生きる希望の為に
空は灰色だった。
三万の合同軍が進軍するたび、大地は鈍く震える。鎧が擦れる音、車輪を引く音、魔導士たちが呪文を確認する低い声。それらが混ざり合い、静かな緊張を生み出していた。
魔物王国ディッザールまで、あと5キロ。
誰もが武器を握り直す。
ユーゴーが小さく笑った。
「リン姉、そろそろ仕掛けてきますかね」
エルリンは前方を見据えたまま答える。
「そうね、気を抜いちゃダメよ……って、リン姉?」
思わず苦笑する。
「いつからそんなあだ名を?」
「エルリンって言いにくいじゃないですか」
そのやり取りに、隣を歩くリュイも少しだけ口元を緩めた。
しかし、その空気は斥候の到着で一瞬にして消える。
「報告! 二方向より魔物軍接近! 総数約一万八千! 飛行幻獣多数!」
将軍は即座に命令を飛ばした。
「進軍速度を維持! カタパルト前進! 魔導士隊、迎撃準備!」
止まれば包囲される。
だから突破するしかない。
やがて地平線が黒く染まった。
ゴブリン、オーガ、オーク、トロール。
その上空をレッサードラゴンの群れが旋回し、咆哮が戦場全体を震わせる。
次の瞬間。
空気を裂くような轟音。
巨大な火球が空を裂き、ドラゴンブレスが大地を焼いた。
炎に包まれた兵士が叫びながら倒れ、魔導士の放つ氷槍が飛行幻獣を貫く。
投石機から放たれた巨岩が魔物の集団を押し潰し、その衝撃で地面が揺れた。
ランドール史上最大級の戦いが始まった。
エルリンは両手剣を握り直す。
エルフらしい細身の身体に似合わない巨大なロングソード。
しかし、その剣は彼女の手の中で羽のように軽かった。
身体強化術。
妖精魔法。
そして、長年の実戦で磨いた剣技。
一体。
二体。
五体。
魔物が次々と倒れていく。
返り血が金色の髪を赤く染める。
傷が腕を裂く。
肩を爪がかすめる。
それでも止まらない。
止まれば死ぬ。
止まれば仲間が死ぬ。
巨大なトロールが棍棒を振り下ろした。
地面が砕ける。
エルリンは横へ跳び、その勢いのまま剣を振り抜いた。
身体強化術で加速した一撃。
銀色の軌跡が走る。
トロールの巨体が静かに崩れ落ちた。
しかし、その向こうにはさらに数十の魔物。
終わりが見えない。
ふと、一瞬だけ家族の顔が浮かぶ。
安全な地方へ送り出した、小さな家。
食卓を囲む笑顔。
「おかえりなさい」
帰ると誓った約束。
昔の自分なら違った。
「ランディルの希望になる」
そう誓い、自分の命すら惜しまなかった。
だが今は違う。
守りたいものがある。
帰る場所がある。
だから、生きなければならない。
エルリンは剣を構え直し、大声で叫んだ。
「生きて、生きて帰るんだ!」
その声は周囲の兵士たちにも届いた。
立ち止まりかけた兵士が再び槍を構え、
傷ついた剣士が立ち上がり、
魔導士が最後の魔力を振り絞る。
希望とは、奇跡ではない。
絶望の中でなお前へ進もうとする意志だった。
血と炎に包まれた戦場で、金髪のエルフは巨大な剣を振るい続ける。
「ランディルの希望」を目指した一人の戦士は、
世界を救うためではなく、
もう一度、大切な人たちと笑って会うために、
終わりの見えない戦場を駆け抜けていた。




