品川署のガチ恋製造機
「待ってくださーい」
午後三時十二分。
品川区内の商店街を、一台の自転車が猛然と駆け抜けていた。
平日の昼下がりということもあり、通りには買い物袋を提げた主婦や学校帰りの高校生、店先の商品を並べ直している店員の姿がある。その間を縫うようにして走る自転車は、明らかに周囲の安全など考えていなかった。
ハンドルを握っているのは、十六歳の少年。
そして、その後ろを走って追っているのが一人の警察官だった。
「危ないから止まってくださーい」
声だけ聞けば、ずいぶん呑気だった。
怒鳴りもしない。威圧もしない。
むしろ友人に「ちょっと待って」と声をかけているくらいの気軽さである。
だが、問題は速度だった。
速い。
とにかく速い。
「来んなって!!」
少年が振り返って叫ぶ。
その顔が引きつった。
距離が縮まっている。
自転車なのに。
全力で漕いでいるのに。
「前向かないと危ないですよ?」
後ろから走ってくる警察官との距離が、じわじわと縮まっている。
「だから待ってって言ってるじゃないですか」
「なんで追いついてんだよ!?」
「おれ、足速いんで」
「そういう問題じゃねえ!!」
警察官―――チョン・ミンホは笑っていた。
黒髪のショートウルフが風を受けて揺れる。
身長は高くない。むしろ成人男性としては小柄な部類に入るだろう。細身の身体も相まって、遠目には高校生と間違われても不思議ではない。
だが、その身体能力は外見から受ける印象を軽々と裏切る。
角を曲がる。
少年の自転車が八百屋の前を通過する。
ミンホも続く。
買い物客がいる。
前方にはベビーカー。
さらに右から配送用の台車。
少年が一瞬だけ迷った。
右か。
左か。
その一瞬で、ミンホは判断した。
「そっち行ったら危ないですよ」
「うるせえ!」
「じゃあ」
ミンホの笑顔が、ほんの少しだけ深くなった。
「転ばせますね」
「は!?」
次の瞬間、ミンホが加速する。
少年の顔が絶望に染まった。
「いやいやいやいや!!」
自転車の後輪へ手を伸ばす―――ことはしなかった。
代わりにミンホは少年の進路へ先回りするように身体を滑り込ませ、自転車のハンドルへ手をかけると、その勢いを殺しながら歩道側へ誘導した。
急停止。
少年が前につんのめる。
だが転倒はしない。
ミンホが片腕で少年の身体を支えていた。
自転車だけが派手な音をたてて倒れる。
「はい、確保」
「……」
「怪我ない?」
少年は答えなかった。正確には息が切れて答えられなかった。
ぜえぜえと肩で息をしながら、目の前の警察官を見ている。
対するミンホは、多少呼吸が速くなっている程度だった。
「……あんた」
「はい?」
「バケモン?」
「失礼だな」
ミンホは眉を寄せた。
それから少年の自転車を起こしてスタンドを立てる。
「おれ、人間ですよ」
「知ってるわ!」
「じゃあ聞かないでくださいよ」
「自転車に走って追いつく人間いる!?」
ミンホはきょとんとして首を傾げながら自分を指さした。
「ここに」
「ムカつく!」
「元気ですね」
にこにこと笑っている。
少年はしばらく睨んでいたが、やがて諦めたように肩を落とした。
「……逮捕?」
「しませんよ」
「え?」
「お話聞くだけです」
ミンホはそう言って、少年の肩をぽん、と叩いた。
「万引きしたお菓子返して、お店の人に謝りましょう」
少年の表情が固まる。
「……なんで知ってんの」
「お店にいたから」
「いたの?」
「いました」
「取るとこ見た?」
「見ました」
「じゃあなんで逃がしたんだよ!」
捕まえて欲しかった訳では無いが、全速力で逃げようとした労力を考えると割に合わない。ミンホがさらりと答える。
「逃げると思わなかったから」
「警察向いてねえだろ!」
「よく言われます」
「言われんのかよ!」
少年が吹き出した。ミンホも笑う。
ひとしきり笑った少年は気安く問いかけた。
「ミンホさん、インスタやってる?」
「やってますよ」
「教えて」
「嫌です」
「なんで!?」
「警察官と補導された少年っていう今の関係性、一回ちゃんと考えません?」
「ケチ!」
「あとおれのことナンパする前に反省してください」
「ナンパじゃねえよ!」
「じゃあ何?」
「……友達になりたいなって」
ミンホが目を瞬く。
「それはもっと駄目です」
「なんでだよ!」
少年の抗議が、商店街に響いた。
*
「また落としてる」
品川警察署、生活安全課。
帰署したミンホが自分の席へ戻るなり、隣から声が飛んできた。
同僚の瀬川だった。
「何を?」
ミンホは本気で分からないという顔をする。
「人を」
「落としてませんけど」
制帽を壁にかけてからミンホが瀬川を見る。
「さっきの高校生、お前の連絡先聞いてただろ」
「断りましたよ」
「そういう問題じゃない」
向かいの席から桐生も口を挟む。
「お前さ、マジでその顔と距離感どうにかした方がいいぞ」
「顔はどうにもならなくない?」
即答だった。
桐生が黙る。
瀬川も黙る。
二人は同時にミンホを見る。
ミンホは首を傾げた。
本人に他意はない。
自分の容姿が人より整っていることは理解している。
理解はしているのだ。
ただし、それについて謙遜するという発想がない。
「……お前のそういうとこだよ」
桐生が呻いた。
「どこ?」
「全部」
「雑ですね」
ミンホは椅子へ腰を下ろした。
黒髪が頬へ落ちる。
その髪を耳へかけながら、机上の端末を起動する。
追跡で乱れた髪さえ妙に様になってしまうのだから、桐生としては腹立たしい。
チョン・ミンホ。
韓国籍。
日韓ハーフ。
幼少期から日本で育ち、大学卒業後、韓国警察の幹部候補生として採用された。
本来ならばそのまま韓国内で勤務する予定だったが、日本語がほぼ母語同然であること、両国の文化や制度に精通していること、そして何より本人の成績が突出していたことから、日韓交歓職員交流制度の派遣職員として白羽の矢が立った。
任期は三年。
その大半を、この品川署で過ごしている。
現在の所属は生活安全課少年係。
―――帰国まで、残り三ヶ月。
もっとも、本人はそのことを特に気にしている様子もなかった。
「で?」
瀬川が訊く。
「何が?」
「万引きのガキ」
「ああ」
ミンホは端末へ報告内容を打ち込みながら答える。
「十六歳。初犯。家庭環境はちょっと複雑そう。万引きしたのはチョコ二個とグミ。所持金は普通にありました」
「じゃあなんで盗ったんだ」
「友達にやれって言われたみたいです」
ミンホの指が止まる。
先ほどまでの軽い調子が、ほんの少しだけ変わった。
「本人は大したことじゃないって言ってましたけど」
「まあ、その年頃ならな」
「でも、たぶん大したことあります」
桐生が顔を上げた。
ミンホは画面を見たまま続ける。
「『断ったら仲間外れにされる』って言ってたから」
声は明るい。
けれど、目は笑っていなかった。声がわずかに低くなる。
「友達じゃないでしょ、それ」
桐生と瀬川が黙る。
こういうところなのだ。
普段は何を考えているのか分からない。
軽い。明るい。人懐っこい。
そのくせ、少年が何気なく零した一言を聞き逃さない。
「明日、学校側にも確認します。最近急に付き合う人間変わったらしいから」
「もうそこまで聞いたのか」
「はい」
「追いかけ回してた時間込みで?」
「込みで」
「お前ほんと仕事速えな」
入力する速度は一定で乱れがない。視線はモニターに固定されている。
「要領いいんで」
「自分で言うな」
「事実です」
ミンホは不意に顔を上げてにっこりと笑った。
「その顔やめろ、腹立つ」
「嫉妬?」
「違う」
「桐生さんも結構顔いいですよ」
「フォローすんな!」
「褒めたのに」
不満げにミンホが口を尖らせてマウスを意味もなくくるくると動かす。
「チョン」
低く落ち着いた声が、背後から聞こえた。
ミンホの肩がほんの少しだけ止まる。
桐生と瀬川が同時に姿勢を正した。
「朝倉管理官」
ミンホだけが椅子に座ったまま振り返る。
端正な顔立ち。
隙なく整えられたスーツ。
背筋は真っ直ぐ伸び、立っているだけで周囲の空気が引き締まる。
管理官という肩書きだけが理由ではない。
仕事は正確。
判断は速い。
部下を理不尽に叱責することもなく、問題が起きれば責任を引き受ける。
父親が現職の警視総監であるという事実を本人が一度たりとも仕事へ持ち込まない。
清廉潔白。
品行方正。
完全無欠。
そんな評価が、冗談ではなくついて回る男だった。
―――ただし。
「また走ったのか」
ゆっくりと部屋を横切りミンホの横へ。ミンホは座ったままあごを上げて朝倉を見上げた。
「走りました」
悪びれない。朝6時に起きましたと言うのと同列の温度で、当然のように。
「商店街を?」
「商店街を」
「自転車を追って?」
「自転車を追って」
朝倉の眉間に、薄く皺が寄る。
「危険だろう」
「捕まえましたよ」
「捕まえたかどうかを聞いているんじゃない」
「怪我もしてないです」
「それも聞いていない」
「じゃあ何?」
桐生がそっと瀬川を見る。
瀬川も桐生を見る。
始まった。
「お前はもう少し自分の安全を考えろと言っている」
「考えましたよ。車両の通行量と歩行者の位置と逃走方向を見て、最も安全なところで止めました」
「そういう話ではない」
「そういう話じゃないの?」
「違う」
ミンホが首を傾げる。
朝倉は小さく息を吐いた。
そして不意に、ミンホへ手を伸ばした。
その指先が黒髪へ触れる。
「ん?」
ミンホは避けない。
朝倉が髪に絡んでいた小さな葉を取る。
「ついていた」
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
静寂。
生活安全課の一角だけ、奇妙な静寂に包まれた。
桐生は思った。
―――距離感。
瀬川も思った。
―――距離感。
周囲の署員も思った。
―――距離感。
しかし当事者二人だけは何も気にしていない。
「それから」
朝倉が言った。ミンホが眉を上げる。椅子をぎしぎしと前後に揺らし始める。
「昼は食べたのか」
「食べましたよ」
「何を」
「おにぎり」
「何個」
「一個」
人差し指をたててほめろとばかりに胸を張った。
「……」
朝倉が黙る。
「何ですか」
「それだけか」
「十分です」
「足りない」
「おれの胃袋ですよ」
「知っている」
「じゃあいいじゃないですか」
「よくない」
朝倉は持っていた紙袋から何かを取り出してミンホの前に置く。
プリンだった。
ミンホの目が、明らかにそこへ吸い寄せられる。
桐生は見逃さなかった。
瀬川も見逃さなかった。
朝倉は当然見逃さない。
「食べろ」
「……」
「好きだろう」
「……買収?」
「餌付けだ」
ミンホが朝倉を見る。
「管理官が部下を餌付けしていいんですか」
「将来の恋人だから問題ない」
桐生がむせた。
瀬川が顔を覆った。
周囲の署員は誰一人として驚かなかった。
なぜなら、朝倉悠がチョン・ミンホを口説いていることは、品川署ではほぼ公然の事実だからだ。
「まだなってないですけど」
問題は、本人だけが恐ろしく平然としていることだった。
「だから口説いている」
「なるほど」
「納得すんなよ」
思わず桐生が突っ込む。
ミンホが振り返った。
「何?」
「いや……何でもない」
桐生はぐったりと肩を落として首を振った。
ミンホはプリンへ視線を戻す。
しばし逡巡。
そして受け取る。
「ありがとうございます」
「うん」
「でもこれで付き合うとは言ってないですよ」
「プリン一つで付き合えるとは思っていない」
「じゃあ何個?」
「数の問題なのか?」
朝倉が珍しく困った顔をする。
ミンホは吹き出した。
「冗談です」
その笑顔に、近くを通りかかった女性署員が一瞬だけ足を止める。
本人は気づかない。
プリンの蓋を開け、一口。
柔らかな甘さが舌へ広がった。
ミンホの表情が緩む。
「맛있다. (/美味しい)……」
小さな呟き。
朝倉の目が細くなる。
「美味しいか」
スプーンを口に入れたまま、ミンホがぴたりと止まった。
ゆっくり顔を上げる。
「……聞いてた?」
「ああ」
「忘れてください」
「嫌だ」
「なんで?」
「可愛かった」
真顔。
あまりにも真顔で言うものだから、ミンホの方が返答に困った。
「……悠さん、変ですね」
言ってから沈黙。
今度こそ、課内が完全に静まり返った。
ミンホが瞬きをする。
朝倉も動かない。
桐生の目が見開かれる。
瀬川が口元を押さえる。
―――悠さん。
そう呼ぶのは、二人きりの時だけ。
普段は「朝倉さん」。
本人もそれを意識して使い分けていたはずだった。
「あ」
ミンホが気づいて視線だけで周囲を確認する。
全員、聞いている。暇なのか生活安全課。
「……最悪」
小さく呟いた。
耳が少しだけ赤い。
朝倉が笑った。
「何笑ってるんですか」
「いや」
「笑ってるじゃん」
「嬉しかっただけだ」
「だからそういうの普通に言わないでください」
「なぜ?」
「知らない!」
「お前が言ったんだろう」
「うるさい!」
韓国語どころか敬語まで消えている。
瀬川が机へ突っ伏した。
「……これで付き合ってないのおかしいだろ」
「俺に言うな」
桐生も疲れたように返す。
そんな二人のやり取りを無視して、ミンホは残りのプリンを急いで食べ始めた。
機嫌が悪い。
明らかに機嫌が悪い。
けれど朝倉は、それすら楽しそうに見ている。
「チョン」
「何ですか」
「美味いか」
「さっき言ったでしょ」
ミンホは朝倉を見ようともしない。プリンの容器のみを見つめている。
「韓国語だったからな」
「意味分かってたじゃん」
「もう一度聞きたい」
「嫌です」
「そうか」
「……」
ミンホがスプーンを置き、朝倉を睨んだ。
「悠さん」
また。
桐生が天井を仰いだ。
もう駄目だ。
「調子乗らないで」
「分かった」
まったく分かっていない顔で、朝倉が微笑む。
ミンホはますます不機嫌そうに頬を膨らませた。
そのとき、内線電話が鳴った。
空気が変わる。
瀬川が受話器を取った。
「はい、生活安全課少年係――はい」
表情が変わった。
ミンホもすぐに気づく。
プリンの容器を机へ置く。
「どうした?」
桐生が訊く。
瀬川は受話器を耳へ押し当てたまま、メモを取る。
「……分かりました。こちらで確認します」
電話を切る。
「さっきの少年の学校から」
ミンホの笑顔が消えた。
「何かあった?」
「同じ学校で、ここ二ヶ月ほど万引きで補導された生徒が複数いるらしい」
「何人?」
「分かってるだけで五人」
ミンホが立ち上がった。
迷いはない。
「名前出せます?」
「確認する」
「桐生さん、過去半年の同校生徒の補導歴見てもらえます? 瀬川さんは万引き店舗。場所が偏ってるか知りたい」
「分かった」
二人も即座に動く。
先ほどまでプリンを食べながら上司と痴話喧嘩じみた会話をしていた男とは思えない。
朝倉は何も言わず、その横顔を見ていた。
ミンホが端末を操作する。
速い。
画面を切り替えながら情報を拾い、必要なものだけを頭へ入れていく。
いくつかの情報を追い動いていた目がぴたりと止まった。
「……やっぱり」
低く呟く。
「何か見つけたか」
朝倉が画面を覗き込む。
「今日の子が言ってたんです。『みんなやってる』って」
「それが?」
「おれ、最初は強がりだと思ってました」
ミンホは画面を指差す。
「でも、本当に“みんな”だったら?」
朝倉の表情が変わる。
桐生が過去記録を出した。
「ミンホ。いたぞ。去年まで遡ると八人」
「店舗は?」
「コンビニ、ドラッグストア、スーパー……バラバラだな」
「盗品は?」
「菓子、化粧品、酒……」
瀬川が途中で止まる。
「……待て」
「何?」
「全員、同じ先輩の名前出してる」
ミンホが顔を上げた。
静かになった。
その瞳から、さっきまでの柔らかさが完全に消えている。
「名前」
「瀬尾拓真」
瀬川が告げる。
ミンホはその名前を記憶する。
「高校生?」
「いや」
桐生が画面をスクロールする。
そして眉を寄せた。
「二十歳だな」
「卒業生か」
朝倉が言う。
「たぶん」
ミンホは椅子の背に掛けていた上着を取った。
「どこへ行く」
「今日の子にもう一回話聞いてきます」
「待て」
「時間経つと口裏合わせされるかもしれない」
「チョン」
朝倉の声が少し低くなる。
ミンホが止まった。
「一人で動くな」
「……」
「桐生と行け」
「おれ一人で十分です」
「能力の話はしていない」
「じゃあ何の話?」
「お前が一人で何でも出来ることと、一人で何でもしていいことは別だ」
ミンホは黙った。
朝倉も視線を逸らさない。
やがてミンホが小さく息を吐く。
「……分かりました」
「よし」
「桐生さん」
「はいはい。お供しますよ、王子様」
「誰が王子様?」
「お前」
「どっちかっていうと悠さんじゃない?」
桐生が固まる。
また悠さん。
しかも本人はもう気づいていない。
朝倉は何も言わない。
ただ、わずかに口元が緩んでいる。
「朝倉さん」
ミンホが振り返った。
今度は戻った。朝倉さん。
「行ってきます」
立ち上がったミンホは、机の上に広げていた資料を手早く揃え、必要なものだけを薄いファイルへ滑り込ませた。さっきまでプリンの容器を前にしていた人間と同一人物とは思えないほど、仕事へ移る時の切り替えには迷いがない。
肩から鞄を掛け、桐生が準備を終えるのを待ちながら、ふと思い出したように振り返る。
「ああ」
朝倉が応じる。
その視線は、ミンホが立ち上がってからずっと彼を追っていた。
本人だけが、それに気づいていない。
ミンホは空になったプリンの容器を指先で持ち上げて見せた。
「プリン、ごちそうさまでした」
「また買っておく」
あまりに自然な返答だった。
まるで明日の予定でも確認するような口調で言われて、ミンホは一度だけ瞬きをする。それから、黒い瞳に悪戯っぽい色を浮かべた。
「餌付け?」
「口説いている」
朝倉もまた、まったく迷わない。
数席向こうで書類を確認していた瀬川の手が止まった。
桐生に至っては、出発前にペンを胸ポケットへ差そうとした姿勢のまま固まっている。
当のミンホだけは大して動じなかった。
「勤務中ですよ」
「知っている」
「職権濫用」
「プリンを買う権限は管理官の職権に含まれていない」
いかにも正論を述べていますという顔で返され、ミンホは呆れたように目を細めた。
「屁理屈」
「事実だ」
「そういうところ、ほんと面倒」
言葉とは裏腹に、ミンホの唇は笑っている。
朝倉に対してだけは、こうして遠慮なく悪態をつく。敬語が崩れることもあれば、機嫌次第では子どものように露骨な顔をすることもある。
それを自分が許しているという自覚も、それがどれほど特別なことなのかという自覚も、今のミンホには、おそらくない。
「じゃ、行ってきます」
「ああ。気をつけろ」
「学校行くだけですよ」
「それでもだ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はーい」
「チョン」
「ちゃんと行ってきますってば」
ミンホは笑いながら片手を振り、桐生とともに生活安全課を出ていった。
閉まりかけた扉の向こうから、桐生の「お前、管理官相手に強すぎない?」という呆れ声と、それに対する「悠さん細かいんですよ」という返事が聞こえる。
―――悠さん。
その呼び方に、朝倉の目元がほんのわずかに和らいだ。
瀬川は見逃さなかった。
もちろん本人へ指摘するほど野暮ではない。
扉が完全に閉じる。
つい先ほどまでミンホがいた一角だけ、妙に静かになった気がした。
実際には何も変わっていない。電話の音も、キーボードを叩く音も、紙を捲る音も絶えず続いている。午後の生活安全課はいつも通り慌ただしく、誰か一人が席を外した程度で静まり返るような場所ではない。
それなのにあの男がいなくなると、少しだけ空気の密度が変わる。
そう感じるのは、たぶん瀬川だけではない。
「管理官」
思わず、声が出た。
「なんだ」
朝倉はまだ、閉じた扉の方を見ていた。
「三ヶ月ですよね」
その瞬間、朝倉の表情が止まった。
ほんのわずかな変化。
知らない人間なら見落とす程度のものだったが、同じ職場で日々顔を合わせている瀬川には十分だった。
「……何がだ」
低い声。
瀬川は口にしてから、しまったと思った。
けれど今さら取り消せない。
「ミンホの任期」
朝倉は答えなかった。
窓の外では、傾き始めた午後の日差しが隣の庁舎の窓に反射している。白っぽい光がブラインドの隙間から差し込み、朝倉の机の上へ細長い影を落としていた。
三年間、そう聞けば長い。
けれど、過ぎてしまえば驚くほど短い。
韓国警察との人事交流で日本へ派遣されたチョン・ミンホの任期は、あと三ヶ月で終わる。
日本で育った彼にとって、この国へ来ること自体は大きな環境変化ではなかっただろう。それでも所属は韓国警察であり、この三年間はあくまで期限つきの派遣だ。
任期が終われば帰る。
韓国警察へ復帰し、向こうで正式なキャリアを歩み始める。
将来を嘱望された幹部候補生なのだから、帰任後は今まで以上に忙しくなる可能性も高い。
そのことをこの署で朝倉以上に正確に理解している人間はいないのだろうと、瀬川は思っていた。
理解しているからこそ触れない。そんなふうにも見えた。
「だから」
瀬川は少し迷った末に、恐る恐る続ける。
「そろそろ、本気で焦った方がいいんじゃないですか」
「何をだ」
「何をって……」
瀬川は言葉を失った。
あれだけ毎日のように堂々と口説いておいて、いったい何を言っているのだ、この人は。
プリンを渡しては「餌付けではなく口説いている」と宣言し、食事をしたかと世話を焼き、何かあれば誰より先にミンホの様子を見る。
署内で朝倉悠の好意を知らない人間を探す方が難しい。
おそらく。知らないのは一人だけ。
好意を向けられている当人である。
「……ミンホのことですよ」
「分かっている」
「分かってるんですか」
「俺を何だと思ってる」
「今ちょっと分からなくなりました」
朝倉が冷たい目を向ける。
瀬川は咳払いをして視線を逸らした。
「だって、あと三ヶ月ですよ」
「そうだな」
「三ヶ月経ったら、韓国でしょう」
「ああ」
淡々とした返答。
朝倉の視線は再び扉へ向いていた。
もうそこにミンホはいない。
「焦ってどうにかなるなら」
しばらくして、朝倉が静かに言った。
「とっくにどうにかしている」
その声には、いつもの揺るがない自信とは少し違うものがあった。
「……それは、まあ」
「本人にその気がない」
「そうですね」
「俺を上司としてしか見ていない」
「それはどうでしょう」
思わず口から出た。
朝倉が振り向く。
「何?」
「いえ」
瀬川はすぐに自分の端末へ向き直った。
「何でもないです」
「瀬川」
「仕事します」
「今のはどういう意味だ」
「管理官も仕事してください」
「お前な」
聞こえないふりをして、瀬川はキーボードを叩き始める。
言わないでおこう。それくらいは本人たちが自分で気づくべきだ。
確かに、チョン・ミンホは朝倉悠を恋愛対象として見ていない。
少なくとも本人はそう思っている。
けれど、機嫌がいい時にふっと韓国語が零れること。
苛立てば敬語が崩れること。
疲れた時には、普段より少しだけ他人との距離が遠くなること。
逆に、本当に気を許した相手には、その距離が驚くほど近くなること。
そして、普段は「朝倉さん」と呼ぶ男を油断した時だけ「悠さん」と呼ぶ。
それを許されている人間がこの署には一人しかいない。
傍から見ていれば嫌でも分かる。
チョン・ミンホにとって朝倉悠はもう十分、特別だ。
問題があるとすればそれを恋愛感情へ結びつける回路だけが、本人の中できれいに抜け落ちていることだった。
瀬川はこっそり朝倉を見る。
朝倉はもう仕事へ戻っている。
いつもの顔、いつもの完璧な管理官。
ただミンホが空にしたプリンの容器だけがまだ、その机の端に残っていた。
*
「桐生さん」
「ん?」
署の階段を下りながら、ミンホが呼んだ。
その声だけで桐生は何となく察した。
「さっきの子の件」
「ああ」
ミンホは一段ずつ階段を下りていく。
先ほどまで朝倉相手にプリンだの餌付けだのと笑っていた男と、同じ人間とは思えない。
顔つきそのものが変わったわけではない。
眉間に皺を寄せたわけでも、険しい目をしたわけでもない。
ただ笑っていない。
それだけでミンホの持つ雰囲気は大きく変わる。
普段は人懐っこさの奥へ隠れている、鋭い観察眼。
些細な違和感を拾い、無意識のうちに組み合わせ、ひとつの可能性へ収束させていく頭の速さ。
変貌した光が黒い瞳の奥へ静かに現れていた。
「たぶん」
ミンホは前を向いたまま言う。
「あれ、万引きだけじゃ終わらないです」
桐生の表情からも笑みが消える。
「なんでそう思う?」
「勘」
「お前の勘、嫌なんだよな」
即座に返すとようやくミンホが横を見た。
「なんで?」
「当たるから」
「いいことじゃん」
「悪い方ばっかりな」
桐生は肩を竦めた。
ただ、本当は分かっている。
あれは単なる勘ではない。
ミンホ自身が、それを言語化するより早く違和感を拾っているだけだ。
少年の話し方、視線、盗んだ物、友人関係、怯え方。
警察に捕まったことよりも誰かに知られることを恐れていた態度。
おそらくその全部をミンホは見ている。
「どこが引っかかった」
桐生が尋ねる。
ミンホは少し考えた。
「捕まった時」
「うん」
「怒られるのは、そんなに怖がってなかった」
「ああ」
「でも」
階段を下りきる。
「誰と一緒にいたとか、誰に言われたとか。そこ聞いた時だけ、顔変わった」
やっぱり見ていた。
「それと」
ミンホは続ける。
「盗った物、本人が欲しかった感じじゃない」
「菓子だろ?」
「今日はね」
「今日は?」
「学校から聞いた過去の件、ちゃんと並べて見たい」
ミンホの歩調が少し速くなる。
「もし何人かいて、盗ってる物に傾向がなかったら」
「誰かに指定されてる可能性がある?」
「あるかも……あの先輩とか」
「……なるほどな」
「まだ分かんないですけど」
そう言ってミンホは少しだけ笑った。
その笑みは朝倉とプリンを挟んでくだらない言い合いをしていた時とは違う。
桐生は、それを知っている。
ミンホはよく笑う。
人懐っこく、何でもないことのように。
だからこそ初対面の人間は勘違いする。
笑っているから優しい。
笑っているから機嫌がいい。
笑っているから無害。
そのどれも、必ずしも正しくない。
こいつは笑いながら相手を見ている。
時には怖いほど冷静に。
二人が一階へ下りると、署の自動ドアが開いた。
夕方の光が一気に差し込んでくる。
夏の陽はまだ高く、アスファルトには昼間に蓄えた熱が残っていた。通りを走る車の音に混じって、遠くから蝉の声が聞こえる。
冷房の効いた署内から外へ出た瞬間、むっとした空気が肌を包んだ。
「暑」
ミンホが目を細める。
「韓国も暑いだろ」
「暑いものは暑いです」
「はいはい」
ミンホは眩しそうに片手を目元へ翳した。
その横顔だけを見れば、どこにでもいる少し華奢で恐ろしく顔の整った若者だ。
警察官と言われなければ大学生と間違える人間も多いだろう。
「まあ」
ミンホの形のいい唇がふっと笑う。
「子ども使って悪いことしてる大人がいるなら」
軽い調子。まるで今日の夕飯の話でもするように。
「捕まえればいいだけでしょ」
「……そうだな」
「抵抗されたら」
「待て」
桐生は即座に止めた。
ミンホが不満そうに振り向く。
「まだ何も言ってないです」
「お前が言おうとしたことが分かった」
「すごい」
「褒めてない」
「長く一緒にいると分かるんですね」
「分かりたくなかったよ、この方向では」
ミンホが笑う。
「殴るなよ」
「正当防衛なら?」
「必要最低限」
「死ななければ?」
「必要最低限!」
「一発くらい」
「駄目!」
「足かけるだけなら」
「状況による!」
「じゃあ状況次第ではいいんだ」
まったく悪びれない。
「そういう意味じゃねえ!」
声を上げた桐生にミンホは堪えきれず楽しそうに笑った。
「冗談ですよ」
「お前の場合、どこまで冗談か分かんねえんだよ!」
「失礼だなあ」
「日頃の言動を振り返れ!」
「ちゃんと警察官してるでしょ」
「仕事だけはな!」
「だけ?」
ミンホが心外そうに眉を上げる。
その顔が妙に幼く見えて、桐生はまたため息を吐いた。
とんでもない男だと思う。
韓国警察からやってきた、将来を嘱望された若い幹部候補生。
仕事ができる。
恐ろしく頭の回転が速い。
身体能力も高い。
人を見る目もある。
少年相手には驚くほど根気強く、相手が大人でも必要なら一歩も引かない。
そして、顔がいい。
本人もそれを否定しない。
人懐っこく、距離が近く、誰にでも自然に笑いかける。
すぐに名前を覚える。
些細な話も覚えている。
落ち込んでいる人間がいれば、本人より先に気づく。
それなのに自分へ向けられた好意だけは、信じられないほど鈍い。
だから本人には一切そのつもりがないまま会う人間を次々と懐柔していく。
ガチ恋製造機。
誰が最初にそう呼び始めたのか桐生は知らない。
ただ、言い得て妙だとは思う。
「桐生さん」
「何だよ」
「置いてくよ」
気づけばミンホは数メートル先にいる。
「お前が勝手に速いんだよ!」
「早く行きましょう」
「はいはい」
「今日中にもう一回、話聞きたい」
「分かったよ」
追いついて二人で歩き出す。
夏の夕方、街にはまだ明るい光が残っていた。
その先に何が待っているのかこの時はまだ誰も知らない。
ただ一つだけ決まっていることがあった。
品川署生活安全課少年係。
チョン・ミンホ。
韓国警察から派遣された超優秀な幹部候補生。
生意気で人懐っこく、人をたらし、誰かの痛みにはひどく敏感なくせに自分へ向けられる好意にはどうしようもなく鈍い。
そして時々笑顔のままとんでもなく物騒なことを言う。
帰国まであと三ヶ月。
ミンホにとってそれはまだただの予定だった。
任期が終われば帰る。それだけ。
この署で出来た関係も、仕事も、朝倉悠という男もその延長線上にあるものだと思っている。
チョン・ミンホはこれから知る。
残された三ヶ月のあいだに、追いかけた一人の少年がひとつの事件へつながることを。
毎日隣にいることを当たり前だと思っていた相手がいつの間にかいないと困る人間になっていくことを。




