笑っているうちは、まだいい
瀬尾拓真の居場所が判明したのは、それから二日後だった。
午後六時四十分。
品川署刑事課の会議室には、夜間の捜査に出る者だけが残っていた。窓の外では、夕暮れの名残を押し流すようにビルの明かりが一つ、また一つと灯っている。会議室の空調は妙に効きすぎていて、誰かがくしゃみをするたび、張り詰めた空気がほんの少しだけ揺れた。
壁際のホワイトボードには、ここ数日で収集された情報が簡潔にまとめられている。
瀬尾拓真、二十歳。
高校卒業後は定職に就かず、複数のアルバイトを転々としている。
少年時代から素行不良で、暴行歴こそ送致には至っていないものの、交友関係には半グレまがいの人物も複数含まれている。
SNS上では複数のアカウントを使い分け、未成年者との接触も多い。
さらに、万引きをさせた少年たちの映像の一部が、匿名性の高い閉鎖型コミュニティへ流出している可能性も浮上していた。
盗品を売る。
動画も売る。
そして、それを餌に少年たちを支配する。
単純な窃盗教唆では終わらない。
「最悪だな」
ミンホが資料を閉じた。
吐き捨てるような声だった。紙の束を机に置く手つきも、普段より少しだけ乱暴だ。本人はいつもどおりのつもりらしいが、隣に座る桐生には、机の上のボールペンが今にも犠牲になりそうな気配まで伝わっていた。
正面に座っていた鷹野が顔を上げる。
「チョン」
「はい」
「感想は聞いていない」
「感想ではありません。評価です」
「同じだ」
「違います」
「お前な」
「鷹野課長」
朝倉の静かな声が割って入る。
鷹野が一度黙る。
ミンホは何食わぬ顔でペットボトルの水を飲んだ。まるで自分が会議の流れを止めた原因ではないと言わんばかりの顔。
桐生が横から小さく肘でつつく。
「お前、今日は機嫌が悪いな」
「普通です」
「嘘をつけ」
「普通」
「敬語が抜けているぞ」
「桐生さん、うるさい」
「ほら」
ミンホが睨む。
桐生は肩を竦めた。自分からつついておいて、睨まれたら被害者の顔をするあたり、こちらも大概だ。
会議室の前方では、捜査員が瀬尾の直近の行動を説明している。
「瀬尾は現在、知人名義の部屋を転々としているようですが、今夜、新宿方面のネットカフェから品川へ戻る動きが確認されています」
地図上に赤い印がつく。
「立ち寄り先は?」
鷹野が尋ねる。
「大井町駅周辺です。裏路地にある雑居ビルで、三階に若者向けのバーが入っています」
「店との関係は」
「経営者と面識があります」
「なら張り込む」
鷹野が即断する。
「瀬尾が入ったことを確認したら、刑事課で動く。生活安全課は少年側の聞き取りに専念しろ」
その言い方に、ミンホの指が机を一度叩いた。
小さな音だった。
しかし、会議室にいる全員が聞き逃さなかった。特に朝倉は、ミンホが何か言い出す前から、すでに眉間に薄い皺を刻んでいる。
「おれは?」
「聞いていなかったのか」
鷹野の声が低くなる。
「生活安全課は少年側だ」
「瀬尾を見た少年の特徴確認は必要ですよね」
「刑事がやる」
「顔を知っているのは、おれです」
「写真がある」
「本人は、写真よりも雰囲気で分かることがあります」
「チョン」
今度は朝倉が呼んだ。
ミンホがそちらを見る。
「何ですか」
「今日は前へ出るな」
「なぜですか」
「お前が冷静ではない」
「冷静です」
「昨日、犯人を蹴りたいと言った人間の台詞ではない」
「まだ蹴っていません」
「そこではない」
桐生が思わず口元を押さえる。
瀬川は完全に下を向いた。肩が小刻みに震えている。笑っているのか、咳をこらえているのかは不明だが、たぶん前者だ。
鷹野だけが眉間に皺を寄せている。
「お前ら、普段からこんな会話をしているのか」
「だいたい」
ミンホが答える。
「聞いていない」
「今、聞いたじゃないですか」
「……朝倉管理官」
「すみません」
朝倉が淡々と謝る。
謝る相手も、謝る理由も、たぶん少し違う。
鷹野は深い溜息を吐いた。肺の中に溜まった疲労を全部吐き出したいのに、なぜか目の前の部下たちが新しい疲労を次々と供給してくる。そんな顔だった。
「……一つだけ役割を与える」
ミンホが顔を上げる。
「瀬尾が現れた場合の本人確認。そこまでだ」
「接触は?」
「するな」
「声をかけるのも?」
「するな」
「逃げたら?」
「刑事が追う」
「おれの方が速いですが」
「知るか!」
鷹野の声が会議室に響いた。
壁際のホワイトボードがびり、と震えた気がした。
ミンホが少しだけ笑う。
「分かりました」
朝倉が横から低く言う。
「本当に?」
「本当に」
「目を見て言え」
「悠さん、おれは子どもではありません」
「そういうことを言う時は、大抵信用できない」
「偏見です」
「経験則だ」
ミンホは面倒そうに朝倉を見る。
それから、仕方なく目を合わせた。
「接触しません」
「よし」
「なぜ悠さんが納得しているんですか」
「俺が一番信用していないからだ」
「ひどい」
「妥当だろう」
瀬川が小声で言う。
「完全に保護者ですね」
桐生が頷く。
「しかも本人だけ気づいていない」
「聞こえていますけど」
ミンホが振り返った。
二人は黙った。
黙ったが、顔には「やっぱり聞こえていたか」と書いてある。ミンホはそれを見て、さらに不機嫌そうに鼻を鳴らした。
*
午後八時十五分。
大井町。
週末前の駅周辺は人通りが多かった。
飲食店の看板が灯り、仕事帰りの会社員や学生が途切れなく行き交っている。焼き鳥の煙、ラーメン店から流れてくる豚骨の匂い、どこかの店から漏れる笑い声。街はいつもどおり賑やかで、誰かが誰かを追い詰めていることなど、最初から知らない顔をしていた。
表通りから一本入ると、人の流れは急に減る。
問題の雑居ビルは、その細い通り沿いにあった。
一階はラーメン店。
二階は古着屋。
三階がバー。
看板は派手だが、入口は狭い。階段の脇には、誰が貼ったのか分からないイベント告知のチラシが何枚も重なり、風が吹くたびに端だけがぱたぱたと揺れていた。
張り込み用の車両は、通りから少し離れた場所に分散していた。
ミンホは桐生と並んで歩道脇に立っている。
私服姿だった。
黒の薄手ジャケットに、細身のパンツ。
髪はいつもより少しだけラフに下ろしている。
こうしていると、警察官にはほとんど見えない。むしろ、バーの前で友人を待っている大学生か、これからナンパを始めるつもりの若者に見えなくもない。
ただし、本人にその感想を伝えると、たぶん「ナンパはしません」と真顔で否定する。そこまで聞いていないのに。
「お前」
桐生が横から見る。
「何ですか」
「こういう格好だと、本当に大学生だな」
「若いので」
「二十四歳だからな」
「桐生さんは何歳でしたっけ」
「聞くな」
「老けて見えます」
「帰るぞ」
「冗談です」
ミンホが笑う。
けれど、目は通りの入口から一度も離れていない。
笑っているのに、意識のすべては周囲の動きに向けられている。通行人の歩幅、信号の変わるタイミング、ビルの入口に立つ男の影。ミンホはそういう細かな違和感を拾うのが早かった。
十分。
十五分。
二十分。
桐生が三度目の欠伸をかみ殺した頃、イヤホン型無線に声が入る。
『対象らしき男、南側から接近』
ミンホの表情が変わる。
「来ます」
桐生も視線を前へ向ける。
遠くから男が一人歩いてくる。
黒いキャップ。
グレーのパーカー。
写真より少し痩せている。
だが、歩き方、周囲を見る癖。
右手でスマートフォンを操作しながら、何度も後方を確認する動き。
ミンホは一目で分かった。
「本人です」
小さく言う。
『確認できたか』
無線の向こうは朝倉だ。
「はい。瀬尾拓真です」
『その場を動くな』
「分かっています」
返事は素直だった。
だからこそ、桐生は嫌な予感がした。ミンホが本当に素直な時は、たいていその直後に何かが起きる。本人の中では「言われたことを守る」と「自分の判断で相手を追い詰めない」は別の話なのだ。
瀬尾は雑居ビルへ向かう。
入口の少し手前で、立ち止まった。
嫌な間だった。
ミンホの目が細くなる。
「……気づいている?」
桐生が囁く。
「たぶん」
瀬尾の顔が少し動き、周囲を見る。
ミンホと目が合った。
一秒、二秒。
瀬尾が笑った。
「……え」
桐生が小さく声を漏らす。
瀬尾は逃げなかった。
逆だった。
こちらへ歩いてきた。
『チョン、動くな』
朝倉の声。
「分かっています」
『桐生、間に入れ』
「了解」
桐生が一歩前へ出る。だが、瀬尾はそれを見て、むしろ面白そうに口角を上げた。自分が囲まれていることに気づいているのか、それとも気づいていてなお余裕を見せているのか。
瀬尾は数メートルまで近づいたところで足を止めた。
「君さ」
ミンホを見る。
「警察?」
桐生が前へ出ようとする。
しかしミンホがほんの僅かに手を上げて止めた。
その動きは小さかったが、桐生には分かった。ミンホは瀬尾の言葉を聞きたがっている。聞いて、確かめて、できれば自分の手で何かを返したがっている。
「だったら?」
「やっぱりそうなんだ」
瀬尾が笑う。
余裕のある顔だった。
「この前、蓮を捕まえた人でしょ」
空気が変わる。
ミンホの口元から笑みが消えかける。
「相沢くんのことを知っているんですね」
「知ってるよ」
「仲がいいんですか?」
「まあね」
「そうですか」
声は柔らかい。
そこだけ聞けば雑談だった。
だが、瀬尾の目は笑っていない。相手の反応を試すように、ミンホの顔をじろじろと眺めている。
瀬尾はミンホを上から下まで見る。
「もっと怖い人が来るのかと思ってた」
「残念ですか?」
「いや」
口元を歪める。
「可愛いじゃん」
桐生の眉が動く。
無線の向こうで誰かが息を呑む気配がした。
ミンホだけが平然としている。
「よく言われます」
「自分で言うんだ」
「事実なので」
瀬尾が吹き出した。
「面白いね、君」
「どうも」
「韓国人?」
「そうです」
「日本語がうまいね」
「日本育ちなので」
「へえ」
瀬尾の視線が軽い。
明らかに見下している。
小柄、派遣職員、若い外国人警官。
その程度にしか見ていない。
「で?」
ミンホが首を傾げる。
「何か用?」
桐生が横で息を止める。
さっきまで敬語だった。
ミンホの機嫌が悪い。
瀬尾は気づかない。
「蓮から何を聞いた?」
「警察が言うと思う?」
「言わないんだ」
「当たり前でしょ」
「ふうん」
瀬尾はスマートフォンをポケットへ入れた。
「野口のことも?」
その名前に、ミンホの目が変わる。
「知っているんですね」
「まあ」
「昨日、救急搬送されましたよ」
「へえ」
薄い反応。
何も感じていない。
あるいは、そう見せている。
ミンホはじっと瀬尾を見る。
「殴った?」
「ミンホ」
桐生が小さく呼ぶ。
だがもう遅い。
瀬尾の口元が僅かに上がった。
「証拠があるのか?」
「質問しているだけです」
「警察って怖いねえ」
「そうですか?」
「決めつけるんだ」
「まだ決めつけていませんよ」
ミンホは笑った。
いつもの笑顔。
けれど桐生は知っている。
これは良くない方だ。
ミンホが本気で怒っている時ほど、表情は穏やかになる。怒鳴るわけでも、露骨に睨むわけでもない。ただ、笑顔の奥から余計なものが一つずつ消えていく。
『チョン、そこまでだ』
朝倉の声。
ミンホは返事をしない。
瀬尾がさらに一歩近づく。
「あいつさ」
「……」
「根性がないんだよ」
ミンホの笑顔が止まる。
「野口?」
「うん」
「何が」
「最初はちゃんとやってたのに、途中から怖いとか言い出して」
「……」
「で、逃げようとするから」
瀬尾は肩を竦める。
「ちょっと教育しただけ」
桐生の拳が握られる。
無線の向こうがざわつく。
ミンホは何も言わない。
「泣いてたよ」
瀬尾は笑う。
「マジで笑えるよな。高校生にもなって」
その瞬間、ミンホの笑顔が完全に消えた。
世界の音が遠くなる。
桐生には、そう感じられた。
さっきまで人懐っこく笑っていた男の顔から、感情という感情が抜け落ちる。
違う、抜けたわけではない。
押し込めた。
怒りも、嫌悪も、殺意に近いものさえすべて。
「もう一度」
ミンホが言った。
声が低い。
瀬尾が首を傾げる。
「何?」
「今の、もう一度言って」
「は?」
「泣いていて面白かったと」
桐生が一歩前へ出る。
「ミンホ、やめろ」
「桐生さん、下がって」
「下がるか」
瀬尾が笑う。
「何、怒ってんの?」
ミンホは答えない。
「警察って大変だねえ。ガキ一人殴られたくらいで」
ミンホが前へ出た。
『チョン』
朝倉の声。
それでも止まらない。
「ガキ一人?」
ミンホが聞き返す。
「そうじゃん」
「……」
「死んでないし」
さらに一歩。
その距離は、もう手を伸ばせば届く。
瀬尾が少しだけ顎を上げる。
最後まで、見下している。
「君さ」
瀬尾が笑った。
「殴るの?」
ミンホの右手が動いた。
速い。
桐生が反応するより先だった。
けれど、拳は届かなかった。
手首を強く掴まれている。
「チョン」
すぐ横。
朝倉だった。
いつの間に車を降りていたのか。たぶん、無線越しにミンホの呼吸が変わった時点で動いていたのだろう。朝倉はミンホの手首を掴んだまま、瀬尾には一度も視線を向けなかった。
ミンホが振り返る。
「離して」
「駄目だ」
「邪魔」
「分かっている」
「離して」
「嫌だ」
瀬尾の笑顔が僅かに引きつる。
空気が変わった。
朝倉は瀬尾を見ていない。
ミンホだけを見ている。
「悠さん」
低い声。
「離して」
「駄目だ」
「こいつ」
「分かっている」
「野口くんを殴ったって」
「分かっている」
「笑った」
「ああ」
「それで」
声が震える。
「それで、なぜおれが止められるの」
朝倉は一瞬黙った。
それから、静かに言った。
「お前だからだ」
ミンホの眉が寄る。
「何それ」
「こいつのために、お前が警察官を辞めるような真似をする必要はない」
「辞めない」
「殴れば済むと思っている顔をしている」
「一発だけ」
「駄目だ」
「死なない」
「もっと駄目だ」
「悠さん」
「駄目だ」
一歩も引かない。
ミンホが睨む。
朝倉も見返す。
数秒の間に、刑事課員が瀬尾の両側へ回る。
鷹野も歩いてきた。
「瀬尾拓真」
瀬尾の顔から余裕が消える。
「傷害および恐喝、窃盗教唆ほか、関連容疑について事情を聞く」
「は?」
「任意で来てもらう」
「証拠があるのかよ!」
「あるから来ているんだ」
鷹野の声は冷たい。
瀬尾がミンホを見る。
「こいつ、何なんだよ!」
ミンホが答えようとする。
朝倉が手首を離さない。
「生活安全課の職員だ」
朝倉が代わりに言った。
「お前が舐めていい相手ではない」
ミンホが横を見る。
「今、それ必要?」
「必要だ」
「なぜ」
「腹が立った」
桐生が目を丸くする。
鷹野まで一瞬だけ朝倉を見る。
朝倉が自分の感情を、これほど率直に口にするのは珍しかった。しかも、ミンホを止めながら、ミンホの代わりに怒っている。
瀬尾はそのまま刑事に連れていかれる。
最後まで何か喚いていたが、ミンホはもう見なかった。
朝倉の手だけを見る。
「……まだ離さないの」
「本当に殴らないなら」
「殴らない」
「本当に?」
「しつこい」
「信用がない」
「ひどい」
「さっき殴ろうとした人間に言われたくない」
ミンホは黙る。
それから少しして小さな声で告げる。
「……すみません」
珍しく素直だった。
朝倉の表情が僅かに緩む。
「分かればいい」
「でも」
「何だ」
「本当に一発だけでした」
「反省していないな」
「しています」
「していない」
「半分くらい」
「報告書を追加する」
「嫌だ」
「なら、すべて反省しろ」
「無理」
「チョン」
「分かりましたって」
ようやく少しだけいつもの調子が戻った。
桐生はその様子を見ながら、胸の奥に残った緊張をゆっくり吐き出した。ミンホが笑ったからだ。まだ完全にいつもどおりではない。それでも、笑っているうちは、まだいい。
*
その夜、署に戻ったのは、午後十一時を過ぎてからだった。
瀬尾への事情聴取は刑事課が担当する。
生活安全課は少年らの被害状況の整理へ戻った。
ミンホは自席で報告書を書いている。
いつもなら異常に速い。
なのに今日は進みが遅い。
三行書いては止まる。
五行書いては消す。
消した文字が増えるほど、机の横に置かれたゴミ箱の中身も増えていった。紙を丸める速度だけなら、もしかすると普段より速い。
瀬川が遠くからそれを見ていた。
「珍しいな」
桐生が横に来る。
「何が」
「ミンホが文章で詰まっている」
「殴りかけた件じゃねえか」
「そりゃ書きにくいか」
二人が見ていると。
ミンホが突然、椅子の背へ倒れ込んだ。
「無理」
「何が」
桐生が聞く。
「反省文」
「報告書な」
「ほぼ反省文でしょ」
「そうだな」
「『被疑者の発言により感情的になりました』でいい?」
「駄目だろ」
「なぜ」
「その次を書け」
「『殴ろうとしました』」
「正直すぎる」
「事実」
「お前、本当にこういう時だけ潔いな」
「面倒だから」
桐生は返す言葉を失った。
その時、机の上に紙袋が置かれた。
ミンホが顔を上げる。
朝倉だった。
「何ですか」
「食べろ」
紙袋を見る。
「何」
「サンドイッチ」
「いらない」
「今日は昼からほとんど食べていないだろう」
「食欲がない」
「半分でいい」
「おれの胃袋です」
「知っている」
「またそれ」
「何度でも言う」
朝倉が隣の椅子を引く。
ミンホは少し嫌そうな顔をする。
「監視?」
「管理」
「部下全員にやっている?」
「やっていない」
「贔屓」
「そうだな」
即答。
ミンホが一瞬黙る。
桐生と瀬川は離れたところで完全に聞き耳を立てている。桐生は書類を読むふりをし、瀬川はパソコンの画面を見ているふりをしているが、画面の内容は一文字も頭に入っていない。
「堂々と言わないでください」
「事実だからな」
「それ、朝倉さんの立場的にまずくないですか?」
「仕事上は公平に扱っている」
「では、何を贔屓しているんですか」
朝倉が当然のように答える。
「私生活」
ミンホが止まる。
「……」
「チョン?」
「今、それ言います?」
「何か問題が」
「あります」
「何が」
「知りません」
耳が赤い。
朝倉は追及しない。
代わりにサンドイッチを開けて差し出す。
「一口」
「子ども扱い」
「いいから」
「悠さん、しつこい」
「食べないお前が悪い」
ミンホは渋々一つ取る。
小さく一口。
しばらく噛む。
「……美味しい?」
朝倉が聞く。
「普通」
「そうか」
「嘘。美味しい」
「なら食べろ」
「半分」
「分かった」
静かな時間。
ミンホがサンドイッチを食べる音と、遠くでキーボードを叩く音だけが残る。さっきまでの張り詰めた夜とは違う、署内特有の疲れた静けさだった。
ミンホがぽつりと言った。
「悠さん」
「なんだ」
「今日」
「うん」
「もし止められていなかったら」
朝倉は黙って待つ。
「おれ、多分殴っていました」
「そうだろうな」
「何発か」
「だろうな」
「……怖くない?」
朝倉の目が僅かに細くなる。
「何が」
「おれ」
冗談ではない。
ミンホはサンドイッチを見たまま続ける。
「普通の人は、ああいう時に殴らないでしょ」
「普通の定義による」
「そういう話じゃなくて」
「怖くない」
即答だった。
ミンホが顔を上げる。
「なぜ」
「お前が何を考えていたか分かるからだ」
「でも、考えるだけじゃなくて、やろうとした」
「ああ」
「それでも?」
「それでも」
朝倉の声は変わらない。
「ただし、受け入れることと許すことは別だ」
ミンホが少し眉を寄せる。
「どう違うの」
「お前がそういう人間だと分かった上で、俺はお前を好きだ」
「……」
「だが、警察官として間違ったことをすれば止める」
「……」
「何度でも」
ミンホの目がゆっくり瞬く。
朝倉は続ける。
「お前が自分で止まれない時は、俺が止める」
「重い」
「知っている」
「認めるんだ」
「今さらだろう」
ミンホは少し笑った。
すぐにまた真顔になる。
「悠さん」
「ん?」
「それ、誰にでも言える?」
「言わない」
「なぜ」
「好きじゃないから」
「……」
「お前以外は」
長い沈黙。
ミンホが視線を逸らす。
「今日の悠さん、なんかムカつく」
「なぜ」
「知りません」
「また知らないのか」
「知らないから知らないって言ってる」
「そうか」
「笑わないで」
「笑っていない」
「笑ってる」
「少しな」
「최악이야(最悪)……」
小さく韓国語。
朝倉が首を傾げる。
「最悪?」
ミンホが勢いよく顔を上げる。
「なんで分かるの!」
「勉強していると言っただろう」
「そこまで覚えなくていい!」
「必要だ」
「何に」
「お前の悪口を聞き逃さないため」
「最悪!」
今度は日本語だった。
遠くで桐生が机に突っ伏す。
「もう付き合えよ」
瀬川が小声で返す。
「本人が気づいていないから無理」
「朝倉管理官も大概気長だな」
「あと三ヶ月だぞ」
その呟きは小さかったのにミンホの耳に入った。
ほんの一瞬笑顔が止まる。
あと三ヶ月。
帰国。
自分にとっては決まっていた未来。
予定どおりの道。
変わる理由など何もなかったはずのもの。
なのに、なぜか今。
隣にいる男を見た。
朝倉は何も気づかず、残ったサンドイッチを紙袋へ戻している。
「残りは持って帰れ」
「いらない」
「明日の朝食」
「朝はあまり食べない」
「知っているから持たせる」
「悠さん」
「なんだ」
「……いや」
ミンホは言葉を飲み込んだ。
何を言おうとしたのか、自分でも分からない。
ただ、三ヶ月という時間が昨日までより少しだけ短く感じた。
それが何を意味するのか、チョン・ミンホは、まだ知らない。
*
翌朝、生活安全課。
「ミンホさん!」
署の入口近くから、聞き覚えのある声が響いた。
朝の署内は、出勤してきた職員たちの足音と電話の呼び出し音で騒がしかった。その中でも相沢蓮の声は、なぜか妙に通る。本人は普通に呼んでいるつもりなのだろうが、署内全体に「誰かがミンホを呼んでいる」という情報だけが先に行き渡った。
ミンホが振り返る。
相沢蓮だった。
「何してんの?」
「来た」
「見れば分かる」
「会いに」
「帰って」
「早!」
蓮が笑う。
手にはコンビニ袋。
「これ」
「何」
「プリン」
ミンホが固まる。
プリン。
昨日の夜、サンドイッチを食べさせられたばかりなのに、今度は朝からプリンである。しかも、蓮は妙に誇らしげな顔をしている。たぶん「お礼の品として最適解を選んだ」と思っている。
少し離れた場所で朝倉も足を止める。
「昨日、瀬尾が捕まったって聞いた」
「まだ逮捕はしていませんよ」
「細けえ」
「大事です」
「とにかく、ありがと」
蓮がプリンを差し出す。
「これくらいなら受け取っていい?」
ミンホは少し困った顔をする。
「本当は駄目です」
「えー」
「でも」
少し考える。
「気持ちだけもらいます」
「じゃあ食ってよ!」
「駄目です」
「硬い!」
朝倉が近づいてくる。
蓮が気づく。
「あ」
「おはよう」
「……どうも」
微妙な空気。
ミンホだけが分からない。
「朝倉さん、蓮くん」
「知っている」
「昨日の」
「知っている」
「なんか機嫌悪い?」
「悪くない」
蓮がミンホを見る。
「この人、彼氏?」
「違います」
即答。
朝倉の眉がほんの僅かに動く。
蓮が笑う。
「じゃあ、まだ空いてんじゃん」
「何が」
「ミンホさん」
「物みたいに言わないで」
「二年後、俺」
「却下」
「早い!」
「二年後も却下」
「なんで!」
「朝からうるさい」
ミンホが笑う。
朝倉は黙っている。
その横顔を見て桐生が遠くで呟いた。
「また嫉妬してる」
瀬川が頷く。
「認めないけどな」
「朝倉さん、今日ほんとに機嫌悪くない?」
それを向けられている本人だけがまだ、何も気づいていなかった。




