を聞き、必要なところだけ質問する。
「相沢くん」
ミンホがスクールカウンセラーに向けて言う。
「最近、授業には出ていますか?」
「はい。昨日からですが」
「友人関係は?」
「少し変化があります」
「悪い方向ですか?」
「いえ」
相手が微笑む。
「以前より、一人でいる時間が減りました」
ミンホの表情が少し緩む。
「そうですか」
「あなたの話もしていましたよ」
「え?」
「『あの警察官、変だけど悪くない』と」
ミンホが眉を寄せる。
「変は余計です」
会議室に小さな笑いが起きる。
朝倉だけは、口元を少し緩めただけだった。だが、その目はミンホを見ていた。少年たちの言葉を聞いて、嬉しそうにしながらも照れている彼の横顔を、まるで記憶に焼きつけるように。
会議終了後。
廊下を歩きながら、朝倉が言う。
「よかったな」
「何がですか?」
「相沢のことだ」
「ああ」
ミンホが頷く。
「はい」
「安心したか」
「少し」
「そうか」
並んで歩く。
外は少し曇っている。校舎の窓から差し込む光も白い。廊下には部活動へ向かう生徒たちの声が響き、遠くで誰かが走って教師に怒られていた。
「廊下は走るな!」
「すみません!」
「すみませんで済むなら警察はいらない!」
そのやり取りを聞いて、ミンホが小さく笑う。
「悠さん」
朝倉の足が僅かに止まる。
「何だ」
「朝倉さんは」
「どちらだ」
「何がですか?」
「今、悠さんと朝倉さんが混ざった」
「気分です」
「そうか」
ミンホは気にせず続ける。
「おれに甘いですよね」
朝倉が見る。
「今さらか?」
「みんなが言うので」
「誰が」
「桐生さん、瀬川さん、交通課の人」
「最後のは誰だ」
声が少し低い。
ミンホが首を傾げる。
「さっきの人です」
「……そうか」
「何ですか?」
「何でもない」
「やはり機嫌が悪いですか?」
「悪くない」
「最近、それが多いです」
「何が」
「機嫌が悪いのに、悪くないと言うことです」
朝倉は黙る。
ミンホが横から覗き込む。歩きながら覗き込むので、朝倉は一瞬、足元を見失いかけた。警察官としてあり得ない。だが、隣にいる男があまりにも自然に距離を詰めてくるので、避けるほうが不自然に思えてしまう。
「なぜですか?」
「……お前は」
「はい」
「誰にでもああなのか」
「何がですか?」
「距離感だ」
「距離感?」
「近い」
ミンホが本気で考える。
「普通ではないですか?」
「普通ではない」
「では、悠さんとは?」
朝倉が止まる。
ミンホも二歩進んでから止まった。
振り返る。
「何ですか?」
「……いや」
朝倉が視線を逸らす。
「何でもない」
「変ですね」
「お前に言われたくない」
ミンホは笑う。
それから。
「でも」
少しだけ間を置く。
「悠さんは別です」
朝倉が再び見る。
「どういう意味だ」
「だって」
ミンホは当たり前のように言う。
「気を遣わなくていいですし」
「……」
「怒っていても怖くないですし」
「……」
「何をしても、嫌いにならなそうです」
ほんの一瞬、朝倉の表情が消える。
ミンホは気づかない。
「だから、楽です」
軽い。
無防備。
恐ろしいほど無自覚だ。
朝倉は少ししてから息を吐く。
「そうか」
「はい」
「それは光栄だ」
「でしょう」
ミンホが笑う。
朝倉は思う。
それを他の誰にも言うな。
言わないでくれ。
けれど当然、口にはしなかった。
*
夕方。
署へ戻ったミンホを待っていたのは相沢蓮だった。
「ミンホさん!」
「また来たのか?」
「またって何だよ!」
「昨日も来ただろう」
「今日はちゃんと用がある!」
「何?」
蓮は少し得意げに封筒を出した。胸を張り、まるで国家機密を持ってきた外交官のような顔をしているが、封筒の表には太い字で「反省文」と書かれていた。
「学校から」
「それなら先生に出せばいいんじゃない?」
「違う」
「では、何」
「俺の」
「何が」
「反省文」
ミンホが黙る。
蓮も黙る。
周囲の職員たちも、なぜか黙って二人を見ている。
「なぜおれに?」
「見てくれよ」
「先生ではないんですが」
「いいだろ」
「嫌です」
「お願い」
「嫌です」
「ミンホさん」
「嫌です」
「ミンホ」
「呼び捨てにしたら、もっと嫌です」
蓮が笑う。
「やっぱり面白え」
「帰っていい?」
「待ってくれ」
封筒を押し付ける。
ミンホは仕方なく受け取った。受け取った瞬間、蓮の顔がぱっと明るくなる。ミンホはその表情を見て、結局断りきれない自分に気づいた。少年に頼られると弱い。本人はそれを「仕方ない」と処理しているが、周囲から見れば完全に甘やかしている。
「読むだけですよ」
「うん」
「直しません」
「分かった」
「書き直しも手伝いません」
「分かった」
「ジュースも奢りません」
「それは関係なくないか?」
「念のためです」
「ケチ」
二人がやり取りしている。
少し離れたところに朝倉が立っている。
瀬川が横に来る。
「管理官」
「何だ」
「また顔が怖いですよ」
「普通だ」
「最近、その台詞が多いですね」
朝倉が睨む。
瀬川は笑う。
「相沢、懐いていますね」
「そうだな」
「ミンホも楽しそうです」
「……そうだな」
「嫉妬ですか?」
「違う」
「即答ですね」
「違う」
「では」
瀬川が少し考える。
「なぜ、ずっと見ているんです?」
朝倉は答えなかった。
その向こうで。
「ミンホさん」
蓮が言う。
「何」
「韓国に帰るって、本当か?」
ミンホの表情が少し止まる。
「うん」
「三ヶ月後?」
「そう」
「帰ったら、もう日本には来ないのか?」
「来ることはあると思う」
「仕事で?」
「たぶん」
「では、遊びでは?」
「分からない」
「俺が韓国に行ったら、会える?」
ミンホが笑う。
「旅行で来るならね」
「本当?」
「連絡先は教えないけど」
「そこはまだ駄目なのかよ!?」
蓮が大げさに落ち込む。肩を落とし、封筒を抱えたまま、まるで人生のすべてを拒絶されたような顔をする。
ミンホが笑う。
朝倉はそのやり取りを聞きながら胸の奥に、妙に重いものが落ちた。
三ヶ月。
言葉にすると短い。
けれどこれまでは、まだ三ヶ月ある、そう思っていた。
今は、もう三ヶ月しかない。
そう聞こえた。
*
その日の終業間際。
生活安全課長に呼ばれた。
ミンホは特に何も考えず、課長席へ向かった。途中で瀬川に「何かやらかした?」と小声で聞かれ、「心当たりが多すぎて絞れません」と返し、桐生に「それは反省しろ」と背中を叩かれた。
「チョン」
「はい」
「少し時間をいいか」
「どうぞ」
「いや、こちらが言う台詞だ」
「あ」
「座れ」
ミンホが椅子に座る。
そこには、見慣れない書類があった。
上部には、国際交流人事帰任。
そんな文字。
ミンホの目が少し止まる。
「正式通知が来た」
課長が言う。
「韓国側との調整も終わった」
「……はい」
「予定通り、三ヶ月後だ」
「はい」
声は変わらない。
「引き継ぎを始めるぞ」
「分かりました」
「今の案件にも最後まで関われるかは微妙だ」
「……」
「帰任前の一ヶ月は、手続きも増える」
「分かっています」
「本当にか?」
課長が少し笑う。
「お前、まだ実感がないだろう」
ミンホは一瞬考える。
「……そうかもしれません」
「三年は長かったか」
「短かったです」
「そうか」
「でも」
「うん」
「韓国に戻ることは、もともと決まっていましたから」
「そうだな」
「別に」
首を傾げて笑う。
「普通のことです」
課長は何も言わなかった。
ただ、その笑顔を少しだけ長く見ていた。
*
ミンホはコピー機の前で立ち止まっていた。
手元には、帰任に関する通知。
三ヶ月。
正式確定。
当たり前だ。
最初から分かっていた。
期限付きの派遣。
日本で働き続けるわけではない。
自分は韓国警察の人間で、戻る場所は最初から決まっている。
「……」
何もおかしくない。
なのにさっきから紙が妙に重く感じる。
コピー機が低く唸り、誰かの資料を吐き出した。ミンホはそれを受け取ることも忘れ、手元の通知だけを見つめていた。紙一枚。たった一枚なのに、まるで帰国用のスーツケースをいきなり胸の上に載せられたようだった。
「チョン」
背後から声がした。
ミンホは振り返る。
「悠さん」
朝倉の視線が手元の紙へ落ちる。
一瞬。
それだけで内容を察したようだった。
「来たのか」
「うん」
「正式にか?」
「うん」
短いやり取り。
少しだけ沈黙。
コピー機がまた唸った。空気を読まない機械だけが、いつも通り仕事をしている。
「予定通りですね」
ミンホが言う。
「三ヶ月後」
「ああ」
「帰任」
「ああ」
「だから」
何を言いたいのか分からない。
ミンホは少し笑う。
「荷物を早めに整理しないと」
「そうだな」
「日本で結構、物が増えました」
「そうだろうな」
「服とか」
「ああ」
「お菓子とか」
「賞味期限に気をつけろ」
「そこですか?」
「大事だ」
ミンホが笑う。
しかし朝倉は笑わなかった。
それに気づいてミンホも少しだけ笑顔を止める。
「悠さん」
「何だ」
「寂しいですか?」
朝倉が見る。
ミンホは冗談のつもりだった。
軽く、いつものように。
朝倉は笑わなかった。
「寂しい」
即答。
ミンホが固まる。
「……」
「悪いか」
「いや」
「お前が帰ることは分かっていた」
「うん」
「最初から」
「うん」
「それでも」
朝倉の声は静かだった。
「嫌だと思っている」
ミンホは何も言えない。
こんなふうに真正面から言われるとは思っていなかった。
朝倉は普段、感情を隠す。怒っていても声を荒らげず、心配していても「確認だ」と言い、気にかけていても「業務上必要だから」と言う。そんな彼が、今は隠さなかった。
「……悠さん」
「何だ」
「そういうのは」
「うん」
「困ります」
「なぜ」
「分かりません」
「またか」
「だって」
自分でも分からない。
胸のあたりが少しだけざわつく。
「帰るのは、普通のことだから」
「俺にとっては普通ではない」
「……」
「お前がいなくなる」
簡単な言葉なのに妙に残る。
ミンホは視線を逸らした。
「三ヶ月あるじゃん」
「三ヶ月しかない」
その言葉は、今日蓮に言われた時よりもずっと強く刺さった。
「……そういう言い方、やめてください」
「なぜ」
「短く感じるから」
朝倉が少しだけ目を細める。
「実際、短い」
「悠さん」
「事実だ」
「本当に嫌です」
「何が」
「そういうところです」
「好きか?」
「違う!」
反射的に答える。
朝倉が少し笑った。
ミンホの耳が赤くなる。
「今の、絶対にわざとでしょう」
「ああ」
「最悪です」
「知っている」
「韓国語を覚えたからって、調子に乗っている」
「そうかもしれないな」
「認めるんですか」
「お前相手なら」
「……」
またこういうことを言う。
さらりと、平然と、当たり前のように。
ミンホは手元の通知を見る。
三ヶ月。
その文字がさっきよりずっと近くなっていた。
*
翌日、生活安全課。
「ミンホ」
桐生が呼ぶ。
「何だ」
「これ」
差し出されたのは、小さなメモ。
送別会の候補日。
「……早くないか?」
「早めに押さえないと予定が埋まるから」
「まだ三ヶ月あるよ」
「三ヶ月しかないだろ」
ミンホが止まる。
また同じ言葉。
「みんな、それを言う」
「何が」
「三ヶ月『しか』ないって」
「実際、そうだろ」
「……」
ミンホは自席へ戻る。
机。椅子。端末。
見慣れた景色。
隣の瀬川、向かいの桐生。
少し離れた場所に朝倉。
いつも通り。
何も変わっていない。
それなのに、帰ると決まった途端すべてが少しだけ違って見える。
机の端に置かれたコンビニのコーヒー。誰かが貼った犬の付箋。瀬川が乱雑に積み上げた書類。桐生の椅子の背に掛かった上着。朝倉がいつも同じ時間に開く端末の画面。
どれも、昨日まではただの風景だった。
今はひとつひとつが、持ち帰れないものと実感する。
「チョン」
朝倉が呼ぶ。
ミンホが顔を上げる。
「何ですか?」
「今日の昼」
「はい」
「食べに行くぞ」
「仕事ですか?」
「私用だ」
「なぜですか?」
「口説くためだ」
桐生が吹き出す。
瀬川が机に突っ伏す。
近くで電話を取った職員が、受話器を持ったまま固まった。課内の空気が一瞬で「聞かなかったことにするには強すぎる発言」と「しかし聞き返す勇気はない」の間で揺れる。
ミンホは眉を寄せる。
「勤務時間中ですよ」
「昼休憩だ」
「どこへ?」
「近くだ」
「何を食べるんですか?」
「お前が決めろ」
「面倒ですね」
「三ヶ月しかないからな」
ミンホの顔が固まる。
「それを使うのは禁止です」
「なぜだ」
「何でも許される魔法の言葉みたいになっています」
「便利だ」
「最悪です」
「昼、十二時」
「勝手に決めましたね」
「嫌か」
ミンホは少し黙る。
朝倉は、いつものように命令しているようで、実際には返事を待っていた。視線だけが妙に真剣で、ミンホが断ったら本当に困るのだろうと分かる。
「……嫌ではありません」
朝倉の表情が少しだけ柔らかくなる。
「そうか」
「ただし、近いところで」
「分かった」
「量が少ないところで」
「知っている」
「甘いものがあるところで」
「それも知っている」
「では、いいです」
「デート成立だな」
「違います」
即答。
しかし、ミンホはもうさっきほど強く否定しなかった。
そのことに本人だけがまだ気づいていなかった。
桐生は机の下で拳を握りしめ、瀬川は突っ伏したまま肩を震わせている。朝倉は何食わぬ顔で資料をめくっていたが、耳だけがわずかに赤い。
帰国まで、あと三ヶ月。
昨日までただの予定だったその言葉は、少しずつチョン・ミンホの日常の中へ形を持って入り込み始めていた。
※
生活安全課では、ミンホが「三ヶ月しかない」という言葉を聞くたびに露骨に嫌そうな顔をするようになった。
一方、朝倉はその言葉を使うたび、ミンホとの昼食や買い物や、場合によっては犬の動画鑑賞まで予定に組み込もうとした。
「管理官、予定表が埋まりすぎです」
「三ヶ月しかないからな」
「だから禁止です!」
「合理的だ」
「合理性の使い方がおかしいです!」
「では、四ヶ月にするか」
「できるなら最初からそうしてください!」
課内にミンホの叫び声が響く。
その声を聞きながら、桐生は思った。
事件はまだ終わっていない。
帰任までの時間も、まだ残っている。
けれど。
この騒がしくて、妙に温かい日常が、いつか終わることだけはもう、誰も知らないふりをできなかった。




