ペール・グリーン 2/3
土曜日の10時すこし前にパソコンの前で待機する。インターネット用に電話線が直結されたAptivaには電話機もつながっていて通話することができる。今日はこれをネット以外に使うのだ。
彼女によれば買えるまで何時間もかかることもあるらしい。そしてようやく繋がっても売り切れていたらそれまでだ。こんなことに一日を費やすつもりはないので制限時間を決める。3時間。それだけやってダメなら謝ればいい。たぶんそれでも笑ってくれる。
記事には自動で電話をかける方法がいくつも書いてあった。プログラムでモデムを制御する方法、プッシュホンの音をパソコンのスピーカーから出して電話する方法、標準のハイパーターミナルを使う方法。
ハイパーターミナルのプロパティを開いて話し中のリダイヤルを2秒間隔に設定する。社内でATコマンドを使うのは草の根BBSで遊んでいる島田君くらいだが、彼も自分がいつも使うコマンドしか覚えていない。今回は誰も頼りにならない。
ATDT 03xxxxxxxx
時間ちょうどにEnterキーを押すとモデムが仕事を開始した。話し中... 2秒後にリダイヤルします... ツーピポパポピポパ...
奈子さんが好きだというバンド、ペール・グリーンの写真には4人のメンバーが写っている。フロントが若い女性、リードギター、ベース、ドラムは男性。古着みたいな格好で髪型も変でない。彼らの音楽を裕太君はまだ知らない。激しい感じじゃなさそうで良かったなとだけ思った。フロントマンが持っている淡い緑色のギターに白いマークのようなものが描かれていることに気が付いた。奈子さんが落としたアクセサリーに同じマークが入っていた気がした。
缶コーヒーをちびちび飲みながらじっとしていると寒さを感じ始めた。電気ストーブが足先をなぐさめてくれている。ただ待つだけというのも苦痛なものだ。これなら手作業で電話したほうが良かったのでは。
プッ。つながった。
2時間後に今までと違う音を聞き取った裕太君は即座に受話器を取って耳に当て、同時にスペースキーを何度も叩いてモデムを止める。
「こちらは電子チケットぴあ、自動音声応答システムです。ご希望のチケットのPコード、6桁を押し、最後にシャープを押してください」
さてこれからどうしよう。自分の車を持っていないので週末はかえって動きがにぶくなるのだ。店に電話したらいるだろうか。それとも本人も自宅から電話をしているか。私用で店に電話をかけるのはあまり良くない。
悩んだすえ、地下鉄で店まで行ってみることにした。いなければ伝言を残しておけばいい。
杉浦文房具店に近付くとガラスの外から奈子さんの横顔が見えた。良かった。ここにいたなら自分でチケットを取れた可能性はない。
「あれ、近藤さんどうしたんですか。今日は私服じゃないですか」
ジーンズに古いボタンダウンシャツ、地味なジャケット。言われてみたら、こんな格好で客先に寄ったことはなかった。
「チケット取れたよ」
「ええ、本当に電話してくれたんですか。びっくりです。2時間、いえ3時間くらいかかってますよね」
奈子さんが驚いた表情で時計を確認している。がんばったのはパソコンですとは言わない。説明が面倒だったから。
「たいしたことはしてないよ」
「ありがとうございます。今日は手持ちのお金があまりなくって、チケット代は次回でいいでしょうか」
「じゃあ支払いだけ先にしておくよ。ぴあスポットに寄って帰る」
「よろしくお願いします。楽しみですねー」
思わずガッツポーズしてしまった裕太君を見て奈子さんがまた笑った。
「ところで携帯の番号を交換しましょうか。待ち合わせで必要ですよね」
「会社のPHSしか持ってないんです。でもこれって私用で使うのはまずいんですよね」
休日でも念のため持ち歩いているPT-101をポケットからそっと取り出して彼女に見せてみる。
「そんな旧式のを持たされてるんですか」
「買い替えの話は出てるけど。これでも問題なく使えてますよ」
「私用で使えないって言ったばかりじゃないですか。困りましたね。ちなみに私のはこれです」
エプロンの大きなポケットから取り出したのはデジタルミニモD319。PHSではなく携帯電話だ。三角形のストラップはあのアクセサリー。
「携帯なんて持ってるんですね」
「今どきは珍しくないよ。近藤さんも買いませんか。便利なんですよ」
「そんなこと言われてもね」
今まで持ってなくて困ったことはない。そんなものを買っていったい誰と通話するのか。
「どうしたんですか黙っちゃって。近藤さん、おーい」
「買うよ」
「えっ」
「携帯電話ってすぐ買えるものなの。書類とか必要なら教えてよ」
隣席の山根さんが興味深そうに携帯電話を見てきた。
「それって携帯電話ですか。自分用に買ったんですか」
「今どきは珍しくないよ。やっぱりないと困ることがあるだろうから」
「私はポケベルで十分ですけどねー」
そうなのだ。会社支給のポケベルを取り上げられてPHSを渡された山根さんは、わざわざ自分でポケベルを購入したのだ。
「必要十分の美学ってものがあるじゃないですか。裕太さんが必要なら別に文句なんてないですよ」
「会社のPHSもいずれ新しくなるよ。山下さんが地方でPHSがすぐ圏外になるって言っていたから、あの人だけ携帯になるかもな」
「えっそうなんですか」
「まだ何も決まってないよ」
仕事は準備が肝心。なので裕太君はバンドについてインフォシークで調べてみることにした。キーワード欄にペール・グリーンと書き込んで検索。結果は30件、これは思ったより多いぞ。
ほとんどが熱心なファンが自分の好きなバンドを紹介するもの。ライブ体験記、楽曲分析、バンドのプロフィール。
1995年に下北沢で結成。都内を中心に活動。関西のイベントに出演。フロントマンは女性のMAHOでジャズマスターを持つ。歌うときとギター演奏で性格が変わる。どう変わるのかは書いてない。それからリードギターのSHINJIは複数のバンドを掛け持ちするテクニシャン。このバンドでは早弾きはしない。ベースのKENはあまり動かないタイプ。ドラムのJACKはリズムキープに専念するがソロをやることもある。楽曲は多様でポップで叙情的。対位法やポリリズムが随所に入る。デビューシングルの Stray Cat は代表曲とみなされている。
ファンの集まる掲示板ではチケットの売買も行われていた。都内在住の19歳です。2F席が1枚余ってますのでチケット代と手数料のみの当日渡しでいかがでしょう。これは裕太君の知らなかった世界だ。




