ペール・グリーン 3/3
クラシック風の短い旋律がポケットから鳴りだす。
「もしもし近藤さん、どこにいるの」
「ハチ公前にいるよ」
「私は改札前。すぐそっちに行くから」
「そんなに急がなくても約束の時間まで15分くらいあるよ」
「待たせるのが嫌いなのよ」
というわけで、すぐに現れた奈子さんはパッチワークのシャツにスカート、ぴったりのGジャン。腰にはウエストポーチ。バンドメンバーが写真でこんな服を着てたなと思わせる格好だった。ファンの正装だろうか。裕太君は先日と同じジーンズとジャケットだ。シャツだけは春らしいピンクを選んでみた。さて、これで良かったのだろうか。
「えーと、渋谷公会堂って行ったことないんだよね。公園通りのほうだっけ」
「そうですね。でもその前に精算しましょう。チケット代以外にも交通費とか使ってるんじゃないですか」
「3,500円だけでいいよ。記録してない経費は精算されないものだから」
「それなら飲み物代くらい出しましょう」
それから歩いて移動した。やがてモダンなベージュの壁面が見えてくる。
「あれは何をしてるんだろう」
「ああ、ファン同士の名刺交換ですね。早めに来て手当たり次第にやるんです。私はあまり好きでないです」
名刺にしては大きい。B6くらいありそうだ。存分に自己アピールしてバンドへの愛を語るとそれくらいになるのだとか。これも知らない文化だなと裕太君は思った。
「ずいぶん並んでるけどみんなファンなんだ」
「そりゃそうですよ。完売だから人数はキャパと一致するはずです」
「なるほど」
行列はみんな似たようなファッションの男女だ。自分は場違いではないだろうか。ぼんやりしていたら奈子さんはこう言った。
「大丈夫ですよ。それより今日は指定席だから急がなくても座れます。物販に寄りますか」
「何があるの」
「えーと、音源とTシャツが基本。それからキーホルダーや携帯ストラップやステッカーも売ってますよ。私は全部持ってますけどね」
音源はアルバムとシングルが1枚ずつ、知らないレーベルから出ているのを奈子さんに借りて聴いた。
ファンなら全部持っている、だから物販は混み合っていなかった。すんなりとアルバム Pale Green Garden を手に入れて戻ると奈子さんも何かを買っていた。
「これ、今日のお礼です。それとこれもあげます」
「携帯ストラップと雑誌の切り抜きみたいな、これはなに」
「ストラップはライブ会場でしか買えないんですよ。だから記念になるでしょう。それから切り抜きは着メロです」
「ありがとう。でも着メロって」
「D319の説明書は読んでないんですか。自分で曲を入れて設定できるんですよ。数字は音楽雑誌に載ってるんです」
「ごめん。帰ったら説明書を見てみる」
「謝らなくてもいいですよ」
着席して暗いステージを眺めていると、小さな音で音楽が聴こえてくる。ペール・グリーンの曲ではない。
「ビートルズだ」
「イエスタデイですね。こういう待ち時間はバンドメンバーが選んだ曲を流したりするんですよ。バンドの曲だとこれから演るのとかぶっちゃうでしょう」
「へえ。そういうことも知らなかった」
やがてステージに滑り込むようにメンバーが入場して位置に着く。楽器を受け取りながらスタッフと小声で話したりしているようだ。客席が静まり返り、スポットライトが中央のシンガーを照らし出す。
静かな拍手とともに曲が始まる。意外なことにそれはアカペラだった。4小節ほどを歌ったところでギター、ベース、ドラムが順番に入ってきた。それぞれが勝手にまちまちな演奏をしているようで、うまく噛み合っている感じ。不思議な曲だ。
「これはオープニングでしか演らないの。アルバムとはぜんぜん違うでしょう」
「演奏中におしゃべりしてもいいの」
「そんなの自由でしょう」
演奏が終わるとステージ全体が明るくなってMAHOが前に出る。
「こんばんは、ペール・グリーンです。今日はこんなにたくさんの人が集まってくれて、本当にありがとうございます。ここは私たちにとってすごく大きなマイルストーンです。でもゴールじゃなくて、ここからまた始めていきたいと思ってるんです。今日は楽しんでください」
万雷の拍手とともに次の曲が始まる。
いったいどういうジャンルなのだろう。歌謡曲かと思えば王道なギターソロがあり、ギターとベースが掛け合ったり、ドラムだけが違う拍子で叩いていたり、どうも実験的だ。歌唱もささやいたり叫んだりと自在に変化している。ちらりと奈子さんを見ると心底楽しそうな笑顔で額には汗が浮いていた。なるほど、彼女はこういう音楽が好きなんだな。それは初めてみる表情だった。
「どうでしたか。ペール・グリーンは」
「ええと、うまく言えないんだけど。アルバムとはぜんぜん違った。臨場感というか迫力というか」
「そりゃあライブだもの」
「クラシックとロックを同時に聴いてるような感じっていうか」
「ふむふむ」
「それをうまく聴かせられるのはすごいのかもしれない。そう感じた」
裕太君は適当に流したらいけないと思って、なんとか説明しようとするのだが、うまく言葉にすることができなかった。
「何回も聴いたら良さがどんどんわかるようになるよ。私はそう思うよ」
一杯だけビールで乾杯して駅で解散。帰宅途中で電車を降りて、春の夜を歩く裕太君は幸福な気分を味わっていた。
「へえ、これが着メロというやつですか」
「音楽雑誌に曲データが載ってるんです。数字の羅列です。それを打ち込んだら着信メロディに設定できるんです」
意外と興味があるのか、山下さんだけでなく美香さんや斉藤姉妹、真子ちゃんに社長までもが携帯電話を見に来る。社長は興味本位でなく導入の参考にする意図がありそうだ。
「音楽データを再生する装置と考えたらMIDIやMODとも共通点がありますね。でもこれって単旋律ですよ。音楽を再現しきれないんじゃないですか」
「それはそうなんだけど。本物を聴いたことがあるから着メロはこれでいいんですよ。音を聴いたら思い出せるじゃないですか」
「そうかもしれないですね」
社長が画面やボタンをしげしげと見ながらこんなことを言った。
「いつかは音源がまるごと入るんじゃないかな。そうしたら打ち込まなくても聴けるよ」
「またそんな夢みたいなことを」
D319をポケットにしまうとき黄緑色の携帯ストラップがゆらゆらと揺れていた。




