管理官は嫉妬を認めない
翌日の午後。
品川区内にある都立高校の第二応接室は、妙に息苦しい空気に包まれていた。
窓の外では、運動部の掛け声が遠く響いている。グラウンドを走る生徒たちの姿が、薄いレースカーテン越しにぼんやりと見えた。
室内には四人いた。
生活安全課少年係のチョン・ミンホと桐生。
高校側からは生活指導主任と、昨日商店街で万引きをした少年―――相沢蓮。
蓮はソファの端に浅く腰掛け、明らかに居心地が悪そうだった。
昨日とは違い、制服姿だ。
ネクタイは少し緩み、シャツの裾も片側だけ出ている。
生活指導主任が何度か視線で注意しているのだが、本人は気づいているのかいないのか、直そうとはしなかった。
「だから」
蓮が唇を尖らせる。
「もう反省したって」
「昨日も聞きました」
向かい側でミンホが答える。淡々とした口調だったが、声には不思議と人を苛立たせない柔らかさがあった。
「店にも謝ったし」
「それも知っています」
「じゃあ何」
「今日は別の話です」
「めんどくさ」
「それも昨日言っていましたね」
「実際、めんどいし」
「私もです」
「警察が言うなよ」
蓮が思わず笑った。張り詰めていた表情が一瞬だけ緩む。
生活指導主任の眉が寄った。
「相沢」
「はいはい」
「返事」
「はい」
明らかに不服そうだ。
ミンホはそんな蓮をしばらく見つめたあと、持参した資料を机の上へ静かに置いた。紙の擦れる音が、妙に大きく室内へ響く。
「昨日、言っていましたよね」
「何を」
「『みんなやってる』と」
蓮の表情が、ほんの少しだけ変わった。
桐生はそれを見逃さなかった。ミンホも当然気づいている。だが、追及するような声音は使わず、ただ少年の逃げ道を塞ぐように視線だけを向けた。
「その『みんな』とは、誰ですか?」
「……知らね」
「知っているでしょう」
「知らない」
「では、質問を変えます」
ミンホは背もたれから身を起こし、わずかに前へ身を乗り出した。
「瀬尾拓真という人物を知っていますか?」
蓮が黙った。
生活指導主任が顔を上げる。
「瀬尾?」
桐生がそちらを見る。
「ご存じですか」
「卒業生です。確か、二年前に卒業した……」
「素行は?」
生活指導主任は少し言葉を濁した。記憶を探るように視線を宙へさまよわせてから、慎重に口を開く。
「在学中は……まあ、あまり良いとは言えませんでした」
「具体的には」
「喫煙、無断外泊、金銭トラブル。一度、他校の生徒と暴力沙汰を起こしたこともあります」
桐生がメモを取る。
ミンホは蓮から目を離さない。少年の指先が、膝の上で落ち着きなく動いていた。
「瀬尾さんに言われたのですか?」
「違う」
「では、誰に?」
「……」
「蓮くん」
初めて名前で呼んだ。
少年の目が上がる。
ミンホの声音は変わらない。柔らかく、責める気配もない。けれど、その黒い瞳だけが、じっと相手の奥を見つめていた。
「怒っているわけではありません」
「……」
「万引きをしたことは問題ですが、今はそれを責めているのではありません」
「……じゃあ何」
「君が何かを隠していることです」
蓮の喉が動いた。
ミンホは急かさず、少年が言葉を探す時間を待った。それから、昨日の様子を一つずつ拾い上げるように続ける。
「昨日、おれに捕まった時」
「……」
「怖がっていなかったでしょう」
「警察が?」
「万引きをしたことをです」
蓮が黙る。
「でも、『友達にやれと言われた』という話になった途端、急に周囲を見回した」
桐生がわずかに眉を上げた。そこまで見ていたのか。だが、ミンホなら当然だとすぐに思い直す。
「君は、警察に怒られることより、誰かに話したと知られることの方が怖いのではありませんか?」
蓮の手が、制服のズボンを強く掴んだ。布地に皺が寄り、白くなった指先が震えている。
生活指導主任が息を呑む。
沈黙が続いた。
やがて蓮が、小さく吐き出すように言った。
「……言わねえよ」
「誰にですか?」
「……」
「瀬尾ですか?」
「違うって!」
声が大きくなる。
その瞬間、ミンホは何も言わずに手を伸ばした。机の上に置かれていた紙コップを蓮の前へ押しやる。
「喉が渇いたでしょう」
「……」
「飲んだらどうですか?」
蓮は睨むようにミンホを見る。けれど、その視線には先ほどまでの反発よりも、戸惑いの方が強く滲んでいた。
やがて紙コップを取り、一口、二口と水を飲む。少しずつ呼吸が落ち着いていく。
「……あの人」
「はい」
「先輩の知り合い」
ミンホの目が細くなる。
「瀬尾さんですか?」
小さく頷いた。
「最初は……遊びだった」
「何がですか?」
「万引き」
生活指導主任が顔を顰める。
蓮は視線を落としたまま、途切れ途切れに話し始めた。
「最初に、一個取ってこいって。成功したら飯を奢ってやるって言われて」
「それで、実行したのですか?」
「……うん」
「その後は?」
「写真を撮られた」
「何の写真ですか?」
「盗ってるところ」
空気が変わった。
桐生のペンが止まる。
ミンホの表情は変わらない。ただ、机の下で組んでいた指がわずかに強く絡んだ。
「誰が撮ったのですか?」
「瀬尾さん」
「それで?」
「次から、断ったら学校に送るとか、親に見せるとか」
生活指導主任が低く呻いた。
「そんな……」
蓮は唇を噛み、逃げるように窓の外へ目を向けた。
「それで、だんだん取る物が変わって」
「何を取らされたのですか?」
「酒とか」
「他には?」
「化粧品とか。高いやつ」
「売っていたのですか?」
蓮が頷く。
「たぶん」
ミンホが静かに息を吐いた。怒りを表に出さないよう、呼吸と一緒に押し込めるような吐息だった。
「他にやらされている子は、何人いますか?」
「知らない」
「蓮くん」
「本当に全部は知らない!」
必死な声だった。蓮は顔を上げ、縋るようにミンホを見る。
「でも……何人かいる」
「昨日の『みんな』ですか?」
蓮が小さく頷く。
ミンホの笑顔が少しだけ薄くなった。
「分かりました」
「……怒らないの」
「誰にですか?」
「俺」
「なぜですか?」
「やったのは俺じゃん」
ミンホはすぐには答えなかった。少年の言葉を受け止めるように、ほんの少し視線を落とす。
「悪いことはしました」
「……」
「でも、もう十分怖い思いをしたでしょう」
蓮が目を上げた。
ミンホの表情は穏やかだった。責めるのではなく、これからどうするかを一緒に考える人間の顔をしている。
「次にどうするかの方が大切です」
「……警察っぽ」
「警察ですから」
「昨日追いかけてきた時は怪物だったけど」
「まだ言いますか?」
「自転車に追いつく方が悪い」
「足が遅くなれということですか?」
「そう」
「嫌です」
蓮が笑った。
ほんの少しだけだったが、その笑顔に合わせるように、ミンホの口元も緩んだ。張り詰めていた空気が、ようやくわずかにほどける。
それを見届けたところで、桐生が立ち上がった。
「ミンホ」
「はい」
「一度、外で話すぞ」
ミンホも頷いた。
*
廊下へ出ると、桐生はすぐに声を落とした。閉じた扉の向こうにいる蓮へ聞こえないようにしながら、資料を覗き込む。
「完全に恐喝だな」
「ですね」
「少年を使って盗品を集め、流している可能性もある」
「たぶん」
「たぶん?」
ミンホは窓の外へ目を向けた。
グラウンドでは野球部が守備練習をしている。掛け声が響き、白球が乾いた音を立てて飛んでいく。平和な午後の光景だった。
「もっとある気がします」
「根拠は?」
「蓮くん、まだ話していないことがある」
「分かるのか?」
「顔です」
桐生はため息を吐いた。
「お前の観察力、時々気味が悪いな」
「褒めてる?」
「褒めてない」
「残念」
その時だった。
階段の方から、誰かが歩いてくる。
長身のスーツ姿。
見慣れた端正な顔。
「……朝倉管理官?」
桐生が目を瞬いた。
朝倉悠がこちらへ歩いてくる。足取りに迷いはなく、まるで最初からこの場所へ来ることを決めていたようだった。
ミンホもわずかに眉を上げる。
「朝倉さん、なぜここに?」
「近くで別件の打ち合わせがあった」
「へえ」
「終わったから寄った」
「わざわざ?」
「ああ」
即答だった。
桐生は黙った。それでは、会いに来たと言っているようなものではないか。
しかし、ミンホはまったく気づかない。朝倉の視線が自分へ向けられていることにも、その足が自然にこちらへ向かっていることにも。
「お暇なんですね」
「仕事は終わらせた」
「そういうところが腹立つ」
朝倉は気にした様子もなく、ミンホの持っていた資料へ目を落とした。
「進展は?」
「あります」
その瞬間、朝倉の表情が変わった。私情を切り替えた、仕事の顔だった。
ミンホは簡潔に事情を説明した。朝倉は口を挟まず、最後まで黙って聞いている。
「瀬尾拓真、二十歳。卒業生。複数の在校生に万引きを指示し、犯行を撮影して、それを材料に継続的に実行させている可能性があります」
「盗品の換金先は?」
「まだ分かっていません」
「他の少年との接触は?」
「これから確認します」
朝倉が頷いた。
「刑事課にも共有する」
その言葉に、ミンホの眉がわずかに寄る。
「もうですか?」
「成人が複数の少年を使って組織的に行っているなら、生活安全課だけで抱える案件ではない」
「分かっていますけど」
「何だ」
「鷹野さんが来るでしょう」
「来るだろうな」
「嫌だ」
子どものような即答だった。
桐生が吹き出す。
朝倉の口元もわずかに緩んだ。
「仕事だ」
「分かっています」
「我慢しろ」
「朝倉さんが代わりに話してください」
「お前の案件だろう」
「管理官でしょう」
「便利に使うな」
「使えるものは使えと習いました」
「誰に?」
「韓国の上司です」
「今度紹介しろ」
「なぜですか?」
「苦情を言う」
「国際問題になりますよ」
「それは困るな」
淡々とした応酬に、桐生が肩を揺らして笑う。朝倉はそんな桐生を一瞥したが、止める気はないらしい。
「あ、ミンホさん!」
応接室の扉が開いた。
蓮が顔を出す。
生活指導主任が後ろから止めようとしたが、間に合わない。
「何?」
ミンホが振り返る。
蓮は駆け寄ってくると、迷いなくミンホの袖を掴んだ。
「連絡先、やっぱり教えて」
「嫌です」
「なんで!」
「昨日も言いました」
「じゃあLINE」
「もっと駄目です」
「カカオ」
「媒体の問題ではありません」
「インスタ!」
「全部駄目です」
「ケチ!」
ミンホが呆れたように笑う。掴まれた袖を振りほどくことはせず、ただ困ったように蓮を見下ろしていた。
「何かあったら署に電話してください」
「ミンホさんが出る?」
「私宛てだと言えば」
「じゃあ番号」
「署の?」
「ミンホさんの」
「個人のものは教えません」
「付き合ってる人いる?」
「何の話ですか?」
「彼女」
「いません」
「彼氏は?」
「いませんけど」
「じゃあいいじゃん」
「何が?」
「俺、十八になったら」
「なりません」
即答。
蓮が睨む。
「まだ何も言ってない!」
「言おうとしたことは分かります」
「十六だから駄目なんでしょ」
「そういう問題ではありません」
「二年後なら?」
「その頃には、もう私は日本にいませんし」
ミンホは何気なく答えた。
朝倉の目がわずかに動く。けれど、蓮はそれに気づかない。
「韓国に帰るの?」
「うん」
「いつ?」
「三か月後」
「早!」
「三年いたから」
「じゃあ俺も韓国に行く」
「来なくていいです」
「冷た!」
蓮がまたミンホの腕を掴む。
その様子を見ていた朝倉の視線が、少年の手元へ静かに落ちた。表情は変わらない。だが、桐生にはその沈黙が妙に長く感じられた。
「でもさ」
「何ですか?」
「昨日、追いかけてきたのがミンホさんでよかった」
ミンホが目を瞬いた。
蓮は少し照れくさそうに視線を逸らす。さっきまでの軽口とは違う、素直な感謝がその横顔に滲んでいた。
「他の警察だったら、たぶん何も言ってなかった」
「……そう」
「だから」
「うん」
「ありがと」
ミンホが少し笑った。
今度の笑顔は、からかうようなものでも、仕事用でもない。
柔らかく、相手の言葉をそのまま受け止める笑顔だった。
「どういたしまして」
蓮の耳が赤くなる。
桐生が察する。
―――あ、落ちた。
そして横を見る。
朝倉の顔はいつも通りだった。
完璧に、いつも通り。
ただ蓮が掴んでいるミンホの袖を見ている。
桐生は小さく咳払いした。
「相沢」
「はい?」
「そろそろ先生のところへ戻れ」
「えー」
「戻れ」
「はいはい」
蓮は渋々離れた。
「ミンホさん!」
「何ですか?」
「絶対また会いに行く!」
「悪いことをして来るのはやめてくださいね」
「違うわ!」
応接室へ戻っていく。
扉が閉まる。
廊下に沈黙が落ちた。
ミンホが首を傾げる。
「元気ですね」
桐生が朝倉を見る。
朝倉は無言だった。
「管理官」
「何だ」
「顔が怖いですよ」
「普通だ」
「そうですか?」
「普通だ」
「朝倉さん?」
ミンホが覗き込む。
朝倉はわずかに顔を背けた。
「機嫌が悪い?」
「悪くない」
「嘘」
「悪くない」
「では、何ですか?」
「何でもない」
ミンホは少し考えた。眉間に皺を寄せ、朝倉の顔をじっと観察する。
「お腹が空いた?」
桐生が吹き出した。
朝倉が眉間を押さえる。
「なぜそうなる」
「私が機嫌の悪い時は、大体それだから」
「お前と一緒にするな」
「では、眠い?」
「違う」
「疲れた?」
「違う」
「分かりません」
「分からなくていい」
ミンホは不満そうに唇を尖らせた。
桐生は横で肩を震わせる。
朝倉が静かに睨む。
「桐生」
「何でしょう」
「楽しそうだな」
「いえ、全然」
嘘だった。
*
その日の夕方。品川署、会議室。
予想通り刑事課との合同打ち合わせになった。
そして、予想通り。
「だから言ったでしょう」
ミンホが小さく呟く。
「何をだ」
隣の朝倉が聞く。
「嫌だって」
「我慢しろ」
会議室の向こう側、刑事課長・鷹野が資料を睨んでいる。
四十代半ば。
体格がよく、強面。
いかにも昔ながらの刑事という風貌だ。
「チョン」
呼ばれる。
ミンホが顔を上げる。
「はい」
「お前が最初に少年から話を聞いたんだな」
「はい」
「なぜ昨日の時点で報告しなかった」
「昨日の時点では、友達にやれと言われたという話しか出ていなかったので」
「その段階で裏を取るべきだっただろう」
ミンホの眉がわずかに動く。
「ですから、今日確認しました」
「遅い」
「一日ですけど」
「口答えするな」
「質問に答えただけです」
鷹野の眉間に皺が寄る。
桐生と瀬川がそっと目を伏せる。
始まった。
「お前はそういうところが―――」
「鷹野課長」
朝倉の声だった。
静かな声。しかし、制止する力がある。
「本題を」
鷹野が朝倉を見る。
「……分かっています」
資料へ視線を戻す。
「瀬尾拓真についてはこちらでも洗う。古物商、転売履歴、交友関係。少年たちから盗品を集めて換金していた可能性がある」
「もう一つ」
ミンホが言う。
鷹野が睨む。
「何だ」
「少年側のSNSです」
「SNS?」
「瀬尾本人が直接指示していない可能性があります」
ミンホが資料を一枚出す。紙を滑らせる指先は落ち着いていたが、瞳の奥にはすでに次の可能性を追う鋭さが宿っている。
「相沢くんが言っていた『先輩の知り合い』という表現が、少し気になって」
「どういう意味だ」
「最初に声をかける人間が、別にいるかもしれません」
会議室の空気が変わる。
「未成年を使って未成年を引き込んでいるなら、瀬尾だけを捕まえても切れません」
鷹野が資料を見る。
ミンホは続けた。
「しかも、万引き動画を撮っている」
「脅迫材料」
「それだけならいいのですが」
朝倉がミンホを見る。
「他に何がある」
ミンホの指が机を軽く叩く。一定の間隔で響く音が、彼の思考の深さを物語っていた。
「動画です」
「?」
「万引きをしているところを撮った動画が、本当に脅すためだけなのかと思って」
誰も口を開かない。
「売っている可能性もあります」
瀬川が顔を顰める。
「そんなものを誰が買うんだ」
「分かりません」
「分からない?」
鷹野が言う。
ミンホは頷く。
「でも、悪いことをしている子どもの映像を欲しがる大人が、いるかもしれないでしょう」
その言葉だけは少し冷たかった。
「盗品だけでなく、少年そのものをコンテンツにしている可能性も考えた方がいい」
会議室が静まり返る。
鷹野は数秒黙ってから、資料を閉じた。
「刑事課で調べる」
「お願いします」
「チョン」
「はい」
「勝手に先走るなよ」
ミンホが一瞬黙る。
「……分かっています」
「本当か?」
「分かっていると言っているでしょ」
敬語が消えた。
桐生が目を閉じる。
瀬川も。
鷹野のこめかみが動く。
「お前な―――」
「チョン」
朝倉の一言。
ミンホが口を閉じる。
それから小さく息を吐いた。自分でも言い過ぎたと分かっているのだろう。
「すみません」
鷹野はしばらくミンホを睨んでいたが、やがて鼻を鳴らした。
「分かればいい」
会議が終わる。
廊下へ出た瞬間、ミンホが吐き出すように言った。
「진짜 짜증나(マジでうざい)……」
桐生が横を見る。
「何て?」
「秘密」
「絶対、悪口だろ」
「秘密」
「朝倉管理官、分かります?」
朝倉は平然と答えた。
「だいたい」
「悠さん!」
ミンホが振り返る。
「言わないでよ!」
「言っていない」
「顔が分かっている顔をしてる!」
「実際、分かる」
「最悪」
今度こそ、朝倉が少し笑った。
「機嫌を直せ」
「直ってない」
「何か食べるか」
「……」
ミンホが止まる。
桐生も止まる。
朝倉が言う。
「プリン」
「……食べる」
「単純だな」
「うるさい」
「さっきまで鷹野課長に怒っていたのに」
「プリンは別」
「そうか」
「あと、大きいのは無理」
「知っている」
当然のように返す。
桐生は思った。
この二人は一体、いつ付き合うのだろう。
*
事態が動いたのは、その翌日の夜だった。
午後九時十五分。
生活安全課の電話が鳴る。
通報内容は、路地裏で少年が倒れているというものだった。
最初は喧嘩だと思われた。
「ミンホ!」
瀬川の声で、ミンホは椅子から立ち上がる。端末を見ていた指が止まり、次の瞬間にはもう上着へ伸びていた。
「相沢の学校の生徒だ」
表情が消えた。
「誰ですか?」
「二年。野口颯太」
「補導歴は?」
「ある。三か月前、万引き」
ミンホが上着を掴む。
「場所は?」
「大井町」
「行きます」
「待て、俺も――」
「チョン」
後ろから朝倉の声。
ミンホが止まる。
朝倉も立ち上がっていた。
「俺も行く」
「管理官が?」
「ああ」
「現場ですよ」
「知っている」
「刑事課は?」
「向かっている」
ミンホは何も言わない。
ただ頷いた。
車で現場へ向かう間、ほとんど会話はなかった。
ミンホは助手席でスマートフォンの画面を見ている。
野口颯太、十七歳。
三か月前、ドラッグストアで化粧品を万引き。
初犯。
本人は「自分で使うつもりだった」と話していた。
「同じだ」
ミンホが呟く。
朝倉が運転席から見る。
「何が?」
「化粧品」
「……」
「蓮くんが言っていた」
朝倉の表情も変わる。
現場に到着する。
救急車の赤色灯。
警察車両。
路地の入口。
野次馬。
ミンホが車を降りる。
歩く速度が速い。
朝倉がその後を追う。
規制線の向こう、地面に血があった。
多くはない。
救急隊員に囲まれた少年の顔を見た瞬間、ミンホの足が止まった。
頬が腫れている。
唇が切れている。
腕には複数の打撲。
そして、制服のシャツが破れていた。
「意識は?」
ミンホが救急隊員に聞く。
「あります。ただ、混乱しています」
「話せますか?」
「短時間なら」
朝倉がミンホを見る。
「無理はさせるな」
「分かっています」
ミンホが少年の側へしゃがむ。膝をついた姿勢を低く保ち、救急隊員の視線を遮らないようにしながら、少年と目の高さを合わせた。
「野口くん」
少年の目が動く。
「警察です」
はっきりと怯えていた。
ミンホはそれを見て、声を少し柔らかくした。
「大丈夫です」
「……」
「怒りませんから」
少年の目に涙が浮かぶ。
「誰にやられた?」
唇が震える。
声にならない。
ミンホは急かさない。
ただ待つ。
「……瀬尾、さん」
やはりその名前。
「なぜ?」
「俺……」
少年が泣き始める。
「もうやらないって……言ったから」
ミンホの目がわずかに細くなる。
「何を?」
「盗むの……」
「それで殴られた?」
頷く。
「動画は?」
少年の呼吸が乱れた。
「野口くん」
「……売られた」
ミンホが動かなくなる。
「何を?」
「動画」
「どこに?」
少年は首を振る。
「知らない……」
「他には?」
「……顔」
「顔?」
「俺の……顔と……学校と……名前」
その瞬間、ミンホから完全に笑顔が消えた。
朝倉は初めて見る。
無表情とも違う静かすぎる顔。
感情が消えたわけではない。
逆だ。
あまりにも強い何かを、すべて内側へ押し込めている。
「分かった」
ミンホは少年へ言った。
「もういい」
声だけは優しい。
「話してくれてありがとう」
救急隊員に任せ、立ち上がる。
「チョン」
朝倉が呼ぶ。
返事がない。
ミンホは路地の奥を見る。
「瀬尾が近くにいた可能性は?」
刑事課の捜査員が答える。
「通報者は、男が二人走っていくのを見ています」
「方向は?」
「駅側です」
ミンホが歩き出す。
朝倉が腕を掴む。
「どこへ行く」
「探します」
「応援が探している」
「おれも行きます」
「駄目だ」
ミンホが振り返る。
「なぜですか?」
冷たい声。
「今のお前を行かせられない」
「おれは普通ですけど」
「普通ではない」
「普通です」
「チョン」
朝倉の声音が低くなる。
「離してください」
「駄目だ」
「悠さん」
名前呼び。
けれど甘さはない。
「離して」
朝倉は離さない。掴んだ腕に力を込めすぎないよう気をつけながら、それでもミンホをその場に留めた。
ミンホの黒い瞳が真正面から朝倉を見る。
「子どもですよ」
「ああ」
「十七歳です」
「分かっている」
「殴って、脅して、盗ませて」
声が怒りで少し震えた。
「それを撮って売って」
「分かっている」
「名前まで」
「分かっている」
「では、なぜ止めるのですか?」
「お前が警察官だからだ」
ミンホの唇が閉じる。
朝倉は静かに続けた。
「怒るなとは言わない」
「……」
「許せとも言わない」
「……」
「だが、その怒りのまま相手を見つけたら、お前は何をする」
ミンホは答えない。
朝倉も答えを求めない。
分かっているから。
「お前が相手を殴って、人生を壊す必要はない」
ミンホが眉を寄せた。
「殴ると決めていない」
「考えただろう」
「……一発くらい」
「駄目だ」
「死なない程度」
「もっと駄目だ」
「悠さんは堅い」
「警察官だからな」
「私も警察官ですけど」
「知っている。だから止めている」
ミンホは朝倉の手を見る。
まだ腕を掴まれている。
少しして、力が抜けた。
「……分かりました」
「本当に?」
「うん」
「敬語がない」
「今、そこですか?」
「今、そこだ」
ミンホが小さく息を吐く。
「分かりました」
「よし」
「でも」
「何だ」
「もし目の前にいたら」
朝倉を見る。
「蹴るかもしれない」
「駄目だ」
「足が滑ったら?」
「報告書を書かせる」
「嫌だ」
「なら、滑るな」
ほんの少しミンホの口元が動いた。
笑ったわけではない。
朝倉にはそれで十分だった。
その夜、瀬尾拓真は見つからなかった。
事件は、もう単なる少年の万引きではなくなっていた。
*
深夜零時過ぎ、品川署。
生活安全課には、まだ灯りが残っていた。
桐生も瀬川も資料を確認している。
刑事課との情報共有も続いている。
ミンホは自席で端末を見つめたまま動かない。
机の上には小さなプリン。
朝倉が買ってきたものだった。
まだ開けていない。
「食べないのか」
朝倉が言う。
「今はいらない」
「珍しいな」
「……」
朝倉は向かいの椅子に座った。
ミンホは画面から目を離さない。けれど、端末を操作する指は先ほどから一度も動いていなかった。
「悠さん」
「何だ」
「おれ」
少し間が空く。
「警察に向いていないかもしれない」
朝倉の表情が変わる。
「なぜ?」
「犯人を殴りたいと思った」
「俺も思った」
ミンホが初めて顔を上げた。
「嘘」
「本当だ」
「悠さんが?」
「ああ」
「清廉潔白なのに」
「誰の評価だ、それは」
「みんな」
朝倉は鼻で息を吐いた。
「警察官だから腹が立たないわけではない」
「……」
「殴らないだけだ」
「違いある?」
「大いにある」
ミンホは黙る。
朝倉は続ける。
「怒ることと、怒りに任せて行動することは別だ」
「……難しい」
「そうだな」
「悠さんは簡単そう」
「簡単ではない」
「でも、止められるじゃん」
「お前を?」
「自分も」
朝倉は少し考える。自分の中にある怒りを、何度も押し殺してきた年月を思い返すように、視線を落とした。
「慣れだ」
「何年?」
「十年以上」
「長い」
「お前はまだ若い」
「子ども扱い?」
「事実だ」
「二十四歳です。もうすぐ二十五」
「十分若い」
「悠さん、何歳でしたっけ」
「三十」
「おじさん」
「帰るぞ」
「怒った?」
「怒っていない」
「絶対怒った」
ようやく、ミンホが少し笑った。
朝倉もそれを見る。さっきまで張りつめていた彼の表情が、ほんの少しでも和らいだことに、胸の奥で静かな安堵が広がった。
「食べろ」
プリンを指す。
「……半分」
「全部食べろとは言わない」
「悠さん、半分食べる?」
「いいぞ」
「じゃあ」
ミンホが蓋を開ける。
一口、二口と少しずつ。
それから、ふと。
「오늘은 좀 피곤해(今日はちょっと疲れた)……」
小さく零れた。
朝倉が見る。
「何て?」
「秘密」
「疲れた?」
ミンホのスプーンが止まる。
「……なぜ分かるの?」
「勉強している」
「何を?」
「韓国語」
「なぜ?」
朝倉は当然のように答えた。
「お前と話すためだ」
ミンホが固まった。
「……」
朝倉は自分が何を言ったのか、深く考えていないようだった。けれど、ミンホの耳が少しずつ赤くなっていくのを見て、ようやく言葉の意味を自覚したらしい。
「チョン?」
「今、そういうのはいい」
「何がだ」
「そういうの」
「分からない」
「分からなくていい」
ミンホは視線をプリンへ落とした。スプーンを持つ手が、わずかにぎこちない。
朝倉は追及しなかった。
「半分」
「ん?」
ミンホがプリンを差し出す。
朝倉は受け取る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ほんの少しだけ。
いつもの空気が戻った。
その時、瀬川が遠くから桐生へ小声で言った。
「なあ」
「何だ」
「管理官、さっき高校で嫉妬していたよな」
「してた」
「本人は分かっていたか?」
「どっちが?」
「ミンホ」
桐生は遠い目をした。
「分かっているように見えるか?」
「見えない」
「だろ」
「管理官も認めなさそう」
「死んでも認めないだろうな」
その向こうでは、ミンホが朝倉からプリンの容器を取り返していた。
「多い」
「何が?」
「半分以上食べた」
「お前が少なすぎる」
「半分って言ったじゃん」
「まだ半分残っている」
「器の半分じゃなくて、私の気持ちの半分」
「分かりにくい」
「悠さんが鈍い」
「お前にだけは言われたくない」
「何で?」
「……何でもない」
ミンホは知らない。
朝倉が、自分以外の人間に袖を掴まれている彼を見て、ほんの少しだけ機嫌を悪くしていたことも。
朝倉も認めない。
あれが嫉妬だったということを。
ただ一つ、前日よりも少しだけ二人の距離は近づいていた。
事件は、その距離をさらに大きく変えることになる。




